第四章 彼女への述懐
フォリアが刺客に襲われる日より、四ヶ月ほど前――。
彼女から穏やかではないながらも茶葉を手に入れたスレイは、ヴィレルの元を訪ねるため、城の外れに来ていた。
ヴィレルと協力関係になり、早幾月か経つ。
彼とフォリアを交えずに接触したのは、ストロファード邸での事故の明くる日のことだ。
彼女がシャロンと部屋を出ていった後、彼は怪我の具合を診察するために現れた。
手早く怪我を診て包帯を換えたのち、立ち去ろうとしたのを引き留めたのはスレイの方だった。
落ちてきたシャンデリアについて尋ねると、やはりと言うべきか、人為的に細工された跡があったらしい。
それまで、フォリアに協力しつつもラシエルが暗殺された可能性については懐疑的だったスレイも、考えを変えた。
王族が――、フォリアが狙われているのではないかと仄めかすと、ヴィレルと手を組むのは難しいことではない。
彼が信用できると判断したのは、むしろあの事故が起こったからだ。何かしらに関与しているなら、怪しまれるような行動は避けるだろう。ラシエルを葬ってのけるほど周到な人物ならなおさらだ。
それ以降、彼とは定期的に接触しているが、まだフォリアへはそのことを報告はしていなかった。彼女はヴィレルを疑っている。その状態で伝えても、冷静な判断は出来ないだろうと思ったからだ。
スレイは庭を抜けて、薬草園に足を踏み入れる。医官や城抱えの研究者たちが調査などのために管理しているその場所は、存在こそ当然知っているが、足を踏み入れたのははじめてだった。
スレイの目には雑草にしか見えない薬草たちが、等間隔に生えている。向こうには、温度変化に弱いものを育てる温室が見えた。
スレイの目的地は、その隣に建っている研究棟だ。
「これは、宰相閣下」
「……ストロファード卿」
突然かけられた声に驚いて下を見ると、そこには目当ての人物がいた。
白衣姿のまま手を泥だらけにして庭いじりのようなことをする、貴族らしからぬ格好をしたヴィレルがしゃがみこんでいる。
予想外の彼の姿に、スレイは瞠目したまま彼を見つめ返していると、彼ははっとしたように自身の姿を見下ろした。
「これは、小汚ない格好で申し訳ない……。何か御用でしたか?」
よく見ると、彼の言葉通り手だけでなく服も土や泥で汚れている。
立ち上がって手の土を払った彼は、どうそとスレイを中へ通した。
フォリアの母が王妃になったのと同時期に職務の中心を研究に移行したようで、今は主にこちらにいるらしい。協力を決めた時に、何かあればこちらへと言われていた。
研究棟の中に入ると、しんとしていて人の気配があまり感じられない。
ここに所属する人間は、基本的に部屋に籠りっぱなしだというので、そのせいだろう。
時折、何かが割れる音がしてスレイはドキリとしたが、いつものことなのかヴィレルは器具を落としたのでしょう、と気にも留めなかった。
彼は自身の部屋にスレイを案内する。
中は雑然としていて、色々なものが転がっていた。書籍やガラス製の容器はもちろんだが、何に使うのかよく分からない置物のようなものまである。
「すみません、少し汚いですが」
そう言ってスレイに普段は彼自身が座っているらしき椅子を差しだした。ヴィレルの方は物置と化している別の椅子を空けて、それに座る。
「それで、本日は如何なさいました?」
「これを調べていただきたい」
スレイは傍らの鞄に入れていた茶葉の瓶を取り出した。
ヴィレルは目を眇めた後、その瓶を手に取る。丁寧な手付きで蓋を開け、中から香る匂いに鼻を寄せた。
「これは……、陛下――先王陛下の?」
スレイは頷く。
「これが、どうされました?」
「毒性の有無、それからラシエル様の普段服用していた薬類との関係を全て検査してください」
「……それは構いませんが。ひと通りのことは仕入れの際に済ませているはずですよ」
「分かっています。ですが、念のため。万に一つの可能性も消しておきたいのです」
「なるほど」
スレイ自身、この茶が原因だと思っているわけではない。だが、ラシエルの死はフォリアと関係のないところで起こったのだ、ということを証明するには、必要な作業だった。
「あ、お茶もお出しせず申し訳ありません」
瓶の蓋を閉め、戸棚の奥にそれをしまったヴィレルは、ハッとしたように言った。
その足で、ポットを出してくると、続き部屋の炊事場で水を入れたそれを火にかけた。
ヴィレルはその部屋にある棚を探って、揃っていないカップを二つ取り出している。
「すみませんね……、普段客など来ないものですから……」
湯が沸くまで待つ間、沈黙が落ちた。彼の部屋は二階に位置し、窓から庭園が見渡せる位置にある。だが、その窓も閉めきられ、積み上がった荷物の類で半ば埋められているため、部屋の中は些か暗い。
暫くして二つのカップ――、いや、カップと実験用具らしきガラスの容器を手にしたヴィレルが戻ってくる。カップの方をスレイに渡した彼は、元の席に戻ってガラス容器に口をつけた。
「ストロファード卿、では薬類の影響はなかったと思ってよいでしょうか」
スレイも茶を一口飲んだ後、話を再開する。
「そうですね……。とはいえ、絶対とは言い切れませんが。こちらが探知できない毒物があるかもしれないですし」
「その場合は『病』というしかないでしょうね。……検査自体をすり抜けられる可能性は?」
ヴィレルは顎に手を当て、暫し考えこむとその問いに答えた。
「基本的には、無いと言ってよいでしょう。陛下の口になさるものは毒見をしています。それはこちらがお出しする『薬』も例外ではありません」
彼の語った内容は、当然スレイも承知している。やはりそうか、と少し落胆を感じながら、次の事柄に思案を巡らせようとした時、ヴィレルは小さく「あ」と声を上げた。
「何かありましたか?」
「毒見を免れていたものを思い出しました。先程の茶ですよ」
「……はじめに、調査したのですよね?」
「ええ。茶葉はもちろん。ですが、その後に陛下が手ずからお入れになっていた、茶は別です」
指摘されて、スレイはハッとする。
たしかにヴィレルの言う通り、「茶葉」ではなく「茶」の方は、再度確かめることなどしていない。それはフォリア自身が淹れているからだ。
カップに何かされていた可能性もあるが、何より――。
スレイはじっと考え込む。
「……少し、気になることが別にできました」
スレイは持っていた茶のカップを返すと立ち上がった。
「もう少し確証がもてたら、また。――それでは、茶葉の調査をお願いします」
それから二ヶ月ばかり経った頃、スレイとヴィレルは研究棟の応接室にいた。
毎回汚い部屋では申し訳ない、という彼がこちらに通したのだった。
たしかに、ここの方が空気が澱んだ感じはない。幸か不幸か、フォリアの体調が優れない日が多くなってきたため、スレイが医師と接触していても疑問に思われなくなったというのも、人目につく確率の高いこちらを選べるようになった理由だろう。
「陛下のご様子は? 会ってきたのですよね?」
「さすが、お耳が早い」
ヴィレルは苦笑をするが、すぐに表情を曇らせた。
「良い――、とは言い難いですね」
彼がフォリアの診察を行ってきたのは、つい先日のことだ。
亡き娘の遺志から、あえて彼女に近付かないようにしていた彼だが、それでも心配はつきなかったのだろう。スレイが、信頼できる人間に見せたいと言うと、すぐに向かったようだった。
しかし、彼女の身体に関わる何かは、やはり見つけられなかったようだ。
もう何日、彼女とまともに話が出来ていないだろう。フォリアは以前にも増してスレイを避けるようになった。
――戻りたい……。ラシエル様がいた、あの頃に……!
そう言った彼女の声が、いつまでも耳を離れない。
ラシエルを深く想っているのだとあらためて突きつけられた思いだった。
たとえ彼女にどう思われていようとも、最期まで彼女のために生きる。
それを再度、決意させられたが、それでも辛く思わないわけではなかった。
姿を見ることさえ難しくなり、当然、もう彼女の行動も把握しきれていない。
正直に言うと、フォリアと話が出来た彼が羨ましいとさえ思うほどだった。
「――そうだ。この名前、覚えていらっしゃいますか」
スレイは傍らに置いていた冊子を開いて見せる。
「……医師名簿、ですか? でも、現役の者ではないですね」
「えぇ。……彼らと面識は?」
「多少は。ただ、もう何年になるか……。姿を見なくなって、それ以降のことは何も」
「そうですか」
スレイは肩を竦めて、冊子を閉じた。元より、何か情報があるというのは期待していなかったものの、多少は残念に思う。
「――これは、九年前に一斉退官した医官の名前です」
「一斉退官……。そういえばありましたね、そんなことが。あれは、アルシェン殿下が薨去されたすぐ後ではなかったですか?」
ヴィレルは、当時その退官を巡って、様々な憶測が飛び交っていたと話した。
結局アルシェン殿下を救えなかったことで、医者としての自信がなくなってしまったのだ、とか。実は何らかの秘密を知ってしまい、誰かから逃げるためだ、とか。
そういった真偽の怪しい話もあったらしい。
「私も、アルシェン殿下の件で責任を取らされたのかと推測していましたが……。それにしては数が多いですから」
アルシェンの専属となっていた医師は三名ほどいたが、退官したのは十名近くにのぼる。
「それで、彼らがどうかなさったのですか」
「――全員、死んでいました」
ヴィレルの目が見開かれる。
「それも、退官から一年以内に、です」
「……何か、あるのですね」
「えぇ、実は――」
スレイが口を開いた、その時。
「――宰相閣下!!」
何の前触れもなく、部屋の扉が開く。
急な登場に驚いたスレイだが、努めて平静を装い伝令らしき男に視線を向けた。
「一体、何事だ」
「陛下が、陛下が……!」
男は膝をつき、胸を押さえる。その手は微かに震えていた。
「陛下が、血を吐いてお倒れに――!」
白い寝台の上、青白い顔でフォリアは眠っていた。
「……陛下」
呼びかけても当然返答はない。微かな呼吸音がなければ、死んでいるかのように見えただろう。
会わないうちに、頬が少しこけたように見える。
いつか、本当に逝ってしまうのではないか……。
そんな不安が押し寄せた。
「貴女はいつもそう」
私を置いて、自分の好きなように、好きな方向へ勝手に行ってしまう。
スレイは、フォリアを見下ろし、小さく溜息をついた。
彼女の一番近くで育ったのは、自分だという自負がある。だがそれでも、彼女がいつも一番に頼るのは、ラシエル、アルシェン、そして――
「何故、フォリア様は姉上ばかり頼るのですか……」
答えはないと知りながらも、恨み言のような言葉がつい口から漏れた。
「私のことは、信用出来ませんか」
スレイはぎりっと拳を握りしめる。
口に出せば、まるでそれが真実かのように聞こえた。自分が作り出した不安の幻想かもしれない。それでも恐怖を覚えた。
「フォリアさま……」
彼女の冷えた手を握る。
そうしなければ、彼女の手に縋らなければ、もう二度と上がってくることの出来ない底なし沼にでも落ち込んで、もう生きてはいけないように思えた。
その時、握りしめた手が、ふと握り返されたような気がした。
はっと顔を上げるが、彼女は眠ったままだ。
「フォリア様……」
気のせいだったのだろうと思う。もしくはただの反射か偶然か。
それでも、スレイは彼女が不安を打ち消す答えを返してくれたのではないかと思った。
今も、信じている、と。
こんなにも簡単なことで自身の心は舞い上がってしまうのかと、我ながら笑ってしまいそうになる。
だが、たしかな勇気をもらった。消えなかった一抹の迷いがなくなるのを感じる。
フォリアを守る。そのためならば――
「私を信じていて下さい、ずっと。――約束ですよ」
スレイは誓いを立てるように、彼女の額に口づけを落とした。
フォリアはその次の日には目を覚ました。
しかし、体力低下から回復するのには、時間を要すこととなった。
その場に居合わせたというシャロンは、それまで頻繁に足を運んでいたはずの城へ来なくなり――、聞いた話では、フォリアが登城を拒んでいるという。やつれた顔を見せたくないから、とのことらしい。
何にせよ、彼女に他人が知らぬ間に近寄らないでいてくれるのは、ありがたい話だった。無事を不安に思わずに済む。
そうこうする間に、スレイの調査は進み、もう殆ど彼女が事件の中心人物であると、調べがついていた。
しかし、フォリアへの報告もままならず、どうにも踏ん切りがつかないまま、時だけが過ぎていく。
そんな時、フォリアがシャロンを王宮に呼んだ。
そして、二人きりでどこかへ向かう姿を見つけ、スレイは通りすがった兵に声をかけつつその後を追った。
彼女たちが、墓地の方へ向かっていることに気付いた時にはゾッとした。
そして、予感は的中し――
刺客の剣を弾いたスレイは、フォリアをかばうように立って、剣を構えた。
「お怪我は?」
「ないわ」
周囲には共に連れてきた兵が数名いる。分が悪いと判断したのか、刺客は身を翻した。それを、スレイは兵たちに追わせると、その場は三人きりになった。
しかしスレイは剣を構えたまま、シャロンを見据える。
「どういうことか、説明して下さいますね。――姉上」
フォリアは、スレイに伸ばしかけた手を止めた。
ああ、やはり――。
シャロンを見つめる彼の表情は、こちらからでは伺い知ることなど出来ない。だが、辛い表情を浮かべているのではないだろうか。
やはり、彼も、気付いていたのだ――
シャロンがフォリアの命を狙っていた、ということに。
彼女との茶会の後、決まって体調を崩していると気付いたのは、一体いつのことだっただろう。ずっと認めたくなくて、疲れだとか、スレイと仲違いしてしまった故の環境の変化によるものだとか、理由をつけてはその気付きを否定していた。だが、血を吐き――命の危険を身近に感じて、もうその事実を無視できなくなった。
それから、フォリアはもう一度ラシエルの遺品をあらためた。
唯一見つけられなかった、シャロンとの手紙を探して。
不自然に消失した彼女との手紙。隠された恋文。その中にあった「銀の瞳」という記述。
それらを考えれば、相手がシャロンであろうことの推測は容易い。
そして、それを裏付ける手紙もすぐに見つかった。
探してみれば、そう難しいところにあったわけではない。クローゼットの中、衣装箱の下の床に細工があり、その板を外したところにそれらはあった。
そこには、愛しあう恋人たちのやり取りが詰まっていた。シャロンから届いたラシエルへの手紙。彼からのものは当然ここにはないが、以前発見した送られることのなかった手紙を見れば、ある程度の推察はつく。
フォリアにとってのラシエルは、「友」であり、「同士」だった。そのことを再確認するような時間だった。
それを悲しいとは思わない。「友人」「同士」として、互いは確かに互いが一番だった。それは揺るぎないことだからだ。
ただ、生きている間に、本人の口から聞きたかった。それだけが悔いとして残る。
スレイの問いを受け、こちらに背を向けていたシャロンが振り返った。
しかし、スレイの背に隠されて、彼女が今、どんな表情をしているのかまでは見ることが出来ない。
見えなくて良かった、とも思う。
シャロンはきっと、本心ではフォリアが憎かったのではないだろうか。
フォリアの目には、彼女はアルシェンを心から愛しているように見えていた。だから、はじめから彼女がラシエルを愛していたのかは分からない。
それでも、どこかの時点から彼女はラシエルを愛し、だからこそ一番近くにいるフォリアを目障りに思っていたことだろう。
傍にいながらラシエルに何も出来なかったことを、怒っているのかもしれない。
シャロンの動機に王位継承が絡んでいるのは間違いないだろうが、フォリアへの恨みがそれを後押ししたのだと思っていた。
「……説明しろ、とは何のこと?」
響いたシャロンの声は、場違いなほど落ち着いて聞こえる。
心のどこかで、全てはフォリアの思い過ごしで、シャロンは本当に、ただ偶然にこの場に居合わせただけで、何も知らなかったのではないか、と思いたい自分がいた。
だが、その冷静さが、やはり彼女は全てを知っているのだと知らせている。
「貴女は王家の人間になった。生家も王家より信任の厚い宰相家――。故に、貴女の手ずから作った菓子類は、毒見を免れていたそうですね」
そのことはフォリアも知っていた。
幼い頃から習慣が、今も続いている。フォリアも、ラシエルも、それをあえて変えるようなことはしなかったためだ。
「その菓子に、遅効性の毒を入れた……。そうですよね、姉上」
シャロンからは、何の返答もない。スレイは構わず続ける。
「その毒を使って、フォリア様を。そして、ラシエル様も――」
「え?」
フォリアはスレイの服を掴み、その言葉を止めさせた。
「待って、スレイ。それは違う」
「違いませんよ。彼女は貴女を――」
「違う、そうじゃなくて。シャロンはラシエル様を殺してなんてない。だって、そうでしょう?」
スレイは「あの手紙」を見ていないから、そう思うのも無理はない。
フォリアは身を乗り出すようにして、シャロンを見る。
あれを見るまでは、ラシエルはきっと誰かに害されたのだろうと思っていた。
しかし、今はもう到底そんな風には思えるはずがない。少なくとも、シャロンではないのだ。なぜなら――
「だって貴女は、ラシエル様を愛して――」
「馬鹿を言わないで!」
しん、と沈黙が落ちる。
それまで黙りこくっていたシャロンが、突然声を荒らげた。フォリアはそれに驚いて、二の句が継げなくなる。
「わたしが、愛しているのはただ一人……、アルシェン様ただお一人よ……!!」
シャロンの悲痛な叫びに、フォリアはようやく我に返った。
「で、でも……! 私、貴女たちの手紙のやり取りを見たわ!」
愛を紡ぎあえること、それを羨ましいと思うほどには、互いへの想いに溢れたやり取りだと感じていた。
それなのに――
黙秘を貫くつもりだったのだろう。思わず声を上げてしまったのか、苦々しい顔をしてシャロンは唇を噛んだ。
「……そんなもの、いくらでも嘘を並べ立てればいいだけの話。アルシェン様を思えば、こんなこと――」
そこに一切の嘘は無いのだろう。咄嗟に飛び出した否定の言葉がそれを証明している。
彼女は本当にアルシェンだけを愛していたのだ。
しかし、それなら何故ラシエルと「恋文」を交わしていたのか。
シャロンはフッと、嘲るような嗤いをもらした。
「それでも、わたしがラシエルを殺した証拠はないわ。あなたのこともね」
「……たしかに、そうですね」
「スレイ……」
ぽつりと呟いたスレイに、フォリアは眉を下げた。
「ですが、」
シャロンは眉を顰める。
「貴女にお聞きしたいことがあります。アルシェン様が亡くなった後、辞めていった医師たちの行方をご存じですか?」
「それは、この話に何の関係があるのかしら」
「答えてください」
「……さあ。そもそも面識があったのかどうかすら」
「あったはずです。全員、アルシェン様の診察をしたことのる医師ですから」
「そうなの……。でもわからないわ。あの方があちらに行ってしまわれてから、会っていませんもの」
「アルシェン殿下薨去から、一年以内に皆死んでいます」
フォリアは、思わず上げかけた声を、両手で抑え込む。
だが、当のシャロンは、穏やかに微笑んだままだ。
「あら……。それはお気の毒ですこと。皆、アルシェン様のために尽力してくれましたからね。残念です」
「彼らは、貴女に不都合なことを知っていたのではないですか?」
「例えば?」
「――『ルディスの父親』」
シャロンは平然としたまま何も答えない。だが、フォリアはスレイの服を縋るように握りしめる。そうしなければ、立っていられないような心地だった。
嫌な予感がする。
「スレイ、それは……」
フォリアは彼を見上げ、だがそれ以上の言葉が続かなかった。
スレイは、こちらを頑なに見ようとしない。見ることが出来ないのかもしれない。
だって、もし私の想像が正しければ……。
「……それは、ルディスが、ラシエル様の子だと、いうこと?」
もしそうならばそれは、ラシエルはフォリアと結婚する何年も前から、シャロンと関係を持っていたことを意味していた。
スレイは沈黙を貫く。だが、それは殆ど「肯定」の意味と同じだった。
誰もが口を噤んでいた。
その時。
「――それは、どういうことですか」
その場の全員が、声がした方へ顔を向けた。
「ルディス……」
そこには蒼白な顔で立ち尽くす、ルディスの姿があった。
――陛下は、お元気ですか。
それをスレイに聞いた瞬間から、いつかはこんな日が来ると、ルディスはどこかで知っていた。
シャロンは優しい母だった。
亡き父を誰よりも愛し、その息子を執愛と言えるほど溺愛する――、愛する母だった。
気付いたのは、些細な言動からだ。
お菓子作りが趣味の母は、三日と空けず何かを作ってくれていた。それを隣で見ながら、時折味見するのは、ルディスの日課のようなものだ。
しかし、ラシエルやフォリアに振る舞う菓子を作るときだけは、様子が違った。
作っている間に人を寄せ付けなかったし、味見も許してはくれることもない。
王族相手のものだからだと納得していたが、それでもどこかに違和感があった。
その「違和感」が決定的になったのは、ある日のこと。
フォリアを訪ねる準備をしていたシャロンの籠から、何の拍子か一つだけころりとビスケットが床に落ちた。
格子模様のついた、黒っぽいクリームを挟んだ丸いビスケットだった。
「母上、落ちましたよ」
そう言って、ルディスがそのビスケットを拾い上げた時。
「――ルディス!!」
シャロンはルディスの手から、そのビスケットを叩き落とした。それから、ルディスの手についたクリームを、ハンカチで丁寧に――痛いほどの力で拭う。
「あ、あの……、母上……」
その執拗さに、ルディスも異様なものを認めないわけにはいかなかった。
おそるおそる話しかけると、シャロンはハッとした顔で、手を止める。
「ルディス、床のものをあなたが拾う必要はないわ」
シャロンはルディスの指を拭ったハンカチ越しに、再び床に転がったビスケットを拾い上げると、そのまま何故か鞄に押し込んだ。
「あの……」
「なあに?」
母は笑顔だった。しかし、それ以上の質問をするのは、どこか憚られた。
「――いえ。もう、出発ですか?」
「ええ、そうよ」
「今度は、ご一緒させてほしいと、陛下に伝えてください」
「……わかったわ」
母は、そのまま笑顔で部屋を出ていく。
しかしその目の奥は、背筋が冷えるほど冷たかった。
その後、ありもしない「忘れ物」を取りに王宮へと向かった。
スレイに助け舟を出してもらった後、二人きりの廊下で、抱く懸念を洗いざらい喋ったルディスは、それから定期的にスレイと連絡を取り合うようになっていた。
シャロンが不在の時を狙い、毒の在処を探したが、結局見つけることは出来なかった。普段持ち歩いているとも思えず、調理場はもちろん、私室や倉庫も隈なく捜索したが、やはりそれらしきものはなかった。
他にない変わったものといえば、東方由来の果物と、大量に買い込まれたベリーだが、どちらもシャロンが好んで菓子類に使っている果物であり、ルディスも口にしたことがある。当然、毒物ではないはずだ。
「……一度、調べてみよう」
「え?」
何の気なくそれらの話題を口にしたルディスは、スレイの言葉に目を瞬かせた。
「そんなもの、姉上が結婚する以前に見たことがない」
「そう、なのですか?」
ルディスが物心ついた頃には、既にそれらはあり、それらがあることに何の疑問も抱いたことはなかった。
ルディスが黙りこくると、スレイは苦笑をもらした。
「念のため、だ。ご成婚から何年も経っているのだから、単に好みが変化したのかもしれない」
だから、そう心配そうな顔をするな、と続けるスレイに、くしゃりと頭を撫でられる。
少しぎこちないその手つきがくすぐったい。
いつからか叔父は、堅苦しい言葉遣いを止め、「ルディス」と名前で呼んでくれるようになっていた。
……父上が生きていらしたら、こんな風だったのかな。
ルディスが生まれる前に、この世を去ってしまった父。ルディスの知る「父親」は、肖像画と墓の中にしかいない。
もし、生きていたら。と時折思う。
彼は、自分とあまり似ていない息子を愛してくれただろうか。
もし、父上が生きていたなら。叔父上のような方がならいいのに。
ルディスは、へへと口元を緩める。
いつしか、そんなことを思うようになっていた。
とはいえルディスは、本心から父が違う人間であったらと思ったことはなかった。
今も周囲に慕われ、若くで亡くなったことを惜しまれ、何よりシャロンからこれ以上なく愛されている父アルシェンのことを、ルディスはルディスなりに、たとえ一度として会ったことがなくとも、慕っていたからだ。
その日、王宮に足を運んだルディスは、スレイを探していた。シャロンがフォリアに会いに行ったらしいと知り、叔父上に知らせねば、と思ったのだ。
そうして、スレイの行き先を訪ね歩き、墓地の方へと向かった。
フォリアの言葉を聞いてしまったのは、本当に偶然のこと。
「……それは、ルディスが、ラシエル様の子だと、いうこと?」
意味が理解できなかった。
それはどういうことですか、と尋ねる声が、自分のものなのかも分からない。
だが、それと同時に心のどこかで、やはり、と思っていることにも気付く。
気のせいと思うほど刹那、ほんの時折シャロンから向けられる冷たい視線。
あれは気のせいなどではなく、「アルシェンの子」ではない己に、向けられたものだったのだ。
「ルディス、何故ここに……」
顔を青褪めさせたルディスに、フォリアは唇を噛みしめた。
たとえ真実がどうであったとしても、彼をいたずらに不安にさせることに一体何の意味があるだろう。
しかしスレイは、ルディスの方へ向き直り静かに頷いた。
「そうだ」
スレイは淡々と続ける。
ルディスがシャロンの胎内にいた時分、アルシェンの容態は良いものではなかったこと。彼の担当医が全員死亡しているため、はっきりとは分からないが、起きあがる体力もなかったような人間が、父親になれるとは考えづらいこと。
そして一瞬、はっきりと告げることを躊躇ったのだろう、顔をしかめさせて、言った。
「……だから、お前の父はアルシェン様でない可能性が――」
「違うわ! あなたは『アルシェン様の子』よ!!」
シャロンが叫ぶ。
「だって……、だって、わたしがそうなるように、産んだんだもの……」
ルディスはシャロンの言葉を聞き、苦しげに顔を歪ませた。
そうなるように――。
聡いルディスのことだ、その一言で全て理解してしまったのだろう。彼の表情は暗く、悲しげだった。
「母上。全部、僕のためですか」
「……」
「先王陛下を殺したのも、陛下に毒を盛ったのも」
「……違うわ」
シャロンは否定の言葉を呟く。しかしそれは、行動を否定したのではなかった。
「あなたを――、アルシェン様の子を、王にするためよ」
「――……そうですか」
二人のやり取りを、フォリアは黙って見ているしか出来ない。
ルディスは、シャロンから視線を逸らすと、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。そして、フォリアのすぐ目の前で立ち止まると、膝をついて頭を垂れた。
「母の行いは私にも責任がございます。罰はいかようにでもお受けいたします」
「――ルディス!」
シャロンの悲鳴のような声が響く。だが、ルディスは決してそちらを見ず、ただ頭を下げ続けていた。
フォリアはそんな彼を、困惑したまま見下ろす。
事が明るみに出てしまった以上、咎めなしに済ますことなど出来ない。
「――、スレイ」
フォリアはスレイに目配せをし、シャロンを拘束させる。
彼女は暫くの間抵抗しようとしていたが、次第にその勢いはなくなり、項垂れるように動きを止めた。
「ルディス。あなたも暫し謹慎を」
「……はい」
「スレイ、シャロンを連れていって」
フォリアは大人しくなった彼女の背を黙って見送った。
ゆっくりと、スレイに伴われたシャロンの姿が小さくなっていく。
その時、フォリアの足下で蹲るように膝をついていたルディスが、堪りかねたように声を上げた。
「――母上っ」
シャロンが立ち止まって振り返る。
ルディスが不安げな表情でフォリアを見上げた。
「……行ったらいいわ」
そう言って一つ頷くと、ルディスはシャロンに向かって走っていく。そして、そのままの勢いで彼女に抱きついた。
「僕は、僕は……、母上が、どんな気持ちで『僕』を見ていたとしても――、母上を愛しています」
シャロンはハッと息をのみ、そして、ぎゅっと息子を抱きしめる。
「わかっているわ、ルディス。愛する――わたしの息子」
二人は長い間、そうして抱きしめあっていた。