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第一章  彼の死に抱く疑念

 突然、目の前が真っ赤に染まった。

 白く清潔だったはずのシーツは、鉄錆の赤黒い色に変わり、その寝台の主が身を折り酷く咳き込んでいる。

「――陛下!」

 その様子を間近で目撃したフォリアは、足を縺れさせながら、夫ラシエルの傍へ駆け寄った。彼の青白い顔は更に青くなり、しかし口元は対照的に真っ赤な血で汚れている。

 フォリアは自身が汚れるのも厭わず、彼の手を握り、背を撫でた。

 彼の命が急速に流れていく。

 それを悟って、ただただ恐怖に慄いていた。

「陛下、陛下……! ラシエル様!!」

 彼の名を呼ぶと、その瞳が一瞬だけやわらかく弧を描いた。

『――ごめん、フォリア』

 ああ、彼が死んでしまう。

「いかないで……」

 フォリアは、遠ざかる彼に手を伸ばした。


 その手を掴まれ、フォリアはパチッと目を開く。

 視線の先には執務室の天井と、掴まれた自身の手。普段と変わらぬ部屋を見渡して、そこの中央に据えられたソファで仮眠を取っていたのだと思い出した。

「陛下」

 視線を向けた先にいた見慣れた男の姿にフォリアは、ほっと身体の力を抜く。

「……スレイ」

「魘されていましたよ」

 フォリアの手を掴んでいた黒髪の青年に、気遣わしげな表情で顔を覗き込まれる。そんな彼に曖昧な笑みを返して、フォリアはゆっくり起き上がった。

 夢見が悪かったせいか、少し頭が重い。

「もう少し、休まれますか」

 フォリアは苦笑して首を横に振った。

「いいえ。また嫌な夢を見たら困るもの」

「嫌な夢、ですか」

 スレイはフォリアの頭に手を伸ばして、乱れていた髪を整えてゆく。赤みがかった薄茶色のそれに彼の指が通る感触がくすぐったい。こうしていると幼い頃に戻ったような錯覚を覚えた。頭がぼんやりしていたのも手伝って、フォリアはじっと彼の手に身を委ね、直前まで見ていた夢の内容を――、いや、あれが現実に起こっていた日のことを思い出した。

「……陛下が――ラシエル様が、亡くなった時の夢を見たの」

 先王ラシエルが世を去ったのは、もう三月(みつき)は前のことだ。

 一年後の喪が明けるまで、フォリアは彼の死を悼み、黒いドレスに袖を通す毎日が続く。同じ色の衣装を着続けることにも、そろそろ違和感を抱かなくなってきていた。

 少しづつ、彼のいない生活に慣れていく。

 しかし、目の前で夫を亡くした衝撃はそう簡単に消えるものではなく、今も時折こうして夢に見ては、フォリアを苦しませていた。

「……そうですか」

 スレイの手が止まる。悲しげに目を伏せる彼から、フォリアは視線を逸らした。彼もあの日のことを思い出しているのだろう。

 この三ヶ月、あまりに多くのことが変わってしまった。

 世継ぎの不在により、空位となっていた王太子位には、フォリアの従兄であるアルシェンの子――齢九つのルディスが座した。あまりに若い、いや幼い彼をそのまま王位につけるのは反発が起き、すぐの即位とはならなかったためだ。

 その代わり、彼が成人するまでの間、玉座を預かることになったのが、先王となったラシエルの王妃であり、その更に前の王を父としていたフォリアだ。

 ラシエルと同じ「椅子」に座り、幾日も過ぎた。王の代替わりで慌ただしかった城内も、ようやく少しばかり落ち着きを見せはじめている。

 王と共に国を支える立場である宰相のスレイは二十三歳とまだ年若く、一年ほど前に先代である彼の祖父からその地位を継いだばかり。国勢は荒れるのではないか、という周囲の予想を良い意味で裏切り、彼はその有能さを知らしめる結果となった。

 何よりフォリアも、幼少期からよく知っている彼でなければ、こう落ち着いてはいられなかったはずだ。

 フォリアはソファの背に身体を預け、スレイを見上げる。

 整った容姿に、闇夜のような黒髪。それから静かに、理知的に輝く銀の瞳。

 そのどれもが「美しい」という一言に集約される。彼が現れれば、色めき立つ女性も少なくない。とはいえフォリアにとっては見慣れたものだ。

 反対に、夫であったラシエルは、どちらかというと「かわいらしい」という形容が似合う人だった。明るい茶の髪に、瞳は王家に時折生まれる青緑色。フォリアの瞳が宿す深い青色とはまた違う、澄んだ湖底を思わせる色だ。そんなラシエルは、人懐っこく、明るく、優しく――。フォリアよりも幾分歳は上だったが、兄というよりは弟のような、茶目っ気のある人だった。

 しかし、結婚後二年も経たないうちに病を得て、三年かけて徐々に病状は悪化。まだ二十七歳だった彼は、この春のはじめ――寒さの残るころにあの世に逝ってしまった。

 フォリアとの結婚によって王に穢れが運ばれたのではないか。そんな荒唐無稽な話さえあるのを知っていた。

 だが、そう言われても仕方がないと思うほどには、夫婦(めおと)となる以前のラシエルは健康そのものだったのだ。

「ねぇ、スレイ……。ラシエル様は、本当にご病気だったと思う……?」

 彼が死んでから――、いや、それよりずっと前から、フォリアは考えていた。

 スレイの目が見開かれる。

 フォリアはラシエルの「病」に人為的な要因があったのではないかと疑っていた。

「私……、あの方がなぜ、逝ってしまわれたのか。その本当を知りたいの」

 フォリアは中継ぎとして即位した。

 だがルディスを即位させ、自分はその後見をする、という未来がなかったわけではない。フォリアが即位を拒めば、きっとそうなっていただろう。

 ラシエルを喪った悲しみが癒えるまで、ゆっくりと時をかけることも出来たはずだ。

 しかし、フォリアはそうしなかった。

 真実を知るには、揺るぎない地位が必要だったからだ。

 もう一時(いっとき)の混乱は過ぎ去った。本格的に動きはじめるには良い頃合いだろう。

「『本当を』ですか……」

 スレイがぽつりと呟く。

「そう。私は知りたいの。だから、力を貸してほしい」

 フォリアがじっとスレイを見つめると、彼は苦笑交じりに頷く。

「やりましょう。それで貴女の憂いが晴れるなら」




「久しぶりね、シャロン!」

 よく晴れた日の午後。庭先に現れた友人とその息子に、フォリアは満面の笑みで手を振った。シャロンは微笑みながら手を振り返し、傍らの息子――王太子でもあるルディスは、ぱっと顔を輝かせる。

 小走りでフォリアのすぐ近くまで駆け寄って来た彼は、ぺこりと頭を下げた。

「おひさしぶりです、陛下」

 ついこの間までもっと小さかったのに、とルディスの成長を我が事のように嬉しく思いながら、フォリアは頷く。

「ええ、今日は来てくれてありがとう、ルディス」

 ぽんぽんと頭を撫でると、彼は少し照れくさそうに笑った。

 控えめに微笑む姿は、母のシャロンと本当によく似ている。顔立ちと、それから眩い金糸の髪が生き写しのようだ。

 違うのは性別と瞳。シャロンのそれが銀なのに対し、ルディスの目が宿す色彩はフォリアの祖父や、彼の従叔父(いとこおじ)にあたるラシエルと同じ青緑色だった。

 その色は懐かしさと、少しの切なさを感じさせる。

「ルディス。男の子とはいえ、はしたないですよ」

「母上」

 ルディスの後方から、シャロンがゆったり歩み寄ってきて、彼を嗜める。

「ご、ごめんなさい」

「あら大丈夫よ、ルディス。男の子は活発なくらいの方がいいわ」

 しょんぼりしてしまったルディスを宥めるようにそう言うと、シャロンが肩を竦めた。

「フォリア様がそうおっしゃるのなら、いいのですけど。――ああ、そうだ。これお茶菓子に」

 シャロンは抱えていた包みを差し出す。それを受け取ったフォリアは、お茶の用意がされていたテーブルに置き、結び目をほどいた。

 中から出てきたのは、ふかふかのスポンジ菓子だった。焼きたてなのか、まだほのかに温かみが残っている。

 シャロンは菓子作りを得意としていた。自身で家事をすることのない上流貴族の子女としては珍しい趣味だ。

 互いに結婚してからは味わう機会も減っていたが、毎日のように会って遊んでいた幼少期に、フォリアはしっかりと彼女に胃袋を掴まれていた。

「あ、これ好き」

「知ってます。だから、用意してきたんですよ。あなたが――、落ち込んでいるんじゃないかと、思って……」

 少し寂しげに言う彼女に、フォリアも口を噤む。思えば、シャロンと最後に会ったのは、ラシエルの葬儀の日のことだ。

 それから三ヶ月も連絡を取らず、随分と心配させたのだろう。フォリアは彼女を安心させようと、笑顔を浮かべた。

「寂しいけれど、少しづつ『思い出』にできていってると思うわ。……心配しないで。それに、スレイもいてくれるから」

 シャロンの弟でもある彼の名を出すと、ほっとしたように彼女の表情はゆるんだ。

「ああ……、そうね。そうでしたね」

 シャロンは苦笑する。

「わが愚弟は、何の連絡もしてくれないんです。迷惑をかけてはいませんか?」

「大丈夫。頼ってばかりよ」

 どうやら彼女とのやりとりを怠っていたのは自分だけではなかったらしい。

 フォリアはシャロンと顔を見合わせて笑いあう。

 この姉弟には、助けられてばかり。

 フォリアは、しみじみ思った。


「――それで、今日の本題はいつ話してくださるんです?」

 フォリアとシャロンとルディス、その三人で和やかな茶会をした後のこと。

 ルディスはじっと座っていることに退屈したのか、少し離れたところで遊んでいる。

 フォリアはシャロンの言葉に顔を上げた。

「……ただの気分転換、とは思わなかった?」

「だって……。あなた、ずっとそわそわしてるんだもの」

「え、そ…そうだった?」

 ばればれの反応をしていたことに赤面していると、シャロンはくすと笑う。

「ラシエルはもっと分かりやすかったですけれど。あなたも相当」

「……それを言ってるの、シャロンとスレイだけだからね?」

 負け惜しみのようなことを口にするが、彼女にはどうせ口では勝てない。それ以上は肩を竦めるのにとどめた。

「――まあ、いつ言おうかと悩んでいたから……」

 話を切り出してくれたおかげで、かなり言いやすくなった。

 シャロンが笑いを収め、真剣な表情になったのを見て、フォリアも静かに口火を切る。

「貴女に、協力してもらいたいことがあるの」

 フォリアはラシエルの死に疑念を抱いていると、スレイに言った日のことを思い出す。

 協力することを了承した彼は、続けてこう言ったのだ。

『――ならば、姉上にも御協力いただきましょう』

 シャロンはフォリアにとって、最も信頼できる人間の一人と言っても過言ではない。スレイに加えて、彼女の協力を得られるのならば、こんなにも心強いことはなかった。

 フォリアが事の次第を手短に伝えると、シャロンの表情が徐々に強張っていく。ラシエルが病死でなかったならば、国の大事(だいじ)(だいじ)にまで発展してしまうかもしれないことを思えば、当然の反応だった。

 抱えていた疑念を洗いざらい話してしまうと、シャロンは深い溜息をついた。

「……本気ですか?」

 彼女の問いに、フォリアはしっかりと頷く。

「ええ。何もなければ、ないでもいいの。それを確かめたいから」

「――、わかりました。何か思い出せたことがあれば、お伝えします」

「それでいいわ。ありがとう……」

 彼女の返答にほっとして、ふと遠くにいるルディスの方へ視線を向ける。

 ラシエルとの間には、ついに子をつくることができなかった。その代わりのように、フォリアはルディスが可愛くて仕方がない。

 彼が即位する時までに、憂いを一つでも消しておきたい。それも、フォリアが一連の事件を追う動機の一つだった。

 視線を感じたらしいルディスがこちらを向き、大きく手を振る。

 フォリアはそれに手を振り返しながら、決意を新たにした。




 遠くの空が赤くなりはじめたころ、シャロンたちは帰っていった。

 帰る、とは言っても、城からほど近い場所にある別宮に住んでいる彼らは、会おうと思えばいつでも会える距離にいる。ルディスは王太子となる以前から定期的に城へと出入りしており、それに同伴していたシャロンも同様だ。むしろ、何故この三ヶ月、全く顔をあわせなかったのかが不思議なくらいだった。

 自室に戻ろうかと思ったフォリアだったが、その前にスレイがいるであろう執務室へと顔を出す。シャロンとの話を彼の耳にも入れておこうと思ったのだ。

 扉を開けると、何か書き物をしていた彼は顔を上げた。

「姉上はお元気でしたか?」

「どこかの弟が連絡ひとつ寄越さない、って嘆いてたわ」

 ばつが悪そうな顔をしたスレイに、くすりと笑う。

 フォリアがソファに身を沈めると、彼も自身の机から立ち上がった。

 茶の用意をするといって彼は暫く席を立ち、ほどなくして戻ってくると、フォリアの前にあるローテーブルに茶器を置いた。

「二人とも元気そうだったわ。あと、シャロンは協力もしてくれるって」

「そうですか」

 対面に座った彼が手際よく茶の準備するのを目で追いながらぽつりと言うと、彼も手を止めないままに返答する。

「――どうぞ、陛下」

 白いカップに注がれた紅茶からはとてもよい香りがしていた。礼を言って受け取り、一口飲んでほぅと息をつく。

「おいしい……」

 何の気なく零れ出た自身の言葉に、フォリアは唇を尖らせた。

「ラシエル様とのお茶は、私が毎日淹れていたのに。どうして貴方の方が、何でも上手く出来るのかしら……」

 スレイは軽く目を瞠ったあと、自分用にも淹れた茶を啜る。

「葉の種類も違いますし」

「それにしたって……」

 フォリアは紅茶の水面に映る自分の顔を見つめ返す。

 生前のラシエルにすら、自身ができたことは少なかった。身体に良いというものを調べてみたり、取り寄せて試してみてもらったりといったことはしたが、どれも大した効果はなかったように思う。

 フォリアができたのは、日々弱っていく彼を、傍で見ていることだけだった。

「私はラシエル様に……、あと何をしてあげられると思う……?」

「……貴女がそう思っていらっしゃるだけで、ラシエル陛下もお喜びですよ」

「うん……」

 生前のラシエルにも、同じようなことを言われた覚えがある。

 結局その言葉に甘えてしまい、フォリアは今、もっと出来ることがあったのではと後悔している。

 彼の死について蒸し返すのも、ただじっとしていることができないという、ただそれだけなのかもしれない。

「陛下。今は、焦らずに出来ることをしましょう」

「……そうね」

 スレイの言う通りだ。今は出来ることをするしかない。フォリアは少し元気を取り戻して頷いた。

「まず……、どうしたらいいのかしら?」

 この三月(みつき)の間に、フォリアが一人で出来たことと言えば、記憶を頼りにラシエルの生前について思い出したことを纏めたり、これまで自身が書き残してきた日記を読み返したり、といったことくらいだ。

 突然、女王として即位をしてしまい、慣れないことが山積みで、他の事をするだけの時間も余裕もなかった。芳しい結果もなく、次の一手に窮してしまっている。

「そうですね……」

 スレイは茶を一口含み、息をついた。

「貴女は誰が……、件の事柄に関与していると思っているんですか」

「私は……」

 件の事柄――、ラシエルの死に関与している人物。それはつまり、彼が死んで得になる人物だ。

 王という立場上、彼の死を喜ぶ者も、悲しい現実ながら当然存在する。

 (はた)から見れば、フォリア自身「ラシエルの死によって得をした人物」と言えなくもない。その死が原因となって、女王となったのは紛れもない事実だからだ。

「……ストロファード卿は、どうかしら」

 フォリアが名を挙げたのはヴィレル・ストロファードという名の男だ。彼は城仕えをする年配の医官であり、フォリアからすれば母方の祖父でもある人物だった。

「彼は私の外祖父だもの。急に一人で計画を立てて、というのは考えづらいけれど、誰かに唆されて……、権力に目が眩んだのかもしれない」

 フォリアにとって祖父であるはずのヴィレルだが、互いを繋ぐ立場であった母が早くに亡くなり、これまで殆ど交流がなかった。城に仕えているはずの彼とは、血の繋がりとはまた別に関わりがありそうなものだが、避けられているのかと思うほど会うことがない。

 そのためフォリアは、ヴィレルの人となりを殆ど知らなかった。

「それに……、彼は『医師』よ」

 ストロファード家は代々、医官を排出し続けている家門だ。

 ラシエルが病以外の理由で命を奪われたのだと仮定するならば、毒の使用は間違いがないだろう。

 彼ならば、怪しまれることなく毒物を手に入れ、他の人間にはそれと分からぬように、ラシエルに飲ませ続けることも可能、かもしれない。検知されない毒を知っている可能性もあった。

「……スレイ?」

 彼が相槌すら打たず黙っていることを不思議に思い、フォリアは視線を向けた。

 現状ではただの「妄想」の域を出ない話だが、絶対に無いとは言えないはずだ。

 しかし、スレイの表情には曇りが見える。

「何か、おかしいことを言った……?」

「いいえ。ただ……」

 スレイは首を横に振る。

「そうですね。貴女の仰ることも可能性としては十分にあるでしょう。それに動機のある人間など、数えきれないほどいます」

 スレイは言葉を切り、苦く笑った。

「――私だって、その一人だ」

「え……?」

 フォリアは目を瞬かせる。

 それは、彼にもラシエルを殺したいと思うような事があったということだろうか。

 しかし、彼らの仲は悪くなかったように記憶している。主従としての一線を引いているようには見えた時もあるが、互いを信頼していたようにフォリアの目には見えていた。

 それなのに、何故……?

 だが、彼はそれ以上この話をする気はないのか、軽く首を振って話題を戻した。

「陛下、たしか近々ストロファード家で行われる夜会に、招待されていませんでしたか」

「ええ……。ラシエル様のことがあったばかりだから、息抜きに城を出てみてもいいのでは、って。こんなこと今までなかったから、妙だと思って……」

 祖父であるはずのヴィレルから、そのような招待を受けたのは、記憶にある限りで、初めてのことだ。

 フォリアが女王になった途端に態度を変えた。おかしいと思わぬはずがない。

「その招待、受けましょう」

「いいけれど……、どうして?」

「貴女は彼の人となりを知らないでしょう? 私も多くを知っているわけではありませんが……。それでも一度会って、お話しされてみるのもよろしいかと。あと、周囲の話も聞けるでしょうし」

「……そうね」

 フォリアはこくりと頷いた。

 ここで、誰それがあやしいなどと言っているだけでは、何もはじまらないのだから。

「でも、一つ問題があるわ……。私のエスコートは誰がしてくれるの?」

 フォリアに兄弟はいない。そもそも、父が国王だったフォリアが、従兄のラシエルと結婚することになったのも、自身に兄弟姉妹、特に男の兄弟がいなかったからだ。

 生まれて間もなく婚約していたフォリアは、これまでずっと何かの催しに出る際は、ラシエルと共に出席していた。彼が動けなくなってからは、その病状を理由にそういった場に出ることもなかったのだ。

「……では、私がお供致しましょう」

 フォリアはパチパチと数度目を瞬かせて、笑った。

「それは、心強いわ」




 招待状に出席の返事を出し数日。

 フォリアはスレイを伴い、ストロファード邸へと赴いていた。

 まだ喪が明けぬ中のため、出席者や邸内の雰囲気にも、普段のこういった会より華やかさが抑えられた印象を受ける。

 ストロファード邸は、王都から城にほど近い場所にある貴族街区、その外れに位置していた。しかしその屋敷自体は、由緒正しい家柄に相応しい歴史ある邸宅、らしい。

 全て道すがらの馬車内でスレイに聞いた受け売りだが。

 その彼はというと、深い藍色の上下を見事に着こなし、フォリアの隣に立っている。

 そんな彼に手を取られながら、フォリアはきょろりと辺りを見渡した。彼は何度か来たことがあるそうだが、フォリアにとっては、はじめて足を踏み入れる場所だ。

 母の育った所なのだと思うと、自然と興味が湧く。

「陛下」

 隣からこそっと声をかけられ、視線を上に向ける。

「あまり、きょろきょろなさらないように」

「そ、そうね……。気をつけるわ」

 こじんまりとした会なのか、屋敷前にはまばらにしか人がいないが、フォリアは注目を集める立場だ。物珍しげに周囲を見渡すのはみっともない。

「――緊張なさってますか?」

 気を引き締めようとした際に、身体に力が入ったのが分かったのだろう。スレイはくすと笑みをもらした。

「当然、でしょう……? そもそも、あまりこういう所に来ないのだもの」

 これまでは、ラシエルに同伴して隣で微笑んでいればよかった。「皆、国王である彼を注視しているのだから、見苦しくない程度のふるまいをしていればいいわ」とどこかで思っていたのかもしれない。

 今は、所作ひとつ装いひとつが気になって仕方がなかった。

 ラシエルの喪に服すため普段と変わらずドレスの色は黒だが、同色の糸で精緻に施された刺繍が、光に照らされるごとに美しく浮かび上がる。身体に沿った形のそれは、袖を通すまでは美しく見えたものだが、今ははたしてどう見えているのか。

 頭の方は、髪を低めの位置で纏め、その上から小さなベールのついた帽子をかぶっている。そのため、顔は半ば見えないはずで――、どうにも陰気に見える気がしてならない。

「陛下、少し失礼を」

 立ち止まったスレイがフォリアの方へ手を伸ばす。

 その指はフォリアの顎先に触れて、そのまま上を向かされた。

「背筋を伸ばして、前を。そうすれば、新たな国の指導者として、誰も貴女を軽んじることはありません」

 ぽかんとしていると、スレイの指が離れ、再び彼が歩きはじめる。数拍遅れて、フォリアも慌ててその隣に並んだ。

「大丈夫です。私がお傍におりますから。それに……」

 彼はこちらの様子を確認するように、視線を走らせ、そっと微笑む。

「今日の貴女は一段と美しい――。だから、その行く手を阻む者など、存在しませんよ」

「……え?」

 さらりと告げられた言葉を理解できず、目を瞬かせた。

 今、「美しい」と言った……?

 フォリアは頬が熱くなったのを感じて、スレイからぱっと視線を逸らす。

 何故こんなにも照れているのだろうか。自分でも分からず混乱する。

 だが、そうこうしている間にも、会場の広間についてしまい、話はうやむやになった。

 混乱している場合ではない、とフォリアは気持ちを引き締め直す。

 フォリア達の来訪を告げる声と共に大広間へ続く扉が開き、中にいた大勢の人々の視線が向けられた。

 ――背筋を伸ばして、前を。

 フォリアはスレイの言葉を頼りに、精一杯堂々として見えるように微笑む。

 それを見て安堵したようにスレイが息をつく気配がした。

 広間には二、三十人の人々がそこかしこで談笑している。国主の服喪期間ということもあり、皆華美な装いは避けているようで全体的に暗い色合いの印象が強い。部屋自体も、派手な飾りはなく、「大広間」というにはこじんまりした印象だ。しかしその中央に吊られたシャンデリアは目を引くものがあった。

「これはご機嫌麗しゅう御座います、陛下」

「ええ、お招き頂いて嬉しいですわ、ストロファード卿」

 人の波を縫うように現れたのはヴィレルだ。皺が刻まれた顔や白髪の多く混じった頭髪は彼の歳を感じさせたが、その動きはきびきびとしたものだった。

 フォリアが微笑むと、彼は懐かしげに目を細める。

「あぁ……。母君と似てこられましたね」

「そ…のようですね。私は肖像画でしか知りませんが……」

 物心つく前に逝ってしまった母。とても美しく優しい、けれどどこか儚げな人だったという。しかし周囲はフォリアを慮ってか、殆どその名を口にはしない。それゆえに、実母についてフォリアが知っていることはあまりなかった。

 ヴィレルは、そうですか、と一瞬だけ悲しげに笑う。

「……では陛下、今宵はどうぞごゆるりとお楽しみください。一時の気休めになれば、幸いです」

 挨拶に来ただけだったらしく、彼は足早に去っていった。その背中を見送り、フォリアは肩の力を抜く。

「――陛下」

 気が緩んだのを見破られたのか、スレイに咎めるような口調で呼ばれる。フォリアは彼の顔を見上げて、分かってると頷いた。

 決して気を抜いてはならない。だが、公平な目も忘れてはならない。

 出掛けに言われた忠告をフォリアは思い出し、もう一度胸に留める。

「……そういえば、シャロンは来れないのだったわね?」

「ええ、所用があると」

 今日の舞踏会に出席するにあたり、フォリアはシャロンにも予定のほどを尋ねていた。しかし、彼女からは先約があると返答があったのだ。

 つまり、今ここにいる絶対の味方といえるのは、スレイをおいて他にはいない。彼がいれば大丈夫という思いはあったが、それでも少しだけ不安を覚える。

「スレイ、ここからどうしたら……」

「陛下」

 彼はその場でフォリアに向かって膝をついた。流れるような所作に驚いていると、スレイはフォリアの指先を軽く掴み、そこに口付けを落とした。

「一曲、ダンスのお相手を務めさせて頂けますでしょうか」




 煌びやかなシャンデリアの下、フォリアはスレイに手を取られ、くるりとドレスを翻す。

 その動きのまま、ふわりとやわらかな闇色の布地が美しく広がった。

 彼と呼吸を合わせ、ステップを踏み、広間の中央を優雅に移動していく。

 今踊っているのは、フォリアとスレイの一組きり。周囲の視線に晒され、もっと緊張するかもしれないと思っていたが、意外なほどフォリアの心は落ち着いていた。

 そういえば、スレイとこうしてダンスをするのは初めてではないだろうか。

 物心ついたころには既に、ラシエルと婚約していたフォリアは、何かのパーティーに出ることがあっても、ずっと相手はラシエルだった。ダンスの練習をする時も、教師を除けば相手はいつも同じだ。

「……驚いた。貴方ってダンス、上手いのね」

「そうですか?」

「ええ。だって、まだ私、一度も貴方の足を踏んでないもの」

 胸を張ってそう言うと、スレイはぷっと吹き出した。

「今までは踏んでたんですか?」

 おかしそうに尋ねてくるスレイに、フォリアは拗ねたふりをして、ぷいっと顔をそっぽを向く。

「そうよ。ただ私は『王女様』だったし、相手がいたから、いやだって言えば誰も無理強いできなくて、気付かれてなかっただけ」

「そうでしたか。――おっと」

 足が縺れかけたフォリアの身体を、スレイは軽々と支え、転んでしまわないように床に着地させた。それをステップのように見せかけながらやってのけている。やはり彼の腕前は相当なものだとフォリアは思った。

「よそ見をしているからですよ、陛下」

「……気を付けるわ」

 耳元で囁き声を落とすスレイに、どことなく落ち着かない気分になる。急に、握られた手と背に触れる彼の手に意識がいった。

 ラシエルと踊っても、こんな気分になったことはない。

 ちらりと彼を見上げれば、何食わぬ顔をしている。それが少し、悔しい。

 腹いせに今度はわざと足を踏んでやろうかしら、と少し考えたフォリアだが、またからかわれるだけだと不承不承、思い止まった。

「それで、スレイ。この後はどうするの?」

 そもそもフォリアは今日、踊るつもりなどなかったのだ。しかし、一度も出ない方が目立つという彼の進言を聞き、苦手なダンスに勤しんでいる。

「私が調べてきますので、あなたは楽しんで――、と言っても聞いてはいただけませんね」

「分かってるんじゃないの」

 じとりと胡乱な目を向けると、スレイは肩を竦めた。

「では、陛下はご婦人方とお話をなさっていて下さい」

「それじゃ、さっきと変わらないわ」

「いいえ、噂話を集めるのも立派な『情報収集』です」

「噂?」

「そうです。女性陣の持つ情報網は侮れません。貴女もご存じでしょう?」

「……そうだったわね」

 フォリアは俯き、小さく頷く。

 この世に生まれて二十一年。王女として、五年前からは王妃として城で生きてきたフォリアも、そういった噂のたぐいと無縁ではいられない。

 それらは、真実を言い当てていることもあれば、事実無根の酷い噂話にすぎないこともある。

 九年前、シャロンの夫アルシェンが亡くなった時などもそうだ。当時十二歳だったフォリアには何も分からないと思っていたのだろうが、それでも「シャロンを傷付ける噂」が流れていたのは、あの時既に気付いていた。

「……根も葉もない虚偽も含まれてるわ」

「それは、否定しませんが」

 暫く無言のままステップを踏む。周囲のさざめきが妙に耳についた。

 フォリアはスレイの動きに身を任せる。

 九年前に流れていた噂の正体も、今となっては知っている。

 当時シャロンは、頻繁にラシエルの元を訪ねていた。夫アルシェンの重篤な病状について相談できる相手が他にいなかったからだ。

 王族であるアルシェンの状態を、迂闊に外で話すわけにはいかない。しかし、彼女の気持ちを受け止めるには、フォリアもスレイもまだ幼すぎたのだ。

 しかし二人が会っているとを知った人々は、彼らが「密通」しているとの噂を立てた。

 今となっては、シャロンに対して軽率な行動だったと思わないわけではない。

 だが、彼女と同じような立場となり、当時はそこに気をまわす余裕もなかったのだろうと不憫にも思っている。

 アルシェンが亡くなったのはフォリアにとっても、とても悲しい出来事だった。

 しかし妻であるシャロンの悲しみはその比ではない。一時は、後追いするのではと心配するほどだったのだ。

 息子の存在がなければ、彼女はとっくにこの世の住人ではなくなっていたに違いない。

 かの「噂」が、シャロンをより追い詰めたのではないかと、フォリアは思っている。

「……陛下?」

 フォリアは、スレイの手をぎゅっと握る。

 しかしその「噂」が、時の情勢と深く関係しているのもまた事実だ。彼女が頻繁にラシエルと会っていたということ自体は、紛れもない事実だったのだから。

「このダンスが終わったら、少し休んでくるわ。居合わせた方とお喋りでもしながら、貴方が迎えに来るのを待ってる」

 スレイの指示に従う、という意図を言外に伝えると、彼は頷いた。

「曲も…もう終わりますね。では一度、外へ出ましょう」

 そう言いながらスレイはくるりとフォリアを一回転させると、曲の終わりと同時に掴んでいた手を引く。

「行きましょう」

 スレイに手を取られたまま、フォリアは歩き出した。

 とりあえず、どこから声をかけよう。

 そんなことを考えながら歩いていたためか、スレイがハッと天井を見上げても気に留めなかった。

「――陛下!」

「え……?」

 彼に「何?」と訊ねる暇もなく、フォリアはぐいっと強く手を引かれる。

 何が起きたのか分からぬまま、視界が塞がり、次の瞬間には浮遊感を覚えた。

 スレイに抱きしめられ、彼がそのまま地を蹴ったのだと一拍遅れて理解する。

 そして、身体が床にぶつかるかどうかの瀬戸際で、スレイの背後からガラスが割れるような酷い破砕音と地鳴りのような音が響いた。

「なっ……」

 何……!?

 フォリアはスレイに覆い被さられ、音以外に周囲を探る手立てがない。

 その酷い音が収まると、誰もが息をするのも忘れたような静寂が訪れる。

 しかしそれも一瞬のことで、すぐに皆が混乱するようなざわめきが起こった。

「っ……。陛下、怪我は……?」

 スレイの声にフォリアはハッとする。

「だいじょうぶ、だけど。一体なにが……」

「上の照明が落ちて……。それで、咄嗟に。……申し訳ありません、身体を痛めませんでしたか」

「わ、私は何ともないわ。それより、スレイ。貴方は……」

 彼の身体の下から這い出るようにして、フォリアは起きあがった。

「――っ!」

 そこには、見るも無惨にバラバラになったシャンデリアの残骸がある。

 あれが頭上に落ちてきていたら、と思うとゾッとした。死を免れることは出来なかっただろう。

 そして、ふと視線を下に向けて、フォリアは真っ青になった。

「スレイ、背中、血が……!」

 彼の背は、照明に使われていたガラスのせいか服が数ヵ所裂け、血が染み出している。

 もともと暗色の服を着ていたため、分かりづらかったが、その裂け目付近から、どんどん布が赤黒く変色していくのが分かった。

 倒れたまま起き上がれない彼、苦しげな息遣い。そして、赤い血――。

 ガタガタと手が震えだす。

 ()()()とは違う。そう分かっていても、震えが止まる気配はない。

「――陛下」

 スレイはそっとフォリアの背をさする。

「これくらいで私は、死にませんよ」

「あ……」

 スレイが微笑みを浮かべる。痛みからか少し引きつった笑顔だったが、それでもフォリアは身体の力が抜けた。

 手の震えも、止まる。

「そうよね……」

 どうにか落ち着きを取り戻したフォリアは、幸い目立った傷が見当たらない頭部をそっと撫でて抱きしめた。

「陛下、……少し、痛いです」

「あ、ご……ごめんなさい」

 知らぬ間に腕へと込めていた力を、おそるおそる緩める。しかし抱きしめた腕を放すことは出来なかった。

 その時、どこかから視線を感じて後ろへ振り返る。

「…………シャロン?」

 視線の先にあった廊下に通ずる扉。

 そこに、見知った金髪の女が消えていったような気がした。

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