思考の空間(入口 テーマ) から 自分が考えたい詩の美について
Hiroshi Yoshimura (吉村弘) - 静けさの本
を 聴きながら
””
『思考の空間(入口 テーマ) から 自分が考えたい詩の美について』
私が最近、好んで使う文体があります。それを、私は気持ち悪いと感じる。けれど、何故その文体を好んで使ってしまうのかというと、そこに惹かれてしまう、ミステリアスさを私は感じ取るからなのだと同時に思います。
それは、単調でなければならないのですけれど、それは一方で、音の失調を行っていなければならないのです。
……繰り返し、単調、音の失調。私は、繰り返し繰り返し、このようなことを好んで詩の表出に使おうとします。それは、……何故、それを好むのかというと、……そこに潜む美に私が、近づきたいと考えるからです。
……それは、捉えきれない美であり……、
……それが、今、私が特に感じる、捉えきれない美への感じ方であり、つまり、私の中の美とは、無音であり、掴めないもの(無 透明)であるということなんです。それは、ひどく気持ち悪いですが、それはひどく私にとって、魅力的です。
””
美に対する捉え方、考え方は、人それぞれ、個によって多岐に渡るものでしょう。私が美しいと思うものを、奇妙だ、気持ち悪い、と仰る方の方がとても多いのかもしれない。なにせ、私は、そういったどこか気持ち悪い、奇妙な概念が好きです。とても、心惹かれ、それを美、と、認識するから。そこに隠されたものを暴きたいと思い、その私だけが捉え、愛してやまないその概念の美を形にしたいと思うのです。それは誰の為でもない
、自分という他人の為に。それは自己満足でしかなく、
どこまでいっても、出口がありません、
私は、そういった、私が美しいと思う概念を書きたいと思いました。形にしてみたいと思いました。それは、私にとっての美の形であると思いました。
その欲求がいつ生まれたのか私は、自分ですら把握出来てはいないでしょう。子供の頃から、本当に綺麗なものを見たいと思って、本当に美しいものがあるならこの目で見て、感じて、心に大事に閉じ込めたいと思っていました。
その美しいもの綺麗なものは、まだ、私の中に
概念としてすら、存在出来ていないのです。
その、儚いと思われる一瞬のそれに、いつからか解らないままに焦がれて
だって、どう、形にすれば良いか、私自身わからなくて、全て手探りで、だましだまししている感覚なんですもの。
言葉をパッと発露させるには、……私には、確信が足りないのです、
私は、発露させるためには、そこに確信がなければ書き出せないから、……作品はだから、いつも、私が表出するものは、……だから、だらだらと冗長で……
つまりは、言いたいことがうまくこなせれば、言えれば、
私はこれらの作品に書こうとしたことを、僅か数行でまとめられそうな気がします、
けれど、ものすごく悔しいことに、それら数行は空白のように切り取られてなくて、それは幻で全く私の中におさめられていなくて、
だから、このような無謀な取り組みを意味不明に行うしか出来ない、
テーマとして打ち出しているのは、思考を空間として認めるという考え方で入り口を作っているところがありますが、本当にしたいのはそこではなくて、それら入り口の考え方を使って、私が思う概念の美を形にしたいのです。
……それは、私が詩を書こうとする最後の到達点というのか、そういったものなんです。
色々な方法で詩の表出を考え出そうと私は浅はかなことを繰り返してみますが、
すべて方法は違っても、最終的に見たいと思うのはそこです。
私は私が美だと思う概念を形にしてこれが美だと言いたいんです。……誰に言いたいのかといったら、よく解らないのです……が もしかしたら、自己満足にしているだけだから、自分という他者にそのなにかを証明したいだけなのかもしれないです。
繰り返しの美の中に言葉を閉じ込めて