第三章 彼と生じた不和
「――はいどうぞ、ラシエル様」
フォリアは手ずから入れた茶を夫の前に置いた。
外の日差しはあたたかくやわらかで、たまには陽の光に当たった方がいいだろうと、彼を外に連れ出したのだ。外、とは言っても城の庭先にすぎなかったが、寝込むことの増えてきた彼には十分「外出」だろう。
フォリアの差し出したカップの中は、明るい緑色の液体が満たされていた。ふわりとさわやかな草の香りがする。
ここ数年、体調を崩しがちになっている彼のために、フォリアが毎日淹れている茶だった。淹れ方はシャロンに習い、この茶葉が身体にいいと教えてくれたのは――。
フォリアはラシエルの前に腰を下ろし、同じものを口にする。
ほのかに感じる甘みが飲みやすい。苦みの強いものは毎日のこととなると辛いものがあるが、これに変えてからは彼も嫌がらずに飲むようになった。
「今日もお勉強ですか?」
「そうだよ。今日は少し復習をしようかと思って」
こうして「復習」と言って、いつからか彼はフォリアの前で勉強するようになっていた。自然とこちらにも知識がついてゆく。
「あら……」
フォリアはラシエルが開く本を覗き込み、細かい字がいっぱいだわと眉根を寄せた。
「無理なさらなくても良いんじゃないですか?」
「……そうはいかないよ。僕にはもうあまり時間がないだろうから」
そう言って寂しげに微笑んだ彼は、その一年のち、本当に逝ってしまった――。
フォリアはラシエルが亡くなって以降、使われなく――使えなくなっていた茶器を手に、彼のことを思い出していた。
ラシエルのために淹れていた茶のためのティーセットは、遺品と共に彼が使っていた部屋に片付けられている。
彼は大切な人だった。
その日々を思い起こさせるものを見ること自体が一時は本当につらく、全てを目にしないようしていたが、時と共に心境も落ち着いてきていたらしい。
こうして縁の品を手に、思い出を振り返ることが出来るようになっていた。
スレイとラシエルの生前について調べることにしたフォリアは今、彼の遺品をあらためている。
正直なところ、平静を保って見ていられるのか不安だったが、思っていたよりも平気なようだ。
それでも思い出深い品を見れば、どうしても手が止まってしまう。
フォリアは丁寧に茶器をしまうと、違うものを見てみようと辺りを見渡した。フォリアは机の上に置かれた木箱を手に取る。
彫り物が施されたそれは、ラシエルが親しい知人からの私信を入れていた箱ではなかっただろうか。彼が届いた手紙を、この中に入れるところを何度か見た覚えがある。
フォリアは迷った末、その箱を開けた。
ただ思い出に浸りたいだけならば、中を見ることはしなかっただろう。だが、彼がフォリアに言っていなかったことも、別の誰かとのやりとりの中にはあるかもしれない。そう思うと見ないではいられなかった。
中を覗くと、相手ごとに紐でまとめて縛られた手紙の束がいくつか入っている。
フォリアは心の中でラシエルに謝罪をしつつ紐を解き、一つ一つを読んでいった。
家族や年回りの近い青年貴族たちとの手紙が殆どで、他愛もない内容ばかりだ。
全ての手紙を箱から出して、読み進めていく。そして、フォリアはふと手を止めた。
もう一度差出人の名前を確認する。
「私、アルシェン、スレイ、ルディス……」
シャロンの名前だけが、不自然なことに一通もない。
ラシエル、フォリア、アルシェンは従兄弟同士であり、宰相家のシャロンとスレイ、この五人は幼馴染の間柄だ。アルシェンとシャロンの子であるルディスからの手紙すらあるのに、彼女からのものだけがぽっかりと存在しないのは、あまりに不自然だった。
しかし箱の中は空で、他に何も入っている風では――
「――……? ちょっと浅い、ような……」
箱の外寸から考えて、内寸が少し浅すぎるような気がした。
不思議に思い、よくよく中を覗き込んでみる。すると、箱の端の方に小さな小さな突起があるのを見つけた。フォリアはそれに爪を引っかけるようにして引っ張ってみる。
「あ、」
かこん、と音を立てて底板が外れた。二重底になっていたのだ。
そこには封筒にすら入っていない便箋が、雑多に入れられている。
「――ラシエル様の字……」
それは探していたシャロンからの手紙ではなく、ラシエルが書いたが送らなかった手紙のようだった。
「……これ、」
宛名は書かれていない。だが、内容を読めばそれが何かは嫌でも分かった。
「恋文だわ」
こんな場所に隠されていたのだから、当然フォリアに向けたものではないだろう。
誰か、道ならぬ恋の相手に宛てた、ラシエルの想いが綴られた手紙たち。
フォリアはゆっくりとそれらに目を通していく。
穏やかな姿しか知らない彼が綴る、切実な想いと言葉。それらがフォリアの胸をつく。
ラシエルはこの手紙を送ることも、しかし、燃やして消してしまうことも出来なかったのだろう。
それらの全てに目を通し、フォリアは確信した。
やはりこれは、自身に宛てられたものではないようだ。
「……気付いてあげられなくて、ごめんなさい――」
フォリアはラシエルを愛していたが、それは友として、共に国を守ってゆく盟友としての愛だった。それはきっと、彼も同じだろう。
それでもラシエルの誰よりも近くにいたと、フォリアは思っていた。
にもかかわらず、彼に想う人がいたことに、気付けなかったことが、少しだけ寂しい。
――貴女の銀の瞳に魅入られています。
ラシエルの心が詰まった一文を、そっと指でなぞった。
「本当に――」
どうして、何も気付かないでいられたのだろう。
一方のスレイは同じ頃、ラシエルに関する生前の記録を追っていた。
城に併設された図書館の片隅で、紙や書籍に目を通す。王族をはじめ一部しか立ち入りの許されていないこの場所は、人の出入りも少なく、今はスレイしかいない。
その奥に収められている普段は使われない記録文書の類はそれなりの数があり、ざっと目を通すだけでも一苦労だった。
細かい字を長時間追っていたスレイは、眉間を揉んで、椅子の背に身体を預ける。
机の上には、本や書類が山と積まれていた。
遺品整理はフォリアに任せた分、自身は行政記録の方面から、ラシエルの生前について調べを進めている。
とはいえ、主に必要となるのは、フォリアとの結婚後、体調を崩すようになってからのもののため、スレイはその殆どの内容を把握していた。一からではないのが幸いだったが、その分まだ目新しいものは見つかっていない。
スレイは溜息をついて目を閉じる。
「……月日が経つのは早い」
フォリアたちが結婚して五年。ラシエルが崩御してもう幾月。
今頃、彼女はどうしているだろう。愛する夫の遺品に囲まれ、泣いてはいないだろうか。
「フォリア様……」
五年前、彼女が白いドレスで微笑んでいるのを見た時、スレイはその隣に立つラシエルを、どんなに憎らしく思っただろうか。
フォリアは知らない。だが、スレイはもうずっと、彼女を想い続けてきた。
最近でこそしっかりしてきた彼女だが、どこか抜けたところのある少女を、ずっと守ってきたのは自分だという自負がある。
これからもずっと、と思うのは自然な流れだった。たとえ、婚約者がいるとわかっていても。
覚悟していたはずだった。それでも、他の男のものになる彼女を傍で見続けるのは、想像以上に苦しかった。それが無二の主となるラシエルでも、だ。
そんな中にあっても、彼女を無理やり奪うことも、諦めて職を辞すこともしなかったのは、フォリアを近くで見守りたいという未練と、彼女が夫のことを本当に大事に思っているのを知っていたからだ。
ラシエルに対し複雑な思いを抱え続けた五年だった。
だからそのラシエルが死んだ時、自分はもっと喜ぶのではないかと想像していた。
しかし、その知らせを聞いた時に抱いた感情は、純粋な悲しみ。そして、フォリアを一人にするのかという怒り。
不思議と「喜び」の感情は、片鱗さえ浮かぶことはなかった。
フォリアを手に入れたいと願ったことは数知れない。
だが実際にそれが叶う状況になってみると、ラシエルへの罪悪感が胸を占める。
彼女は今も夫のことを想っているはずだ。たとえ一年経ち、ラシエルの喪が明けようとも、この気持ちを口に出来るはずもなかった。
『フォリアを守るのは、多分君の役目だよスレイ――』
ふと、そんなラシエルの言葉を思い出し、スレイは目を開けた。
あれはいつの頃だっただろう。
まだ、彼らが結婚するよりも前に聞いたものだった気がする。
何故そんなことを、と当時は苛立ちを覚えたが、今の今まで忘れていたくらい、他愛もないやり取りの中での言葉だ。
「――何かを予感していた……?」
ふとそう思う。
もし本当に何かを予感していたのなら、彼はフォリアと結婚するよりも更に以前から、自分の死の運命を知っていたことになるのではないか。
もっと長期の記録を調べる必要がある。また、彼が長く服用していたものを調べなおべきかもしれないと思った。
長く服用していたものとして、すぐに思い浮かぶのはフォリアが彼のために淹れていた茶だろうか。
「……一度、調べてみるか」
スレイは椅子から立ち上がり、茶葉がまだ保管されているはずの厨房へと向かった。
「えぇっと……、あ、これかな」
フォリアは検分した手紙を元の通りに直した後、近くの戸棚を探っていた。
膝をついて中を覗き込み、一番奥に目当ての白い陶器でできた瓶を発見する。
中身は、ラシエルと飲んだ件の茶葉。
彼との思い出に浸り、久し振りのあの茶が飲みたくなったのだ。
元は厨房に保管されていたはずだが、彼の死後、誰も飲まないからと、遺品を集めた際にこちらに移動していたらしい。
瓶の栓を抜くと、ふわりと嗅ぎ慣れた香りが漂う。探していたものと相違なかった。
「折角だし、ポットもあれを使おうかな……」
フォリアは、つい先程見つけたばかりの茶器を思い浮かべる。
一人で飲むのはあまりに寂しいから、スレイでも誘ってみようか。
茶葉の入った瓶と茶器の納められた箱を持ったフォリアは、部屋を出ようとしていた。
しかしノブを掴む寸前、扉が突然開く。
「ス、スレイ?」
ノックもなく入ってきたのは、スレイだった。一体急にどうしたのかと、フォリアは瓶を抱きしめたまま目を瞬かせる。
「陛下」
ほっとした様子を見せる彼に、首を傾げた。
「もしかして、走って来たの? 傷が開いたらどうするの……」
「大丈夫です。それより――」
スレイは、フォリアが抱えていた瓶に視線を向ける。
「それ、まだ飲んでいませんね。少し、お預かりしても?」
訊ねる口調で言っておきながら、彼はこちらの返答を聞く前にもう手を伸ばしている。
フォリアは思わず、一歩後ずさった。
「……どうして?」
スレイの手がぴたりと止まる。
「それは……」
彼は口籠もるように、言葉を途切れさせた。
フォリアは何とも言えぬ嫌な予感に、落ち着かない気分になる。
そもそもスレイは何故ここにいるのだろうか。今はラシエルの生前の記録を探っていたはず。
それなのに何故突然、茶葉のことを。
「スレイ、どうしてなの。理由を言って」
しかし彼は答えない。
その態度がフォリアの不安を煽る。
彼は答えないのではなく、答えられないのではないだろうか。そして、その理由はおそらく――
「茶葉が、ラシエル様の死と関係があるの……?」
「陛下、まだ何も確かなことは」
スレイが慌てた様子で首を振るが、その言葉ははっきりとした否定ではなかった。それがより、フォリアの想像に真実味を与える。
「誤魔化すつもり……?」
フォリアは瓶をぎゅっと抱きしめた。
ラシエルの身体に良いと思い、淹れ続けていた茶だった。その効果はなかったどころか、もしかすると――
「はっきり言って……! あの茶は、ラシエル様にとって……、毒だったと言いたいのではないの!?」
叫ぶと、ほろりと涙が零れた。
もしそうならば、彼は私のせいで死んだのだ――。
フォリアは抱えていた瓶と茶器を床に叩きつけようとして、寸前で思い留まる。
その二つをスレイに押しつけるようにして手放すと、部屋を飛び出した。
「――、陛下!!」
後ろからスレイの声が聞こえたが、振り返ることは出来ない。フォリアは部屋を出た勢いのまま、廊下を駆ける。
そして走って、走って――、角を曲がったところで、ドンと何かにぶつかって、フォリアはたたらを踏んだ。
「あっ……」
胸を渦巻いていた激情が、一瞬覚める。
はっとして顔を上げると、そこには見慣れた姿があった。
「シャロン……」
いたた、と言いながら、傍らにいる案内の侍女に支えられるシャロンを見て、フォリアの涙腺は一気に緩む。
「……フォリア様?」
彼女がこちらを認識した時には、もう視界は歪んで、何も見えなくなっていた。
「シャロン……!」
フォリアは堪らなくなって彼女に抱きつき、人目もはばからずに泣きはじめた。
「――フォリア様、落ち着きました?」
シャロンに縋りついて大泣きしたフォリアは、彼女を伴って自室に戻っていた。
「……ごめんなさい急に」
泣き腫らした目のまま、フォリアはふらふらとソファに座り込む。シャロンもその隣に腰を下ろして、慰めようとするように手を握ってくれた。
「シャロンは……、どうしてここに?」
「ルディスが世話になったと聞いて、お礼を言いに来たんです」
「そうだったの……」
世話になった、とは彼女の忘れ物を取りに来た時のことだろうか。
フォリアは「お礼なんていいのに」と思いつつも、それがもたらした偶然に救われる思いだった。
今もし、ひとりでいたならば、耐えられなかったかもしれない。
俯くフォリアに、シャロンは心配げな顔をする。
「いったい何が……?」
「私……、ラシエル様を殺してしまったのかもしれない……」
優しく尋ねられれば、もう駄目だった。ぽつりと呟くと、シャロンの目が見開かれる。
「それは、どういう……」
フォリアは、俯いたまま続けた。
「私が、ラシエル様にお淹れしていたお茶……。覚えている?」
つい先ほど起こった出来事をぽつぽつと説明していく。
あの茶葉について、確かに疑っている様子なのに、何も説明しようとしてくれなかったスレイの顔が浮かんだ。
そうか、私は――
フォリアは唇を噛みしめる。
ラシエルの死に、自身が関係してしまっているかもしれないことに動揺した。しかし、それ以上に。
スレイが何も言ってくれないことが、悲しかったのだ。
話を聞き終えたシャロンは、口元を押さえ、言葉もないようだった。
「――そうだったのですね。あぁ、なんてこと。ごめんなさい、フォリア様……」
暫くの沈黙のあと、彼女が口にしたのは謝罪だった。
「どうして……シャロンが謝るの?」
「あのお茶をお教えしたのは、わたしですから。ならば、罪に問われるべきはわたしも同様です」
「そんなこと……、シャロンは関係ない!」
彼女の言葉にフォリアも思い出す。ラシエルが体調を崩しはじめて暫くした頃、あの茶葉を持ってきてくれたのはシャロンだった。
夫の病が辛いのは、よく分かるから。そう言って。
違う関係ない、と必死に首を振るフォリアの手を取り、シャロンは微笑んだ。
「フォリア様、あなたも知らなかったのでしょう? それでもご自身を責めるのなら、わたしもまた、同罪なのです」
「シャロン……」
「それに、まだ調査中なのではないですか?」
彼女の言う通り、スレイからはっきりと何かを告げられたわけではなかった。
強い毒性ではなかったのだろう。それは、同じものを摂取していたフォリアの身体が証明している。だが、弱ったラシエルの身体には、負担をかけるものだったのかもしれない。
「それに、罪悪感を抱いているのはスレイも同じかもしれません」
「……どういうこと?」
「フォリア様にあの茶葉を勧めたのはわたしですが……、わたしがあれを知ったのはスレイがきっかけだったんです。ああ、でもそうだとすると……、スレイは何か知っていたのかしら……?」
フォリアは思わず息をのむ。
はっきりしたことはまだ分からない、と言いながら、フォリアが茶を摂取しなかったことに彼は安堵していた。
調査前の物だったからだと解釈していたが、本当にそうだったのだろうか。
「でも、スレイがまさか……」
フォリアはそう言いながらも、いつかに彼が発した言葉がよみがえる。ラシエルの死に関わっていてもおかしくない人間の話になった時、スレイはたしかにこう言った。
私だって、その一人だ――
ありえない、と思いつつも、フォリアの心に疑惑の種が芽吹く。
「ああ、そういえば」
黙りこくったフォリアを横目に、シャロンはまるで追い打ちをかけるかのように呟いた。
「ついこの間、スレイとストロファード卿が話しているのを見たんです。あれは……、何だったのでしょうね」
シャロンの前で大泣きした日から幾日かが経っていた。
あの日から、シャロンはフォリアを心配したのか、茶菓子を手に頻繁に会いに来る。
あの話が蒸し返されることはないが、それでもフォリアの頭から、彼女の言葉が消えることはなかった。
スレイが、ヴィレルと接触しているかもしれない。そんなこと、何一つ彼から聞かされていなかった。
何か隠されている。そう思うと、浮かぶ疑念を打ち消すことが難しくなっていく。
彼を信じたかった。
今は話せないことがある、と正直に、たとえその内容を言ってくれずとも、正直に話してくれたのなら、何をおいても信じることが出来るのに。
シャロンに会った日から、気が抜けたのか風邪らしき症状が本格的に悪化してしまったフォリアは、スレイが本調子に戻っていくのと入れ替わるように床についた。
彼とは、日に一回仕事上の報告で顔を合わせてはいるが、互いの間にはどこか壁がある。
茶葉の件で揉めてから、ずっとだ。
喧嘩をしたわけではない。ただ、心が見えない。
それが一層、不安を煽る。
思えば、スレイとはずっと共に生きてきたのだと思い至った。
幼き日は年回りの近い幼馴染として。次は、国王を支える王妃と宰相として。女王となってからは、自身の宰相として。
フォリアの隣にはいつも、同じ方向を見据える彼がいた。
手の届く場所にいてくれないことが、酷く寂しい。
フォリアはその寂しさを誤魔化すように、自身の身体を抱きしめる。
その時、小さく扉を叩く音がして、思わず期待に胸が高鳴った。
「失礼いたします、陛下」
しかし、現れたのはルディスだ。
「……よく来てくれたわ。ありがとう」
彼の顔を見て、見舞いに来たがっているとシャロンが教えてくれたのを思い出す。
お加減はいかがですか、と控えめに微笑むルディスに罪悪感が湧いた。
彼を見て、思わず落胆してしまった。そのことに。
「ルディス、そんなところで立っていないで。こちらへ座って」
フォリアは近くに置かれた一人掛けソファを指し示す。
「は、はい……」
彼はどこか落ち着かない様子で、ソファに近付き慎重に腰を下ろした。
いつもならば、明るい笑顔を浮かべているはずのルディスに、フォリアは違和感を覚える。しかし、緊張しているのだろうと深くは考えなかった。
「暫く見ない間に、また背が伸びたのではない?」
「そ、そうですか? 自分では、わからない…です」
「そう? まあでも、そうね。自分の姿は毎日見るから、なかなか分からないかしら」
「はい……」
「……、勉強の方はどう?」
「じゅ、順調です……」
「それはえらいわね」
フォリアはルディスの頭を撫でる。言動はどこかおかしいが、こちら手には変わらず素直に身をゆだねていた。
フォリアはやはり緊張していただけか、と胸を撫で下ろす。
「シャロンも鼻が高いでしょう――」
彼の母親の名を出した瞬間のことだ。ルディスが微かに肩を震わせた。
「――ルディス?」
「……陛下」
彼が顔を上げ、フォリアと真っ直ぐに視線が合う。
「陛下は、母のことを……、どう、思っていらっしゃいますか」
「ど、どうって……」
よく分からない質問に、フォリアは首を傾げる。
シャロンは大事な友人だ。昔も今も、姉のように頼りになる、大事な――。
ルディスの頭からいつの間にか離れてしまっていた手を、今度は彼が握った。
「陛下。どうか、母上ばかりと仲良くなさるのは、やめてください」
あまりに真剣な顔でそう告げる彼に、フォリアは戸惑う。
「どうしてそんなこと」
「その……、僕は心配なんです、陛下のことが……」
「ルディス……」
フォリアは彼を安心させるように、彼の手を握り返した。
シャロンとばかり会っているフォリアに、自分も会いたいという可愛らしい嫉妬のようなものだろうと思った。
「大丈夫よ。もう少し元気になったら、またみんなで遊びましょう」
「……はい」
ルディスは眉を下げて笑う。
それを見てフォリアは、わがままを言ったことに照れているのだと思った。
みんなで――。
その時には、スレイとも元の関係に戻れているだろうか。
彼に会いたいと思った。
会って、これまでの何でもない関係に戻りたかった。
スレイと普段通り話せるようになりたい。
そんな願いは届かず、それから一月ほどが経っても、相変わらず関係はぎくしゃくしていた。
ルディスに何か言われたのか、シャロンの訪いは些か間遠になっている。だが、時を同じくして体調が少し落ち着きを取り戻し、フォリアは少しずつ執務に復帰しはじめていた。
しかし、スレイとは顔を合わせづらく、どことなく避けがちになっている。
少し前までは、あれほど会いたいと願ったにも関わらず、実際に会いに行けるようになると、強い衝動のような気持ちはなりを潜め、恐怖の方が勝っていた。
その上、体調が落ち着いたと言えど、快調になったとは言えない状態で、以前のように動けるわけではない。自身の不調を不思議に思いつつも、自室にいることの方がまだまだ多かった。
だが、もっともらしい理由で彼を避けているにすぎないことには、自分自身でも気付いている。もちろん、彼も察しているのだろう。
しかしスレイは何も言ってこない。
そのことに安堵と、少しだけ不満を覚えながら、日々は過ぎていた。
「……ん」
自室でペンを走らせていたフォリアは、ふとその手を止める。
首を傾げて、もう一度書面をよくよく読んだ。しかし書き方が悪いのか、自身の知識が足りないのか、意味がよく分からない箇所がある。何度読んでもやはり分からず、フォリアは溜息をついた。
このままサインしてしまおうか。
この書類も、スレイが一度は目を通しているはずのものだ。彼がはじかなかったのだから、きっとそれでも問題はない。
だがペンを握る手は、どうしても動かなかった。
――内容も分からないままサインだけするのは、絶対に駄目だよ。
病床に臥したラシエルの言葉が浮かんだ。
全部他の人に任せて、休めばいいのに。そう言ったフォリアに対して、彼が言った言葉だった。
溜息をついたフォリアは、ペンを置いて立ち上がる。
「スレイは会議中のはず……」
彼に聞けばすぐに分かることなのは知っていた。だが、今は出来る限り顔を合わせたくないのだ。
スレイに用事があることに安堵しつつ、フォリアは自室を出て、執務室へと足を向けた。
そこに疑問を解消する資料があるという程度ならば、フォリアにも分かっていたからだ。
廊下を歩くが、その足取りが次第に重くなっていく。
当然体調のせいではない。
自室からほど近い場所にある執務室には、あっという間に着いてしまった。
「…………」
フォリアは、扉にそっと耳を当てる。
中からの喋り声は無い――ようだったが、気配があるかどうかなど分かるはずもない。物音もしないが、こちらも「ないような気がする」だけだ。
フォリアは意を決し、扉を開けた。
ぎゅっと瞑っていた目をおそるおそる開くと、そこには誰もいない。机と椅子と、積まれた本と紙とがあるだけだ。
フォリアは心底ほっとして、部屋に入ると扉を閉めた。
目当てのものはすぐに見つかる。すぐに発見できたことに安堵しながら、何冊かの本と冊子を手に、意気揚々と部屋を出ようとしていた。
だが、その時部屋の扉が開く。
「――っ」
思わず息をのんだ。
驚いたのは相手も同じらしく、数秒間互いに見つめ合う。
「――陛下」
沈黙を破ったのは、スレイだった。
「……会議は、どうしたの?」
「少し早いですが、終わりました」
「そう……」
会話が途切れ、再び沈黙が落ちる。
それに耐えきれなくなったのは、今度はフォリアの方だった。
「そ…れじゃあ、私は戻るわ」
「陛下」
スレイの顔も見ずにそう言うと、彼の隣をすり抜けようとした。
しかし、声と共に腕を掴まれる。
「あっ……」
その腕を強く引かれ、部屋の中に戻された。両腕で抱えていた書籍が、床にバサバサと音を立てて落ちる。
「スレイ、何を……!」
彼はそのまま扉を閉め、フォリアを背後から抱きすくめた。
「スレ――」
「何故、私を避けるのですか」
耳元に落とされた呟きに、びくりと身体が跳ねる。
それは、彼の声色に混じる怒気のせいか。
それとも、強く、強く、身体に回る腕のせいなのか。
ただ抱きすくめられるままに立ち尽くす。
息をつくことも、難しい。
痛いほどの腕の力を、意識せざるを得なくなる。
体格の差。力の差。それらを如実に感じ、フォリアは生まれてはじめて、思った。
この男を「怖い」と。
「……フォリア様」
「やめて……」
彼の言葉を遮る。
こわかった。
とても、とても。
耳朶に触れる吐息と、その声に混じる甘さ、その全てが。
「わからないの、私……貴方が」
この「甘さ」の意味に気付いてしまえば、もう過去には戻れない。二度と。
だから、フォリアはずっと「気付かない」でいた。
ラシエルがいたからこそ、「気付かない」でいられた。
しかし、その彼はもういない。
それなのにフォリアには、その変化を受け入れるだけの強さがなかった。
今も、だ。
「貴方は、私に隠し事が多すぎる……」
だからこうして、胸の中の気持ちとは別のことを口にする。
「もう誰を信じたら良いか、わからないの」
ずっと、「箱庭」にいたかった。
ラシエルに、スレイに、シャロンに――。彼らに守られた箱庭で生きるお姫さまで、いたかった。ずっと、ずっと。
「戻りたい……。ラシエル様がいた、あの頃に……!」
かき乱されたくない。もうこれ以上は――。
悲鳴のような声でそう叫ぶと、スレイはふっと腕の拘束を解いて、一歩フォリアから離れた。
「……そうですか」
フォリアは自分の身体を抱き、彼に背を向け続ける。
「信じられないなら……、信じずともいいです」
フォリアはハッとして顔を上げた。
「ス……」
振り返る。
だが、その時には彼はもう部屋を出て、その後に残された扉がバンという音を立てて閉まるばかりだった。
フォリアはぺたんとその場に座り込む。
「……スレイ」
もういなくなった男の名を呼べば、ぼろぼろと涙が零れだした。
「スレイ――」
フォリアは蹲って顔を両手で覆う。
「いかないで……」
止まる気配のない涙は、次々と指の間をすり抜け、流れていった。
夏の暑さがやわらぎ、風に冷たさが混じるようになっていた。
フォリアはベッドの上から次第に変わりゆく季節をぼんやりと眺める。
あの日以降、スレイとは顔を合わせていない。口論の心労がたたったのか、また体調を崩すようになったからだ。
それを心配したシャロンとの、なんということもない会話以外、心休まる時間はなくなっていた。
体調が悪化していく。身に纏った黒が、より気持ちを気鬱にさせる。
だが、ラシエルの死から一年経つまでは、とフォリアは頑なに黒を着続けていた。意地も、あったのかもしれない。
「失礼いたします、陛下」
「……ストロファード卿」
突然現れたヴィレルに驚きかけて、よく考えれば何の不思議もないことに思い至る。彼は城仕えの医官なのだから、国王の不調には駆けつけて当然の人間である。
「今日は、貴方が診察なさるのですね」
「えぇ、申し訳ございませんが、ご容赦いただきたく」
寝台の上で半身を起こしたフォリアの前に、彼は膝をつき深く頭を下げた。
「……『ご容赦』?」
フォリアは目を丸くする。これまで彼は医官として王族の治療に当たることもあったが、フォリアの元へくることだけはなかった。偶然かと思っていたが、その言葉でそれが意図的なものだったのだと悟る。
「どういうことです?」
「は――、今は亡き妃殿下の御命令です」
「『妃殿下』……? ――お母様の、ことですか?」
「然様にございます」
ますます平伏するヴィレルを、フォリアは不思議な気持ちで見下ろしていた。
「卿。顔を上げて、説明して下さいますか」
言われたままに顔を上げた彼は、驚いたように目を瞠っている。
「私が陛下にお会いしようとしてこなかった理由を御存知ない、ということでしょうか?」
フォリアが頷くと、ヴィレルが少し寂しげに目蓋を伏せた。
「そうでしたか……。それは、さぞご不安だったことでしょう。申し訳ありません……」
再度そう言って頭を下げた後、ヴィレルは説明をはじめる。
亡き母は、彼らが政争に巻き込まれるのを酷く危惧していたらしい。
ストロファード家は、医官としては著名な一族であったが、本来ならば王妃を輩出できるような家柄ではない。父母は大恋愛の末に結ばれ、かなり無理を通したらしいのだ。
ストロファードの一族は王妃の実家としては権力基盤が弱かったが、医官という立場上、それを利用したい人間との接触機会をなくすことも出来なかった。
だから母は考えたという。王妃である自分やその子供たちと、そもそも接触しなければ、利用されることもないのではないか、と。
娘や孫の顔を遠くからしか見られなくなる。
その事実は悲しかったが、それが彼女の精一杯の気遣いだから、とあのパーティーの誘いをした時までその命を守り続けていたとヴィレルは語った。
「……では、何故?」
どうして、これまで守ってきた誓いを破ってまで、と不思議に思う。
彼はその問いにふ、と微笑む。
そのやさしい表情を見て、フォリアは理解させられた。
「……まさか、本当に私を心配して下さっていたのですか」
ラシエルを亡くしたフォリアを、ただただ純粋に心配してくれていたのだ。
彼は当然でしょう、と苦笑する。
「周囲に様々な噂をされていることは知っています。ですが、貴女は愛する娘が遺してくれた孫ですから」
「『愛する娘』……」
彼の目を見れば、もう疑うことなど出来そうもなかった。
もし彼らに二心があるのならば、今回したように、もっと早くからフォリアの元に顔を出せば良かったのだ。そんな簡単なことに、っこれまで気付かないでいた。
彼は――祖父はどんな人なのだろう。祖母も、そして母も。
フォリアはそれらを何も知らない。
そして、はじめて彼らに興味を抱いた。
「いつか――、母の話を聞かせて下さいますか、……お祖父様」
ヴィレルが微かに目を見開く。そして、笑った。
「……えぇ。いつでも、喜んで」
「――そういうわけで。……私一人で、空回りしていただけだったみたい」
フォリアはシャロンに、ヴィレルとの顛末を話していた。
今日は久し振りに、部屋の外に出ている。
庭園の傍に造られた、ガラス張りの温室の中だ。色とりどりの花に囲まれ、頭上からは陽の光が。しかし、風は吹きこむことがなく暖かい。
「……そうでしたか」
シャロンのどこか固い表情を見て、フォリアも肩を竦める。すぐに信じられないのは仕方がないだろう。
フォリアも人づてに聞いただけならば、疑ったに違いない話だ。
「では陛下……。いつかのストロファード邸での事故、あれは偶然だったのですね」
「そうみたい。酷い偶然があったものね……」
琥珀色の茶が入ったカップの縁を指でなぞりながら考える。
ヴィレルへの誤った印象を改められたのは、とても良い出来事だった。
しかし同時にそれは、ラシエルの死の真相を突き止めるというフォリアの目的の後退、ひいては自身の過失であった可能性の高まりを意味している。シャロンも、そのことを憂いてくれているのか、表情は曇ったままだ。
あの事故の日、スレイと初めて踊ったダンスをふと思い出す。
こんなにも彼と心が離れてしまうなど、あの時は想像だに出来なかった。女王と宰相という関係上、全く顔を合わせないというわけではないが、気心の知れた雰囲気はない。
もう二度と、あの日々は帰ってこないのだろうか。
「ねぇ、シャロン。最近、スレイと会った?」
「……まだ、仲違いなさっているのですか?」
一瞬言葉に詰まるが、それが何よりの返答になってしまい、彼女はそうですかと肩を竦める。
フォリアは苦笑を返して、温室のガラス越しに空を仰いだ。
「仲違い、ってわけではないと思うの。ただ、私が――」
言葉は続かず、フォリアはそのまま口を閉じる。
私が、なんなのだろう。
考えようとすれば、頭が酷く痛んだ。
「フォリア様、あまり無理なさらないで」
「……そうね」
フォリアは茶のカップを手に取り、飲み下す。香りづけに入れられたジャムの香りが鼻に抜けていった。
独特の甘い香り。遠い地から運んできたという珍しい果物の香りだ。シャロンが、作ったからと持ってきた、東方由来の果物を使ったものだった。
空になったカップを持ったまま、フォリアは茶を継ぎ足そうとポットに手を伸ばす。
だが、一瞬視界が酷く歪んで、手を止めた。
「――!?」
だが次の瞬間には、手が震えカップが指からすり抜ける。
それは床に当たって砕け散った。
しかし、パリンというその音はどこか遠く、フォリアはテーブルに手をつき、酷く咳き込んでいた。
「……あ」
フォリアは、目を見開く。
目の前が真っ赤になっていた。
自身の吐き出した、血で。
しかしそれに怯える暇も身体は与えてくれず、再びフォリアは咳き込み、テーブルに手をついていることも出来なくなる。血に塗れた天板に突っ伏し、ぜいぜいと息をする。
その時、ゾッと悪寒のようなものを感じ、目だけを向けた。
「――ッ」
立ち竦んだようにフォリアを見下ろすシャロンと視線がぶつかる。
あまりに無感情な瞳に、身体が震えた。
「――、誰か! 陛下が……!」
だが、それはほんの一瞬のことで、シャロンはすぐに身を翻し、人を呼びに行ったようだった。
気のせいに、決まっている。
フォリアは言い聞かせるようにして、彼女の冷たささえ感じた眼差しを見なかったことにした。
「………、」
目の前は一面の赤。
ふと、ラシエルの最期が浮かんだ。
私は、死ぬの……?
フォリアは、その赤から目を背けるように目蓋を閉じる。
「スレイ――」
自然とその名前が口をついて出た。
ああ、どうして今気付いてしまうのだろう。
彼が怖かったのは、気付いてしまうことが怖かったのだ。
自分の、この――想いに。
血が流れてゆく。
そのまま命も失ってしまった彼のように、もし本当に、これが私の最期ならば――
「あいたい……」
スレイ、あなたにいますぐ。
その言葉が声になったのかは分からない。急速に、意識が遠のいていく。
意識が完全に沈みきる直前、誰かが――焦がれた「誰か」が、名を呼ぶ声を聞いたような気がした。
「夫」は昔から、やさしい人だった。
「ラシエルにいさま!」
庭先にいた大好きな「兄」にフォリアはパッと顔を輝かせて駆け寄っていった。
「おっと……」
その勢いに任せて、フォリアは彼にぎゅっと抱きつくと、彼も抱きしめ返してくれる。
まだ、彼が兄ではなく従兄で、彼と「結婚」するらしいことは知っていても、それが何をするものなのか、そんな諸々を理解しきれていないような歳だった頃のことだ。
「あら、フォリア。お転婆さんね」
フォリアの勢いに倒れかけたラシエルの背後から顔を出したのはシャロンだ。
「シャロンねえさま! アルシェンにいさまも!」
ラシエルから身体を離し、たたっとシャロンの方へ走り、ぎゅうっと抱きつくと、彼女もフォリアに腕をまわしてくれる。彼女の隣にいたアルシェンも、フォリアの頭を撫でてくれた。
大好きな兄姉たちにちやほやされ、フォリアは上機嫌になる。
「あら……、そういえばスレイは? 一緒ではなかったの?」
シャロンに問われ、フォリアは後ろを振り返った。
「あれ……?」
ついさっきまで彼はそこにいたはずなのに、姿がない。どうしたのだろうと首を傾げ、ここに来るまでのことを思い返す。
「――あ。わたし、スレイのこと……おいてきちゃったかも」
ラシエルの姿を見つけ、何も考えずに走り出したのだった。
「――さま……! フォリアさま!」
そんな話をしていると、どこかへ置いてきてしまったはずのスレイが、フォリアの名前を叫びながら走ってくる。
「スレイ! フォリアはここにいるわよ」
シャロンの呼びかけにスレイがこちらを向き、目があった。彼の眉がつり上がる。
「フォリアさま! 一人で勝手に行かないでください!」
「ね、ねえさまぁ……」
スレイがおこってるぅ、と思わずシャロンの後ろに隠れると、スレイはますます険しい顔になった。
「まあまあ、スレイ。そんなに怒らなくてもいいじゃないの」
「姉上が甘やかすから駄目なんです!」
「甘やかしてないわよ?」
ね、とシャロンが後ろに隠れるフォリアの頭を撫でる。フォリアはその手がくすぐったくてにこにこしたが、はっとスレイの様子を窺う。
また彼が怒り出すかと思ったのだ。
しかし予想に反してその表情は、悲しそうなものだった。
「――何故、フォリア様は姉上ばかり頼るのですか」
「な、なぜって……」
スレイが、おこっているからよ。
そう答えようとして、何故だか言葉が続かない。
「私のことは、信用出来ませんか」
どうしてそんなことを言うの、とフォリアは悲しくなった。
シャロンの背を離れ、スレイの方へと歩み寄ってゆく。
「私、不安だったの」
フォリアはスレイの手をそっと掴んだ。
「貴方の本心が見えなくて」
でも、気付いてしまった。
気付かないふりを出来なくなってしまった。
最後――最期の時に、傍にいてほしいのが誰なのか。それをもう知ってしまったからだ。
フォリアは両手で包み込むように掴んだ彼の手を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「私は――」
目の前にはもう少年の姿はない。不安げな顔をした、大人の男が立っている。
ああ、これは夢なんだ。
フォリアはそのことにようやく気付くが、それでも言うべきことは、言いたいことは、何も変わらない。
フォリアは彼に微笑んだ。
「貴方のことを、ずっと信じているわ」
「――約束ですよ」
妙に鮮明な声が聞こえた。
これは夢なのだろうか、それとも現実なのだろうか。その境界は分からない。
だがその「約束」は、フォリアの胸に刻み込まれ、ほんの少しの迷いすらも、消してくれるものだった。
フォリアが吐血して倒れた日から、二ヶ月。
外はすっかり寒くなり、落葉樹の葉が散りはじめていた。もう暫くもすれば、雪が舞いことだろう。
「久し振りね、シャロン」
これまでの間、人と会うことを制限されていたフォリアは、その禁がようやく解かれ、さっそく心配をかけたであろうシャロンを呼んだ。
自室に現れた彼女へ、ソファに座ったまま手を振る。しかし、その顔は強張ったままだ。
「……お久し振りです、フォリア様」
どこか元気のない彼女を見て、困ったように笑った。
「なんだか、シャロンの方が病人みたい」
「あ、……その、お加減はいかがですか」
「最近はかなり調子がいいわ」
吐いた血が毒素を出しでもしてくれたのか、少しづつ、フォリアの身体は快方に向かっている。医師も、この調子なら春までには健康体に戻るだろうと太鼓判を押してくれた。
「そうですか……」
沈んだ雰囲気のままのシャロンにフォリアは肩を竦める。思いつめた様子の彼女に喜んだ様子はない。だから少しいじわるをしたくなってこう言った。
「あら、嬉しくない?」
「な、何を――」
「大丈夫よ、今は小康状態だけれど、いつまた悪化するか分からない、って」
言葉をなくすシャロンに、いじわるが過ぎたと笑いをもらす。
「ふふ。いやだ、冗談よ。回復したこと、喜んでくれているでしょう? 責任を感じてくれてるのよね? 貴女とのお茶会中に倒れたから」
「……そうです。生きた心地が、しませんでした」
フォリアは彼女に笑いかけた。
「ごめんなさい、心配かけて」
「いえ……、ご病気なのでしょう。仕方のないことです」
「…………本当にそうかしら」
「え?」
顔を上げたシャロンにフォリアはゆっくり首を振る。
「何でもない。それより、今日はゆっくりしていけるの?」
「ええ。……あ、いえ、その前に……。先ほどスレイと会いまして……。フォリア様を呼んできてほしいと言われたんです。――ラシエル様の件で、と」
「……そう」
フォリアは立ち上がった。
「なら、行きましょうか」
「そうですね……」
案内するというシャロンの申し出を承諾し、彼女の半歩後ろを歩く。
部屋を出て以降、シャロンは始終無言だ。表情を窺うことも出来ず、彼女が今何を考えているのか、それを推し量ることはできそうもなかった。
先導するシャロンは城の中心部を離れ、人気のない方へと進んでいく。
さらに城の裏手に出て、また歩いた。鉄の柵についた鍵のかかっていない門を開けて、その先へ足を踏み入れる。
そこには、大小の石碑が並んでいた。
代々の王族が眠る、墓地だ。
その中でも比較的新しい碑の前でシャロンは足を止める。
ラシエルのものではない。彼のものよりは、もう幾分雨風にさらされていた。刻まれた名前を見て、フォリアは悲しくなる。
「アルシェン従兄さま……」
その墓碑に刻まれている名は、彼女の夫、九年前に亡くなったアルシェンだ。
「……スレイは、ここに来いって?」
「え…ぇ、そうです」
フォリアは少しわらった。
笑いながらも、胸の内は悲しくてしかたがなかった。
「じゃあこれは、『スレイの差し金』……ということ?」
シャロンの背を見つめる。
彼女の、そのまた向こうには、剣を握り、鋭い目付きでフォリアを見据える数人の男達がいた。
シャロンは声一つあげない。
ここまで短絡的なことをしてくるのは、想定外だった。
男の内の一人が駆け出す。
狙いはフォリアただ一人というように、シャロンには目もくれず、こちらへ一直線に向かってくるのが見えた。
「……っ」
フォリアはゾッとするような恐怖に歯を食いしばる。しかし、どうしようもなく身体が竦んだ。
一歩後ずさる。
だが、当然男が駆ける方が早い。
フォリアは思わずぎゅっと目を瞑った。
考えが及ばなかった。間に合わなかった。気付くのが遅すぎた――。
これは、その報いだろうか。
男の足音が聞こえた。
剣が振り上げられる風を感じる。
そして次はきっと、身体に奔る痛み――
しかし、その予想は外れ、キンッという高い金属音が響いた。
その音に目を開く。
「あぁ……」
男の背中が見えた。
それだけで、足の力が抜けそうになる。
「スレイ」
フォリアの目の前に、凶刃を受け止めるスレイが立っていた。