刹那
やれやれやっちまったな。ぼくは彼女の泣いている姿をジッと眺めた。いつもみせてくれる明るい顔はもちろんそこには無い。代わりにそこにあるのは計り知れない無造作な悲しみだけだ。そんな彼女は彼女であって彼女ではないように見える。でも彼女だ。それとも彼女の殻と言うべきか。悲しみは彫刻刀のように彼女の事を削りそして変えた。手も足も腕も背中も腹も胸もその歓迎されてない来客者の訪問によって痕跡を残している。そして他に行き場が無い可哀想な悲しみはやがて涙として目に集まり、溢れた。涙はいずれ帰らないといけないと知りながら出来るだけ長く一緒にいようと親にねだる子供達のようにお互いをギュッと抱きしめた。そしてこれ以上一緒にいるのは無理だと悟ると皆一人一人におわかれを言い一雫ずつ目から旅立ち、頬を辿り出来るだけ長くアゴにしがみつきやがて落ちた。ポツン、ポツンと。その音は僕にとってものすごく孤独にきこえるのだ。そして涙越しに見える彼女の目は美しく言葉にできない儚い何かを僕に訴えかける。まるで、とうに忘れ去られた池が真夜中の月明かりを反射しているかのように。僕はそんな景色に魅了され、月が空の上にあるとは知らない野蛮人のごとくただただ光を追い求める為に底の知れない池を深く深く潜って沈んでいきたいと感じた。誰も見たことが無い景色。それはとても綺麗だった。我を忘れ見蕩れてしまった。それ以外の行動が可能では無かったのだ。一瞬一瞬が永遠というものを凝縮したかのようなひと時を味わった。僕の世界、いや僕の宇宙、この世の全てが彼女を中心に回っているような錯覚に陥った。僕はまるで彼女に溶け込んだかのように僕と彼女という個々の人間のくべつが分からなくなってきた。同時に今まで味わったことのないような幸せと高揚感が全身をみなぎった。そしてこれこそが愛そのものだという真実を激しく実感した。今まで理解し愛だと思っていたことがいかに表面的で無価値なものだと思い知らされた。頭だけの理解で、本当は理解していなかったのだ。てんで何もわかっちゃいなかったのだ。。。
そんな時間がどれだけ続いたのか。。。我に戻った僕は焦って考えた。
彼女を抱きしめるために体をゆっくり動かしはじめたが、ためらった。僕は当たり前のように彼女を慰める為として動きはじめたが、果たして本当にそうなのか。自分の苦痛と罪悪感を安らげる為の行動では無いのかという疑問が頭をよぎった。そしてその代わりと言っちゃあなんだか、代わりとしてはあまりにも乏しいものなのだが、精一杯これが正しい行動であると自分を騙してぼくはこういった、
『ごめん。』
『なんで誤るの?こうちゃんは何もわるくないじゃない。』
『あれ、何でだっけ?』僕は間違いなく僕の行いが今現在彼女を傷つけていると知っていながら、その理由がわからなかった。理由がわかっていないことさえわかっていなかった。
彼女は泣きやんでいたがそのかわりにとてもさめた顔を僕の方に向けていた。泣いている時なんかよりずっと痛々しい顔だった。
『なにが悪いのか分からずにほいほい誤るものじゃないよ。』と疲れきった母親が子供を咎めるような声で彼女はそう言った。
「違うんだ。僕は僕は。。。』僕は何がしたかったのだろう。下を向き考え込んでしまった。しかし考えるまでもないだろう。ぼくはただ、抱きしめてやってあげたかったのだ。苦しみも悲しみも言葉じゃない何かでわかちあって互いの傷を癒したかったのだ。そうだらう。そうしてやる。っと決意したところで顔を上げたら彼女はもうそこにはいなかった。そこにあったのは無造作な暗闇だった。周りも見えず、彼女も見えず、自分すら見えない、計り知れない暗闇が永遠と僕を包囲した。こんな暗闇の中では本当に自分がいるのかどうか怪しいものであった。そんな暗闇に飲まれそうな時にぼくは目覚めた。
「弧野橋さん。弧野橋さん。』先生は僕の名前を呼びながら、クリップボードで僕の頭をペコペコたたいていた。どうやら僕は授業中眠っていたらしい。
『あ、あの、すみません!』ととっさに起きた僕はあたふたと言い訳を考えようとした。
『別に良いよそれは。』とそんな僕を察知したかのように先生はそう言った。優しいおじいちゃん、のような人だった。
『それより君大丈夫かね?』心配そうな顔で僕を見つめる先生だった。
『え、あ、はい大丈夫ですよ。』と何故そう聞かれているのかあまりわからず僕はそう答えた。でも次の瞬間その理由がはっきりした。
『わあーこうちゃん何に泣いてんの〜?』とクラスの全員が聞こえるようなどでかい声で、まるで道端でマルティーズの子犬と出くわしたかのようなテンションで生き生きと早苗が僕にとうた。
『え?』と驚いた僕は手を頬にあてて確かめてみる。確かに濡れていた。
『悲しい夢でもみたのかい?』と今度はその道端であったマルティーズの子犬を抱きかかえて人間の言葉が分かる訳もないのに子犬に対して色々な質問を聞くような痛い人の声で早苗は僕をさらに問いただした。
『うん、そうみたい。』と普段なら早苗の過ぎるちょっかいに怒るか、クラス前で泣いていることを恥ずかしがるであろうぼくが自然と、何のためらいも無くそう言った。これには僕も驚いたが早苗の方が驚いた様で、控えめにこう言った、
『それはご愁傷様。』と両手をくっつけ頭を下げる早苗。
『崇めないでよ。まるでだれかが死んだ見たいじゃん。』
『じゃ、ハグ?』
『いやいらないよ。それより、崇めるからハグってなにそのギャップ。』
『うそだ。この早苗のスーパーミラクルハグはどんな心の傷も癒すよ。さあさあ、ツンツンしないでデレデレしようよこのツンデレちゃんが。』
『早苗のハグにはどれほどの効力があるんだよ。あとだれが人前でデレデレするか。』美味しい話なので後付けにしてもらおう。
『じゃあ人前じゃ無ければ良いの?』
『もっとだめだ。』くそ、観の良い子め。
『もーう君は心に闇を潜めているキャラにどれほど酔いたいんですか?泥酔したいんですか?ドリンク半額だからといってグイグイ飲み過ぎて、結局定価以上支払っちゃう人ですか?』
『例えがわかりづらいよ。それより早苗の口から何故そんな例えが出てくる?』とぼくは彼女がこれ以上近づくことを拒んだ。
『それは早苗が大人だからだよ。さあさあこの寛大な心の持ち主の私の胸に飛び込んできなさい』とせがむ彼女。僕は彼女の告げた着地点をみつめる。寛大な心を裏腹になかなか貧相なものだった。栄養が全て心にいってしまったんだな、かわいそうに。ここに着地したら痛そうだ。とぼくは静かにそう考えた。言葉にしたら恐らくころされる。ってその時点であまり寛大とはいえないが。
『おい、こら早苗、照れ屋のこうちゃんにこんな人前で騒がれたら嫌われちゃうぜ。』と早苗の後ろの席にドンと座っている斗真が一見早苗の傍若無人すぎる愛から僕を救おうとしているようにもみえなくもない発言をしたが、現実的にはこの話の展開が面白くて混ざりたかっただけなのであろう。
『とうちゃん、こうちゃんはそんなことでは私を嫌うようなちっちゃな人間じゃないよ!』
『あ、そうくる。』と言い頭を抱える斗真。
『へへーでもまあ、背はちっちゃいけどね。』
『。。。早苗が嫌いになりそう。』
『おいちっちゃいな、おい!』と突っ込む二人。笑うクラスメートたち。
『オッホン。まあ、元気そうで何よりです。授業に戻りましょうか。』と僕らに気長くつきあってくれていた先生がほこらかに茶番に終止符を打った。
ほんと気が長いのにも程があるでしょ。。。と教台に戻る先生の顔を見上げるとにやけていたー楽しんでいたのか。
まあ、当たり前か。これほどもお騒がせ物のくせに早苗が言う事なすことを嫌う人にはあったことがない。むしろみんな大好きなのだ。それは僕も含めてだ。