第二十六話 幼馴染キャラはラブコメのロマン
黒い外套、黒いヒール、黒い長髪。
黒ずくめの女が一人、土砂降り雨の中で佇んでいた。
ぎゅうとその薬指に嵌められたヒビだらけの、しかも一目で子供向けの玩具だと分かる赤い指輪を右手で握りしめ、目の前のアダマスと向かい合う。
アダマスより結構な歳も背も彼より大きな筈の彼女は、兄に叱られることを恐れる子供のように大分小さく見えた。
片眼鏡を掛けた左眼に希望の光は無い。
右眼は機械仕掛けの義眼。人工の赤い光はアダマスの方角を照らす。
『おおきくなったら結婚しようね』
そう約束したのがほんの数年前。
四年前にも満たなかった気がする。それで人は此処まで変わるのだから驚きだ。
亡霊にでもなったかのような彼女が発した言葉は概ね予想通り。此方にも彼女が何をし、そしてどのような罪を犯して来たかの情報は届いている。
「ごめんね、汚れちゃったよ。私、汚れちゃった。こんなのじゃもう結婚出来ないよ。
……ねえ、君に殺される為にね。私はこれまで自殺せずに生きてきたんだ。
もう疲れた。もう、疲れたよ。だから、ねえ、もう楽にしてくれよ!」
するとアダマスは彼女に寄り、指輪を一瞥した。五歳だった当時、なけなしのお小遣いで買って渡したものだ。彼女の細い腰をギュウと抱き締めてみせ、続けざまに言う。
「ゴメンね、意気地なしのボクには出来ない。
君がどんなに自分を嫌っていても、ボクはずっとずっとエミリーを待っていた」
言って口付けを交わす。
彼女……エミリーにとって口付けと云う行為そのものは何度だって見ず知らずの男たちから犯されさせられてきた事だが、愛情のある口付けは産まれて初めての経験だった。
◆
少し昔の夢を見ていた気もする。
が、実はそうでもなかったような気もする、曖昧な目覚め。
ベッドで寝ていたアダマスの口元を湿った熱が撫でるが、朝日によるものではない事を経験則で知っている。
隣で一緒の布団に寝る妹の口付けだ。
ところで、たまにあるのだが、今日は身体の方には、その熱が無い事から一緒に寝たもう一人の妹は早めに起きて何処かに行ってしまったらしい。
フワフワとした檸檬色の長い髪。
まるでウェディングベールのように顔を隠し、少し顔を離して見れば、小さな口から特徴的な八重歯を覗かせる。
髪を少し退けれてやればキメの柔らかい桃色の肌が見えた。睫毛は長く、目を閉じてスヤスヤと眠る様が可愛らしい。
名残惜しくもアダマスは彼女に囁いた。
「朝だよ、シャル」
「ん、お兄様ぁ……」
まだ二桁になったばかりだと云う年齢の割に、色艶な声色を吐き出す。
その様についつい人差し指を突き出して、プックリした下唇を啄ばむように突く。健康的に程よい柔らかさであった。
二、三度行えばパチリと瞼が開かれた。
やや強気さを感じる湖のように澄んだ水色の双眸が此方を捉える。
唇を突いていた指をパクリと咥え、口の中で舌遊び。その感触を覚えた時には、熱くなり過ぎないコビりつかない程度で口を引き、窓より注がれる陽光にて八重歯を光らせニカリと笑った。
シャルは、笑うや否や髪で顔が半分隠れたままで上体を起こす。
そうして、くの字型に曲げた右腕の手で天井まで伸ばした左腕の肘を掴み「ん~」っと声を捻り出して背筋をよく伸ばせば、自然とシーツが巻き付いた彼女の白い肢体が日光に照らされ、歳相応のしなやかな身体を表現した。
腰が反るほど伸び切ったところで両手を額に添えて髪を後ろへ回せば、額と、額の中心に付いたホクロが露わになる。
これで耳下辺りで後ろを二つに結べば何時もの彼女であるが、解いている事は滅多になく、こういった寝起きの機会か風呂上がりくらいにしか見られないので役得と云えば役得だ。
「おはようなのじゃ、お兄様!」
「ん。元気でよろしい」
二パッと元気な笑顔が向けられた。
アダマスも上体を起こそうと仰向けのままに掌でベッドを押そうとすれば、シャルが手を差し伸べてくれるので喜んで引っ張られる事にする。
一気に持ち上がる視界が真っ先に捉える小悪魔的な顔。アダマスの肌を隠すものはない。
ニマニマ笑うその様に、まだ朝だが第2ラウンドをしても良いかなと思ったその時だ。
コンコンと軽く扉を叩く音がする。
「坊っちゃま、そしてお嬢様。
ハンナです。お召し物をお持ちしました」
落ち着いた、しかしよく通る声だった。
アダマスが「入って」と言えば、寝室のドアノブが回されて、真鍮色の髪を短く切った、如何にも『メイドさん』といった風貌のハンナが現れる。
表情はニコニコとしていて隙が少ない。口元のホクロに独特の色気を感じる。
その後ろからトコトコと、こちらも同様に真鍮色の髪をして、シャルロットよりも少し小さなマーガレットが入ってくる。
どうも早めに起きた後、ハンナの手伝いを優先させていたと見た方が良いようだ。真面目な彼女らしい。ただ、目が合った瞬間に少し頬が桃色に染まった気もする。
「おはようございます。昨夜はお楽しみでしたね」
一礼し、湯を溜めた桶と、小さな箪笥。
それらが二つずつ乗った木のワゴンをカラカラと押しながら此方の絨毯の上を歩く。
何時もの事なので、今の格好を特に気にする事はなく、ベッドに腰掛けるシャルロットを背にハンナの目の前までヒョイと降りた。
「おはよ。シャルとマーガレットが可愛くってねぇ。じゃあ、お願いするよ」
「畏まりました。マーガレットちゃんはお嬢様をお願いね」
「はいっ、畏まりました。では失礼しますねお嬢様。
そして昨日はありがとうございます、ご主人様」
いつの間にやらベッドから降りていたシャルロットの着付けを行うマーガレットを背後に、ハンナを目の前にしたアダマスは水平に手を広げる。
先ずは桶へ、ハンナは手をつけた。
桶にはぬるま湯が溜められて、香り付けの花弁が浮いていた。
そこに浸されている布を雑巾絞りして、完全に水分が抜けない程度に脱水すると、アダマスの身体を慣れた仕草で、汗を満遍なく拭いていく。
別に在る乾いた布。
それで水分を手早く拭き取り、最後にブラッシングして髪をアシンメトリーに整える。
そうして箪笥からブラウスやらパンツやらを取り出して、着せられる。
七分丈の茶色いカーゴパンツに白いブラウス。青いベストとポーラー・タイ。
左の二の腕には、先端にフリルの付いた赤い布が結ばれた。
その在り方は熟年夫婦のようであるが、シャルが産まれる前からずうと同じ事をしているので間違っているとも言い切れない。
タイの長さ調節用金具に刻まれるのは、真珠と騎士の紋章。
外向けでは更にマントや帽子などの装飾が追加されるが、仕事着としての正装は完成である。
後ろの二人も終わったそうで、赤いシュシュで髪を耳下辺りでツインに纏めてオデコを出して、着るのは領主補佐の衣装であるドレス。
領主の朝は、こうしてはじまる。
◆
一方その頃、ラッキーダスト領内の某所にて。
色鮮やかな怪しい薬品がボコボコと煮えたぎり、湯気を発していた。
湯気は部屋を埋め尽くさんとするも、部屋にひとり立つ女性の黒い外套がクルクルと翻り、それらを振り払う。
彼女がつま先立ちで回ったからだ。
振り払われた湯気の中から現れるのは、ひとつの義眼。赤く光る。
赤光は片眼鏡に反射し、彼女の左薬指に嵌められていたオモチャの指輪へ独特のテカりを帯びさせた。
「えっへっへ、アァダマァ〜スくぅ〜ん。
い〜まぁ、迎えに行くからねぇ」
ブドウ色の左眼から発せられるねっとりとした視線が、修繕跡だらけの指輪へ向けられていた。
彼女はエミリー・ラッキーダスト。21歳。
アダマスの第三夫人である。




