雑草的雑想
人に名前を与えるのは何故だろうと思う。
そんな馬鹿な疑問を抱くのは、俺は名前なんてなくても生きていけると確信しているからだ。
もしも人間に名前を与えられなかったら、呼称するものが無くなって不便じゃないかと思う人もいるかもしれない。
でも名前が無かったら、名前のかわりに、「○○の人」と呼ぶだけのことなのだ。
例えば、ヤマダタロウという名前の人がいる。この人は赤の他人から「ヤマダタロウさん」と呼ばれると反応してしまう。
名前がなければ「ヤマダタロウさん」と言わずに、「そこの少し太った人」だとか「そこの若いお方」なんて呼ばれることだろう。
太ってる自覚がある人や、若いという自覚のある人は振り向くが、他に振り向く人が多ければ「そこの黄色い帽子の人」だとか、より具体性を増して呼ぶことになる。
名前を使えばあまり知らない人にも出会うことができる。サラ・コナーを殺せと命令されているターミネーターはサラ・コナーという名前の人を次々に殺した。
初対面の時、名前は十分役に立つ。しかし初対面でなければ名前は本質を失わせる。
二回目あった人を名前で呼ぶと、「名前覚えてくれたんだ」的な会話になってしまうこともあるだろう。
でも重要なことはそこではないのだ。名前を使うことで、人が他人に対して持っている評価が不明瞭になっていることに、目を向けなければならない。
それが俺の雑草的雑想。
名前なんていらないと、ただひたすらに想うのです。
みんなの名前を知っていて、みんなのほんとを知らない世界。
それが現代社会。
悲しい悲しい世界です。