心の在り方、私の在り方として(シロップ漬けの果物)
①変化
流動的で意味的な人の意識として、詩作を考える時、どうしても表層として現れるものは、人の流動的な感情であると考える。人というものは、感情が心そのものではないが、感情が人に与える影響はとても大きいものだという私の一つの確固とした意識がまず存在することをここに置きたいと思う。詩が生まれる時のポエジーは、感情に秘められているというのは、私の詩作の出発点と言える。
②意識と意味づけの重大性
人は、意識づけすることで、物事や行動に対する解釈を変化させる。それは、詩に対しても同様だと私は、考えている。つまりは、その詩作をする人間の思想の重要性をここでは置きたいと思う。私たちは、言葉を読み解く時、その言葉の意味のみ受け取ったりはしないように思う。深読みや、もう少し違う意を受け取ったりなど、意見を述べる対象だからこその受け取り方がそこには存在すると考える。そこには、個があると考える。後で、個に対する読み取り方の変化についても書こうと考えているが、私は、個というものを詩作品を読み取る上でも重要視している。それは、詩作品と作者を分けるという方向の考え方を私がとっていないことを明確にした一番大事な要素だと考えている。私は、詩作という自己表現において、個というものがあって初めてなされるものだと考えている。
③個
私たちは、私という、別個の人間である。個という性質を持っている。他の誰でもない私は、あなたになることは出来ない。個体的には。表現的にはどうだろうか?感応という部分で、私たちは、別のあなたを別の私と位置付けることがあるかもしれない。けれども、それは感応であって、同一化ではない。私たちは、個であることは絶対であるからこそ、感応がある。それが私の詩作に置いての位置づけである。
④詩という媒体と表現
詩という媒体は、人の生き方に密接に貼りついている、と私は考えている。たとえ、思想を提示していなくとも、生き方そのものを思想として詩作品と絡めるように読み取られることがある。それは、詩作や、表現の形とは一致しないこともあるように思う。その雰囲気が詩情に絡み合うような気のすることもあるだろう。作品が増えれば増える程に印象の強化がなされていくこともあるのだと思う。
言葉に心が滲み出るなら、結局は、どのような表現でも構わないのが詩なのだろうから。
⑤表現
私は、表現を、葛藤があるものだと、位置づけている。これは、私の詩作をする上での根幹の部分である。私は、詩作をする上で、その根幹を『熱』と呼ぶが、これは、私の詩作が、自己表現を基に考えていることを表す、一番大きな大元である。感情のみ表出した詩作品をある人は、詩と呼ぶのかもしれない。私も、それを詩と呼ぶのかもしれない。けれど、私は、そこに『熱』を感じ取らなければ、それを表現とは呼ばないだろうと考える。これは、私が詩作をする上での大きな位置づけである。人は、なにかを表現する時、葛藤を常に抱えるという考え方を私は常に持っている。よって、どのような自己表現においても、葛藤は私にとってあるべきものであるといえる。※(自己表現に葛藤を含まなければ……と、表現したが、投影や、比喩的表現など婉曲した自己表現も自己表現に含む。追記として)
⑥隔絶
詩というものを語る上で、私は、自己表現を最も大きな根幹に置いている。それは、自己分析から来ている。詩は、自己分析に置いて、大きな力を発揮すると考えている。その思考は、読者と作者、詩それぞれが、隔絶していると思考するに至っている。すなわち、詩は孤独なものであると言える。そして、作者は、自ら生み出した詩を常に解釈し続ける、他者であると考える。
⑦感応
私は、詩作をし、人に伝わる伝わらないを思考する時、感応という表現をする。これは私は、詩を読み解く上で、大切にしている、私の一番柔らかな感覚の部分である。私は、詩を読み解くとき、この感応を大事にしている。詩は、知識で読み解くものでも、頭で読み解くものでもないと一番に考えているからだ。詩は、感覚で読み解くものであり、それは感応であると考えている。
⑧意味づけ
芸術活動に置いて、私は、意味づけというものを重視している。意味づけは、切り口を作り、そこに感応の入り口をつくる。その新しい切り口こそが、私は意味づけだと考える。
これを説明する時、私は桜の木を例にして説明としようと思う。
人は、美しいものを美しいと、教えられて初めて、美しいと認識する。それを私は意味づけと定義する。私はこの意味付けを新たな切り口を生む重要な要素だと考えている。
たとえば、目の前に桜の木があったとする。私の心がなんの認識も持たない空っぽのままであるなら、私は、その桜を見ても、なんとも思わないだろう。
ところが、その桜に美しいと意味を持たせた途端に、私の目には桜ばかり、美しいと目に飛び込んでくる。伝わる伝わらないは、感応だが、つまり、芸術は、新たな美しさに気づかせる、ことで成り立っていると私は考えている。それを私は、切り口と表現する。
⑨狭める(評価)
評価は、限定的なものであると私は、思考している。たとえば、ある新しい切り口の美を思考する時、従来の方法でその美を表現できないのならば、新しい視点が求められるだろう。新しい切り口には、別の全く違う読み方を試みる必要があると私は思考する。
つまりは、評価は、狭まって初めて成されるものだと考えている。評価とは、限定的なものだと私は考えている。新しい切り口から見えてくる美を心に留めぬ方は一定数いらっしゃるものだろう。それは限定的な解釈の中でのみ花開く美であると私は思考する。その作品に美があるか、それともないのかは、限定的な解釈次第であると言えるが、その作品が美ではないとその限定的な場で糾弾されたとしても、その作品に価値がある、無しという評価には直接的には結び付かないと私は考える。評価は、狭まった限定的な場でしか成らないものだと考える。
⑩批評
私は、批評という位置づけを、発掘と分析の有無、で、判断している。
発掘は、原石を見つけるという意味で使用している。分析は、その詩作品を解釈する上での解体を私は、指すと考えているが、その詩の解体には、自己分析も含むと考えている。それは、私が、作者と作品を分断しているものと考えていないことを大事に思っているからでもある。※追記として 批評とは、新たな解釈の物語であると、今の私は、捉えており、それは、今の私には憧れである。それは、一本まるごと分量のあるものであり、物語であり、作品であり、今の私には届かない憧れである。
⑪詩作品に置いて自己を表出する言葉そのものについて
最後に、この詩論Ⅰに置いて一番重要な自己を表出する言葉そのものについて、私の在り方を言うなら、私は、言葉を”隠れるもの”として、定義する。
表出される言葉は、いくら表出しても表層であることばかりであるけれども、そこには必ず内奥があるという考え方だ。言葉は言葉によって隠されるが、その隠された言葉は全てが偽物だとは言えないという立ち位置を取っている。蜜を内奥に落としたものを表に引き出そうとする時、そこには枯渇が必要だとも考えるが、それは、私は、詩作というものを自己の表出として考えていることから来ていると考えている。
⑫他人の権威を借りる行為について、他、創作の根幹に土足で踏み込もうとする行為について
言葉の切れ端だけつまみ、表面上のみの理解で、創作の姿勢や、根幹の創作者の心までわかったように踏み込もうとする。そのような態度は、権威を借りられたその名のある方にも失礼なのではないかと、どうしてお考えになられないのですか。と、言いたい。その方の創作の根幹に踏み込もうとするなら、せめて、自ら自身の言葉で、踏み込もうとしたい。これは、私自身の誠意として。追記として