麦わら帽子
枕元の目覚ましが鳴った。陽はまだ昇っていない。俊彦は寝惚け眼をこすりながらベッドに腰かけて、身体が起きるのを待った。室内はまだ暗い。障子の桟に薄っすらと影が映った。冴子だ。
「あなた、起きられましたか」
「うむ、今起きた。心配ない。いつもの通り用意してくれ」
「はい」
手足を軽く動かして俊彦はゆっくりと立ち上がrると廊下に出た。ひんやりとした冷気が心地よい。厚手のカーテンは既に開けられてレースのカーテン越しに庭が見えた。樹木の葉の上に水滴が揺らめいている。夜のうちに雨でも降ったのだろう。あれこれ思いを巡らしながら居間に行くと、冴子が控えていた。綺麗に畳まれた着物が衣装箱の中で出番を待っている。
「今日は大島にしましたの」
「そうか」
「なんだか今朝はめっきり冬らしくなりましたから、色合いも生地も温かくてよろしいでしょう」
冴子はしゃべりながら、さっさと俊彦に着付けていく。着せ替え人形のようだと俊彦は内心苦笑しながら、姿見の中に案山子のように立っている自分を見ていた。帯を巻いて羽織を重ねて出来上がりだ。
「終わりました」
「うむ、では行ってくる」冴子に送られて玄関の上り框に立ち俊彦は言った。
「帰りが遅れたら、先に食事を済ませていなさい」
「わかりました」
三つ指をついて送り出された俊彦は、さて今日はどこへ行こうかと門の外で立ち止まった。しばらく躊躇したものの結局足はいつもの通り材木座の浜に向かって進みだした。
加納俊彦は、大器晩成と言えば聞こえは良いが、長い長い下積み生活の末にやっとプロの作家になった。大学の文学部にいたころから物書きをめざして一筋に書き続けたが、なかなか売れなかった。それでも、自分にはこれしかないという重いがあったから、しがみついた。日々の暮らしのためには様々なバイトのはしごも厭わなかった。元々育った家が楽な家庭ではなかったので、貧乏も苦にはならなかった。単発で売れたり売れなかったり・・・小さな賞を取ったりということをくり返しながら40代も半ばを過ぎて50歳近くなった頃、ようやく大きな賞を手にした。その賞がきっかけになって、ポンポンと原稿依頼が来るようになった。ここ数年ようやく生活も安定してきて、食べて行けるようになった。冴子と結婚したのも最近のことだ。
人生は解らないモノだとつくづく思う。これが自分の運命なのだろうか・・・と思う。俊彦自身は別に運命論者ではないが、それでも天変地異のような変わりようはは運命ということでも持ってこなければ説明ができない気がした。
今、俊彦が住んでいる家は、作家として自立してから手に入れたものだ。不動産業を営んでいる冴子の父、袴田源三の世話により購入したのである。俊彦自身は別に借家でも良かった。落ち着いて書ける仕事部屋がありさえすれば・・・。元々、結婚後も、かつて住んでいた古い賃貸アパートに暮すつもりだったが、娘を狭いアパートの部屋で過ごさせるのは嫌だという源三の申し出にしたがって、引っ越したのであった。
築150年経つという家は、前の持ち主が何処ぞにあった古民家を移築して手を加えたという代物でなかなかの風格があった。無名の古民家ということで、破格値で手に入れたわけだが、門構えも御大層な木造りの数寄屋造りだった。居間には大きな囲炉裏が設えてあり古き良き日本の家屋という雰囲気がぴったりの佇まいだった。
いつものようにぶらぶらと俊彦は歩き出した。家から材木座の浜辺まで徒歩で10分もかからない。朝の散策にはほどよい距離だ。磯の香りを含んだ潮風を感じる頃、視線の先に抜けるように真っ青の海原が見えてくる。海というより海原がぴったりの太平洋を眺めて過ごすのが、毎朝の日課になっている。何をするでもなくボーっと見ているうちに頭が冴えて心も整ってくる。帰宅後に軽く朝食を済ませてから書斎にこもって原稿を書くためのいわば助走だった。浜辺は早朝のせいか誰もいなかった。積み上げられたテトラポットに浅く腰をおろした俊彦は、懐から煙草を取り出した。ライターのカチッと小気味いい音があたりに響く。まずは一服・・・フゥーッと吐き出した白い煙が海風にのって流れていくのを眼で追いながら、昨日の原稿の続きに想いをめぐらせた。一日に書く原稿の量は年齢とともに落ちつつある。若い頃は勢いで書き一晩で仕上げたこともあったが、今はそういう無理はできなくなった。朝から晩まで書斎にこもってもせいぜい数十枚・・・ひどい時は全く書けないこともある。最近はそれでも良いと焦らなくなった。焦ってみても絞り出すものがないからだ。書ける時は書く、書けない時は書斎で珈琲を飲みながらクラッシックを聴く。とにかく書斎には籠る。習慣は守った・・・まるでサラリーマンのようだと、我ながら可笑しくなってくるが、その習慣をまもり続けることで自身の物書きとしてのステイタスを内面に刻み付けているのである。
俊彦の大好きな言葉はデカルトの“我思う ゆえに我有り”だ。今までそうやって生きてきた。自身で悩み考え決めてきた。これからもそうするだろう。その姿勢が彼の生き方の基本だった。
小半時ばかりああでもないこうでもないとひねくり回しているうちに、なんとなく今日の道が見えてきた気がして、俊彦はやおら立ち上がった。着物の裾の砂をパッパッと払いのけて、歩き出そうとしたとき賑やかな声が耳に飛び込んできた。
「おばあちゃん、はやく・・・こっちこっちよぉー」
女の子がバタバタと走ってくる。
「待ってぇ、ねぇ・・・おばあちゃんころんじゃうでしょう」
幼い女の子の・・・切りそろえられたおかっぱ頭の前髪が可愛い。赤いリボンのついた麦わら帽子をかぶっている。追いかけてくる女性は和装だ。あれで走るのはなかなか大変だろうと思うが、慣れているのか裾が乱れない。たいしたものだ。どの程度の同年代かな・・・うーん。俊彦は作家としての眼で人間観察を始めている自分に気づいた。
女の子は走り過ぎて足がもつれ前のめりにころんだ。「うっ」と思わず腰を浮かした俊彦をしり目に、むっくと起き上った。洋服は砂だらけ、頬にも砂がついている。口にも砂が入ったのか変な顔をして口をもごもごさせている。俊彦は眼が合ったので、微笑んで見せた。が、かえって警戒感を抱かせたようだ。「ウウウゥ」
俊彦と眼が合うと、べそをかきながら泣き出してしまった。
「まあ、まあ、泣かないのよ」後から来た女性が、童女の洋服の砂を払いのけた。その後、俊彦に向かって「すみませんね」と声をかけてきた。
「いや、私こそお嬢ちゃんを驚かせてしまって・・・ごめんね」
照れながら言いつくろう俊彦と眼が合った途端に、女性はハッとして強い視線を当ててきた。
強いまなざしの意味が解せずにとまどいを覚えた俊彦は黙礼してその場を後にした。女性の視線が背に刺さっている気がした。
何だろう、あの視線は・・・どこかで会ったことがあったかな。読者とかファンといった類でもなさそうだ。記憶にない顔立ちだった。帰る途中、あれこれと思いをめぐらしたが・・・帰宅するころには諦めていた。今日はそれよりも大事な勝負が待っている、今書いている作品の山場を仕上げるつもりだった。この山場のいかんで作品の出来が決まると言っても過言でないと俊彦は思っていた。なんとしてもうまく仕上げたい、要所だった。
帰宅すると冴子は食事を終えて珈琲を飲んでいた。「あら、あなた・・・おかえりなさい」冴子は素早く俊彦の食事を支度を始めた。トースト、ジャム、サラダに珈琲を、すぐに食卓に並べた。椅子に座ると黙々と食べた俊彦は、珈琲の入ったマグカップをもって書斎へ移動した。「今から籠る」「はい、お疲れ様」
書斎は約10畳の洋室だ。窓に向かって袖机がドンと鎮座していて、その周辺には取材に要した書類や書籍の山がそびえている。ただ置いてあるように見えるかもしれないが、これはこれで俊彦にしかわからない規則性があるのだ。誰も触ることの許されない宝の山だった。机に座り、パソコンを起動させる。出てきた画面に浜辺で考えたフレーズをを打ち込んでいった。
流れ出るリズムに俊彦は酔った。一旦流れ出すと誰に止めることができない。確かエルキュール・ポワロじゃなかったかな…灰色の脳細胞。うんそうだ、ポワロだ。ミステリーばかりではない、ストーリーを書くときにも灰色の脳細胞は活発に動くのだと俊彦は思う。時折、マグカップに口をつけて喉を潤し、ひたすらパソコンのキィーを打ち続けた。何かに憑かれたように、ピアニストが体を揺すりながら鍵盤に触れてメロディーを奏でるように・・・。時折窓から入ってくる磯の香りを含んだ海風も、快いスパイスになってくれた。
午後になって編集者が原稿を取りに来た時には、今回の予定分をはるかにクリアしていた。
「先生、凄いですね。もうここまできましたか」
編集者は眼を輝かせて俊彦を誉めそやした。
「まあ、こういうこともあるさ」
内心の得意を押し隠して冷静を装った俊彦は、煙草を燻らして淡々と答えた。原稿がはかどった後は煙草も旨い。編集者は凝視して原稿を読んでいる。彼の眼の動きが原稿に深く引き込まれていることを物語っている。どうだ、参ったかと俊彦は胸中でほくそ笑んだ。冴子が珈琲をもって入ってきた。黙ってサイドテーブルに置いていく。
部屋の中を支配している沈黙と緊張感。原稿に自信がない時は、この時間が堪らなく怖いと感じる。通知表をもらう前のガキ大将みたいだ。そしてそういう緊張感が自身に鞭打ち激励叱咤して新たな刺激となるのかもしれない。書き直しを依頼されたときはガックリくる。編集者の依頼は依頼であって依頼でない。殆ど命令に近い半強制だ、それでも原稿料をもらうためにやらねばならない。これで生きているのだから。だが、こうして専属の編集者が付き、書け書けと追いかけられる内が華なのだと思う。こういう生活こそ、かつて俊彦が喉から手が出るほど希ったモノだったから。
読み終わった編集者の眼が潤んでいた。大きなため息が彼の口から洩れた。
「僕、なんだか読者に悪いことをしているような気がしますよ」
「ヤッタぁー」と内心、俊彦はガッツポーズをした。彼がこういう言い方をするときは原稿が充分満足できる時に限られる。
「そうかね」
やんわりとおもむろに俊彦は答えた。
「本を買いもせずタダで・・・出来立てほやほやの素晴らしい原稿を読めるなんて、もう編集者冥利に尽きますね!!」
「そこまで言われるとなんだかこそばゆいね。まあ、編集者の特権じゃないかね」
「では取り急ぎ、社に戻ります。来週も、先生この調子でお願いしますよ」
「うむ、気をつけて帰ってくれたまえ。編集長にくれぐれもよろしくな」いつもの会話をくり返して、編集者は帰っていった。「やれやれ・・・」俊彦がソファに伸びていると、冴子が入ってきた。
「上手くいきましたのね。お疲れ様でしたね」
「どうやら今回は合格だったようだ」
微笑む冴子に俊彦も笑顔で応じた。
「どうだい、たまには街へ出てみるか、なんか旨いモノでも食いに行こうじゃないか」
「まあ、嬉しいわ。貴方は何を着ていらっしゃるの」
「僕はこの大島で良いよ。君は着替えてくるといい」
「はい、そうしますわ。お言葉に甘えて、できるだけ早くしますから」
「急がなくていいよ。のんびりと煙草でも吸いながら待っているさ」
冴子は小走りに居室へ消えた。
窓から見える青空が眼に痛い。飛行機が尾を引きながら天空を昇ってゆく。白い飛行機雲が描くラインを見ているうちに言いようのない懐かしさが込み上げてきた。デジャビュというのか、こんな瞬間が過去に幾たびもあった。遠い遠いずっと昔・・・青臭くてやる気はいっぱいだったのに・・なかなか結果が出せず・・・焦りだけに囚われてもだえ苦しんでいた日々。傍には・・そうだ、傍には・・・自分は一人ぽっちではなかった。それなのに・・・様々な思い出が怒涛のように押し寄せてきて胸が潰れそうになった。眼が潤み・・・溢れそうになる涙で視界がぼやけてくる。不味い、こんなはずではなかったのだ。冴子も知らないセピア色の日々。胸中深くにずっと眠らせてきたというのに・・・。俊彦は眼を手の甲でこすった。力いっぱいこすって涙をごしごしと拭き取った。余りに強く拭ったものだから瞼がヒリヒリと痛んだ。、
「お待たせしました」
冴子がいそいそと笑顔で歩み寄ってきた。冴子のお気に入りの一枚・・・地模様が浮き出ている、確か江戸小紋とか言ったっけ。彼女は着物にはうるさい。自分でしゃんしゃんと着付けるのだから大したものだ。
「あら、あなた、どうかなさったの」
顔を覗き込まれて俊彦はドキッとした。
「なんだね」
「目元が真っ赤よ」
「ちょっとうとうとしていた。目覚めて眼が痒かったから掻いただけだ。心配ない」
「花粉症の時期かしらね。大池田先生に診ていただいたら」
「なに、放っておいて大丈夫だ。それより何が食べたいかい」
慌てて話を逸らしてそそくさと立ち上る俊彦に、冴子は黙ってついてきた。できた女だと思う。彼女のおかげでどれだけ救われたか解らない。親子ほど年が離れているとはとても思えないしっかり者だが、そんな彼女に対してでもやはり秘密にしておかねがならないことはあるのだ。それは後ろめたさからではなく、誰にも話したくない宝物のような日々だったからだ。もう戻ってこない遠い遠いシャボンだまのような日々だった。
時折ふと海底からふわりふわりと浮遊してきては俊彦の心をチクチクと刺激してスーッと沈んでゆく。あの時関わりあった人々はどうしていることだろうと思いを巡らしてみる。
結局行きつけの店で握りの寿司が食べたいという冴子の希望で、銀座にある「鮨 琴美」に行った。週日のせいか時間が早いこともあり、比較的店は空いていた。暖簾をくぐると、カウンターの向こうで大将がニコニコと客と話しながら握っている。
「らっしゃい」
威勢のいい掛け声に迎えられていつも席に座った。カウンターのほかに若干のテーブル席がある。いつもすわる奥のカウンター席からは店内が見渡せて、俊彦は握りを待ちながらぼんやりと客を眺めて人間観察をする。ここでのマンウォッチングが思わぬ作品の発想につながることもあるのだ。
「何にしましょうかね」
「うーん、なにか適当に見繕ってくれないか」
「承知しやした」
冴子は大将の奥方と何やかやと話している。
出されたモノを摘まみながらぼんやりと人間観察をしている。皆、自分の言動が見られていると思っていないからか、実にのびのびとしている。個性が溢れている。そんな人々を見ているのは楽しい、実に愉快だ。
小一時間もすると、店も混み合ってきた。腹具合も満たされた。ボーっとしていると冴子が横やりを入れてきた。
「あなた、お食べになったの?さっきからただ黙ってらっしゃるだけね」
「いつものことだろう」
「何か面白い発見でもなさったの」
「まあほどほどかね。・・・きみは食べているかね」
「ええ、もう充分いただいたわ。お腹いっぱい」
「そろそろおいとまするかね」
海岸線をドライブ・・・浜辺で車を止めて夜の海を眺め・・・時々そっとかわす口づけ・・・帰宅・・・といつものコースを描いているその時・・・思わぬ出遭いが待っていた。
支払いを済ませて、店を出ようとしたときに一組の客が入ってきた。早朝、材木座の海岸にいた老婦人と童女だった。俊彦が気づく前に童女が気づいて声を上げた。
「あっ」童女は大きな目を見開いて俊彦を見つめると、祖母の着物の袖をグイッと引っ張った。
「まあ」祖母は驚いた表情で俊彦に頭を下げた。
「どうも」と俊彦も頭を下げると童女に向かって「バイバイ」と手を振った。
「どなたですの」
冴子の問いに、俊彦は今朝の出逢いを話した。
「どうやら最近近くに越してきたんじゃないかなって気がすするんだがね。今朝散歩で初めて出遭ったんだ」
「そうですの、可愛いお子さんね」
たわいない会話を交わしながら、つくづくこの世は広いようで狭いと思った。
帰宅するともう9時をゆうに回っていた。
「僕は休むことにする。明日はまた早起きだ」
少しテレビを見るという冴子をリビングに残して、俊彦はさっさと自室に引き揚げるとベッドに潜った。いつもならすぐに寝付くのだが、この夜はなぜか眼が冴えて眠れなかった。寿司屋で帰りがけに会った女性とその孫のことが妙に心に引っかかっていた。悶々とベッドで寝返りをうっているうちに、冴子が寝室に引き揚げる音をぼんやりと聞いた。
早朝、いつものように海岸を散歩した。睡眠不足のせいか、頭が重い。小一時間うろうろと彷徨ったが、例の女性と孫は来なかった。心のどこかでまた出会えるのではないかと期待をしていた俊彦は、軽い失望感を抱いて帰宅した。なぜだろうかと自問してみる。なんだかもやもやとした霞がかかったような状態で、一行も書けないまま、書斎で珈琲を飲み続けた。最初に出逢った時の女性の強い眼差しが頭の片隅に引っかかっていてチクチクと疼きだす。なぜあんな目で自分を凝視したのかと思う。知っているのなら知っていると言えばよいではないか。座り続けた結果、今日はもうダメだと開き直って俊彦は家を出た。風に吹かれて再び浜辺を歩きたくなった。どんよりとした曇り空の下、波が立っていた。サーフボードをもった男たちが浜辺に群れている。こんな日はウインドサーフィンにはうってつけなのだろう。砂浜に腰をおろして波頭を見つめる。若い頃、なかなか書けない時にこうして浜辺で過ごした日々があった。海は黙って俊彦の焦りも苛立ちも受け止めてくれた。ネタ探しと称してはぼんやりと浜辺に佇んだ日々・・・あまりに遅いと家人が心配して捜しに来たりした。
当時の俊彦には妻と娘がいた。妻と言っても事実婚で、美佐江という名前だった。大学時代のサークルで知り合った。作家志望で文学部に入った俊彦と花嫁修業で家政学部に入った美佐江が偶然にも共に選んだサークルが『歩こう会』だった・・・肩を並べて歩いているうちに話が弾むようになり、卒業真近になるころには離れれらない間柄になっていた。美佐江の家は、九州で代々続く老舗の温泉宿だった。美佐江の父親は二人のことを知ると、烈火のごとく怒り狂った。卒業したら、美佐江は親の決めた相手と結婚するように言われていたのだ。親の敷いたレールを歩くことに抗い続け、愛想が尽きた美佐江は言った。
「会ったこともない男に嫁ぐくらいなら、あなたと暮らすわ」
卒業と同時に二人は小さなアパートを借りた。トイレは共同でお風呂は近くの銭湯、ミニキッチンがおまけ程度についているだけの6畳一間。まさに神田川の世界だった。美佐枝は小さな会社で事務員として働き、俊彦は一日中原稿に向かって書き続けた。書いても書いても没になり、先の見えない日々。それでも、若い二人は互いの愛と夢を信じ続けた。やがて美佐江は妊娠して女の子が生まれた。綾子のように美しい子になって欲しいと綾子と命名した。子が生まれれば少しは解ってくれるかと思ったが、美佐江の両親とは相変わらず絶縁状態が続いた。暮らしは貧しかったが、笑顔の絶えない温かい家庭がそこにはあった。
同棲して5年ぐらい過ぎた頃には、俊彦は短編小説が文学雑誌に単発で載るようになった。それでも暮らしは相変わらず苦しかった。俊彦は日雇いのバイトをするようになった。原稿は夜、家人が寝静まってから書いた。ある日、日雇いのバイトがたまたま休みだった俊彦は、先日貰ったばかりの原稿料を手に綾子と商店街を歩いた。美佐江は日中は仕事でいない。夏の暑い日で、父と娘はだらだらと汗を流しながら商店街を徘徊し、時折冷たいキャンディーをかじった。
「今日はお父ちゃんがおごってやるぞ。原稿代が入ったからな」
「げ ん こ う だ い・・・ってなにぃ」
3歳になったばかりの綾子が舌足らずの口で聞いた。
「お父ちゃんが仕事してもらったお金のことや」
「ふうん」
汗をかいていても綾子はしっかりと俊彦の手を握っていた。幼女の手の温もりと柔らかさが、父親としての喜びを実感させてくれた。商店街が終わりに近づいた時に綾子が立ち止まった。
「どうしたんや」
「あやね、あれがほしいの」
綾子はあいている方の手で近くの店のワゴンを指さしていた。指の先にあるのは山のように積まれた麦わら帽子だった。赤や黄色、ピンクや緑色のリボンがついた子供用の麦藁帽子だった。
「そうか、あれほしいんか」
「うん、だめ?」
「ダメなことない、こうたるよ」
「ほんとう?うれしい」
顔中くしゃくしゃにして喜ぶ綾子をこの時ほど愛おしく感じたことはなかった。いつもは俊彦が眠っている間に保育園に行ってしまうし、俊彦が日雇いから帰ってくると大抵は疲れて眠っていることが多かった。寝顔以外にじっくりと間近で綾子を見たことがなかったのだ。
手を引いてワゴンのそばに行き、俊彦は言った。
「どれが欲しいんだい。好きなのをとってごらん」
「うーん」
必死になって麦わら帽子の山を見つめていた綾子が「あっ、これがいい」と言って引っ張り出したのは、赤いリボンのついた帽子だった。つばの淵にも同色のリボンがついていた。
「かぶってみるか」
こくんとうなづいた綾のあたまに帽子をのせると、まるであつらえたようにスッと収まった。
「あや、よくにあうよ。かわいい」
うれしそうにニッコリしたあやは、俊彦のお姫さまだった。
「鏡をみてごらん」
ワゴンのそばには鏡も置いてあった。帽子をかぶった綾を抱き上げて鏡にうつしてやると、あやはジッと見つめてうなづいた。その顔は真剣でまさに女そのものだった。どんなに幼くとも女は女なのだ。朝仕事に出かける前に姿見で全身をチェックしている時の美佐枝を思い出させた。
「あや、これがいい、これにする。パパ、かってくれる」
「うん、いいとも」
笑顔で出て来た店主に支払いを済ませて値札をはずしてもらうと、あやはすぐにかぶった。
「パパにかってもらったんだよ」
はしゃいで告げる綾の頭をなでて、店主が言った。
「よかったね、綾ちゃん。よく似あうよ」
「ありがとう」
まるで小さなお姫様のように綾は輝いていた。二人で手をつないでご機嫌でアパートに帰った。
夕方、仕事から帰ってきた美佐枝に綾はすぐに麦わら帽を見せた。
「パパにね、かってもらったんだよ」
「まあ」
美佐江はびっくりして俊彦を見つめた。
「ちょうど原稿料の残りがあったしね。どうだい、似合うだろう」
「あやちゃん、よかったわね。よく似合うわ」
綾の頭をそっと撫でながら、「ありがとうございます」と俊彦に頭を下げた美佐枝が、俊彦は不憫だった。「ありがとうございます」はこちらの言う言葉だ。美佐江は自分と暮らしていなければ、きっと今頃は良い生活をしていたかもしれない。親の決めたどこぞの男と結婚してお金の苦労などせずにのんびりと好きな生活を送れたのかもしれないのにと、俊彦の胸は痛んだ。早く楽な暮らしを送らせてやりたいと思うがなかなか結果が伴わず、後悔にさいなまれた。
綾はそれから毎日、晴れても雨が降っても、俊彦に買ってもらった麦わら帽子をかぶって出かけるようになった。落としたり失くさない様にと、麦わら帽子の内側に赤い糸で「あや子」と美佐江に刺繍してもらって、意気揚々と出かける綾を見て、俊彦は和んだ。
夏が過ぎて冷たい秋雨がしとしとと降るころになって、今まで音信普通だった美佐江の実家から一本の電報が届いた。
「チチ キトク。 スグカエラレタシ ハハ」
美佐江は電文を読んで一瞬顔色を変えたが、すぐにキッとなって言った。
「これは罠だわ。私には解るの」
「罠って、誰の?」
「決まってるじゃない、親のよ」
「まさか、それはないだろう」私は一笑にふしたが、美佐江は固く首を振って言い張った。
「あなたは私の親を知らないから、信じられないだろうけれど…あの人たち、とても狡くて冷たいところがあるの。幼い頃からどれだけ私が泣かされ苦しめられたか分からないわ」
彼女の言い方は真に迫っていた。本当なのだろうか・・・と俊彦の心は揺らいだ。そんな親がいるのか。どんなに娘が思い通りにならないからと言って、そこまで策を弄するだろうかと。美佐江は電報をビリビリと破り屑籠に投げ捨てた。
「本当なら、綾子が生まれた時に何らかの連絡をくれるなり、一言でもお祝いを言ってくれるべきだったのよ。それを今さら体を壊したからといって…バカじゃないの!! 私は信じないから」
強い語気が美佐江の心境を如実に表していた。俊彦は黙って美佐江の顔を見つめた。
「きみがそうしたいなら、そうするさ」としか言えなかった。そうとしかいない自分が情けなくもあり、悔やまれたが、今の自分にはすべてを押し切る自信がなかった。
美佐江の実家からはやがて連日連夜、電話がかかるようになった。美佐江の母が何かしら訴えている様子を、俊彦はジッと聞えぬ振りで耐えた。いよいよ来る時が来たのかもしれないと、重い石が体全体にのしかかってくる気配に身が縮んだ。
更にそれから数日後、日雇いから帰ってきた俊彦を待っていた美佐江が告げた。
「父の容態が落ち着くまでのしばらくの間だけ、実家に行って来たいのですが・・・」
「そうしなさい、長いこと会っていないのだからお詫びもしなければならない。ご両親のお許しが出たら、僕も後から行くから」
「ありがとうございます」固い表情のまま美佐枝が頭を下げた。
「必ず戻ってきますから・・・ね」
小糠雨が降る中を、美佐枝は綾子の手を引いて実家の父を看に行った。母の傘の下で赤いリボンの麦藁帽子をかぶった綾子が小さな手を振っていた姿が今も俊彦の脳裏に焼き付いている。今から思うと、あの時もっと真摯に美佐江の言葉を信じて、彼女と綾子を行かせなければよかったと思うが、まさに『後悔先に立たず』だった。
実家へ戻った美佐江との連絡はそれっきり途絶えた。連絡を取ろうにも正確な住所も知らない。こんなことならきちんと聞いておくべきだったと思っても後のまつりだ。後ろめたさに駆られながら、俊彦は美佐江の残して行ったものを調べた。そして唯一、電話番号の走り書きを美佐江が置いていったことを知った。こういうことを想定していたのだろうか・・・『郷堂館』という温泉旅館がそうだった。
意を決して、初めて俊彦は電話をかけた。呼び出し音に続いて出た女性に、俊彦は名前を告げて美佐枝を呼んでくれるようにと頼んだ。受話器の向こうで息を呑む気配があった後、「間違い電話です。うちにはそげんお人ばおらっしゃらんですて・・・よそばあたってくだっしゃいませ」と切られた。胸を突きあげる不安と憤り・・・そんな言い方はないだろう。行かせるべきではなかったのだと強い後悔の念に囚われて、俊彦はその場に立ち尽くした。取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、自分の胸を掻きむしりたくなった。
もう美佐江にも綾子にも会えないのではないだろうか。どうすればいいのか・・・執筆どころではなかった。
電話のそばに座り込んで動けなくなった俊彦は、黄昏時の西日が窓ガラスに反射して初めて自分が朝から何もせずにいたことに気づいた。西日は黄金色に輝き室内を淡いオレンジ色に染めていた。「綾子の好きだった色だ」
「綺麗ね、あやね・・・この色が大すきなんよ」
ある日、珍しく早く帰宅した俊彦に、綾子は舌足らずの口調で話したことがあった。
「あや・・ううううぅ・・・」
天井を睨んだまま、俊彦は泣き出した。自分の失ったものがいかに大きいモノだったか、身に沁みて感じた。後悔の念に体中をチクチクと刺されていた。
大粒の涙が頬を伝って畳を濡らした。
「帰ってきてくれ、お願いだから・・・美佐江~綾子~」
それから数日たっても何の音沙汰もなかった。俊彦が電話をかけたことは美佐江に伝わっていないのだろうか。もし彼女が聞いたら、何らかの連絡をくれるのではないか。淡い一抹の期待も時間が過ぎるとともに崩れ去った。
木枯らしが冬の予感を感じさせる朝、俊彦は見慣れぬホームレスに出遭った。ボウボウ髭にボサボサ頭、頬はこけて目は落ちくぼみ・・・こいつ誰だと覗き込んで気づいた自分自身の変わり果てた姿に言葉もなかった。美佐江が見たらなんて言うだろうか。暮らしがどんなに貧しくとも小ぎれいにしていたいと言っていた美佐枝だった。綾子も驚いて泣き出すかもしれない。美佐江に会いたい!!綾子に会いたい!!心中深く突き上げる想いに俊彦は決心した。「会いに行こう!!妻と娘に会って連れ戻したい!!」
銭湯に行き、手持ちの服の中で一番の晴れ着を着た。先ほどよりはずっとマシな自分にホッとして、駅へ急いだ。電車なんてどれだけ振りだろうか。大学へ入るために上京した時以来じゃないだろうか。のどかな田園風景に俊彦はしばしぼんやりと見入った。家族だろうか・・・笑いながら畑で何か収穫しているのが見えた。穏やかで平和なひと時を楽しんでいる人々が俊彦は羨ましかった。
何があっても美佐江に会って連れ戻す…ガラス窓に映る自分に自己暗示をかけるように言い聞かせた。
車両の揺れにいつの間にか俊彦は寝入ってしまった。どれだけ眠ったのか、車内アナウンスで目覚めた。俊彦が降りる駅は次だった。
関東はすっかり冬の木枯らしが吹いていたのに、九州はさすがに温かな陽が射していた。いよいよだ。会わねばならぬ。空元気と知りつつも、胸を張り肩をそびやかして俊彦は電車を下りた。
駅前広場に立って、さてどうしたものかと見渡した。タクシーもいるが、タクシーで乗り付けるというのは印象が悪いだろう。ここはやはりバスに乗って自力で来たことをアピールしたい。バス案内所で、『郷堂館』のある温泉町に行くバスを聞いた。幸い5分後に出るという。駅前には土産物店がいくつもあり、観光客で賑わっていた。
バスはワンマンバスでバリアフリーの低床タイプだ。きっかり時間通りに発車したバスは、しばらくすると街中を抜けてゴトゴトと山道を上りはじめた。くねくねと自動車が一台やっと通れるくらいの道幅だ。ところどころにすり替えのできる場所がある。窓からは先ほどの駅前広場が眼下に小さく見える。かなり上ったようだ。車内はガラガラ。前の席に老婆が一人座っている。普段着を着て小さな布製の手提げをさげている。地元の人だろうか。俊彦は思い切って声をかけてみた。
「郷堂館ってご存知ですか」
「郷堂館・・・ああ、有名な温泉旅館ばあ知っとるたい」
「だいぶ時間かかりますかね」
「うんにゃ・・・そげんことなか。あんたそこへ行きなさると」
「ええ、そうなんです」
「ああ、そうたい。まあ、山さ一つ越えたらすぐばってん。そうたいね・・あと20~30分もすれば着くと」
ナンと20~30分のかかるとは・・・しかも山ひとつ越えてとか。俊彦は顔が引きつってくるのを感じた。
「ありがとうございます」
「まあ、気長に待っとらんかね。よかよか」
何がいいのか解らないまま、老婆は皺くちゃの顔をさらに皺よせて歯のない口で笑った。黙って頭を下げて俊彦は車窓の風景を眺めた。山道はさらにくねくねと九十九折をくり返し、峠と思しき停留所に着いた。展望台の看板が立っている。ここはどうやら山のてっぺんらしい。観光客が数人乗ってきた。
「10分の停車するけんね」
運転手は後ろに顔を向けて告げた。一休憩するらしい。時間調整もあるのだろう。
乗ってきた客がザワザワと喋っている。先ほど話しかけた老婆が、後ろを向いて俊彦に声をかけてきた。
「あんた、どこから来らっしゃたと」
「鎌倉です」
「どこたいね、それ」
「ええっと、東京の近く・・・です」
「そうたいね、都会のお人かね。そりゃそりゃ・・・そげん遠か所からおいでんなさったと」
「ええ、まあ」
「なんかあったとぉ」
「いえ、ちょっと」
老婆は勝手に自分で判断して、ニヤニヤしながら俊彦の顔を凝視した。この婆さんに見つめられると、不思議に心の奥底まで見透かされそうな気がして俊彦は眼を逸らした。
「まあ、よかね。ばってん若いっちゅうのはイイことたい。頑張りんしゃい」
「はあ・・・どうも」
老婆はニコニコして「よかよか」と片手を振りながら前に向き直った。
暑くもないのに、額に汗がびっしりと玉のように出て来た。これくらいのことで情けないと内心苦虫を噛み潰す思いで、ポケットから皺くちゃのタオルを出して拭った。なんだか皺くちゃのタオルが老婆の顔に見えてゾクッとした俊彦は、慌ててタオルを丸めて上着のポケットに押し込んだ。
「発車するけん」
運転手の号令で再びバスは動き出した。今度はゆっくりゆっくりと坂道を下ってゆく。時折ちらちらと窺うように見つめる老婆の視線が気になった。俊彦は車窓の風景に意識を集中した。やがてバスは広大な荒野の真ん中で止まった。
「運転手さん、降りるばってん」
老婆が立ち上がり俊彦の肩をたたいた。
「ガンバりんしゃいよ」
笑顔で手を振ると、杖を突きながら老婆は下りて行った。こんなところで下りてどうするんかと俊彦は眼を真ん丸にして見ていた。
「あの婆さん、そこの農場のご隠居さんたい」
ガラスに顔を押しつけている姿が面白かったのか、笑いながら運転手が教えてくれた。
「はあ、農場ですか」
「大きか農場たい・・・牛やら豚やら羊やら馬やら・・・うんにゃ、たくさん飼っとっとね。かなわんと」
広大な荒野と思ったがどうやら広大な農場だったのだ。目を凝らせばずっと奥の方まで一本の道が続いている。道の奥の方に家屋と思しき建物群が建っているのが見えた。先ほど下りた老婆が、杖を突きながら歩いていくのが見えた。
バスは再び走りだし山を下った。やがて温泉街が見えてきた。街の中をゆっくりと走り抜け、一件の大きなホテルの前で止まった。
「ここたい」
「エッ」と聞き返す俊彦に、運転手が言った。
「あんたの下りるとこはここたいね」
「あっ、はい、そうですか」
慌てて俊彦は立ち上がった。勢いが良すぎて膝頭を思いっきり前の座席にぶつけてしまった。
「うっ」と唸りながら乗降口に走ってくると、運転手が言った。
「下りたらすぐ見えるばってん」と言いながら先を指さした。
指先の向こうに『郷堂館』の看板が見えた。
礼を言ってバスを降りた。運転手は黙って手を軽く上げて応えた。走り去るバスを見送って、俊彦は背筋をピンと伸ばして大きく深呼吸した。勝負だ。何が何でも勝たねばならぬ勝負だ。今まで一発で勝ったことなどなかった人生だが、今回は絶対ゲットして帰らねばならぬ。瞼の裏に美佐枝と綾子の笑顔が浮かんだ。
「よし、いくぞ」自分に気合をかけていざ出発!! 目指す先に向けて歩を進めた。
『郷堂館』の前に着いた。鉄筋コンクリートと思しき建物は高さ15階の巨大なタワーになっている。天を突くような先端を青空に伸ばし威圧感を漂わせていた。
タワーの前に立つと音もなく自動扉が開いた。
目の前に開けたのは広いロビーだった。厚いふかふかの絨毯が敷かれたロビーの奥にフロントが見えた。
「いらっしゃいませ」
ホテルマンの笑顔に釣られて俊彦は足を運んだ。
「ご予約の方でしょうか」
「いえ、社長さんに会いたいのですが」
「どういったご用件でしょうか」
「それはお会いしてお話しします」
「お名前はお伺いしてもよろしいでしょうか」
「加納俊彦と申します」
「しばらくお待ちくださいませ」
カウンターの中で担当者が電話しているのをジッと待った。しばらくして・・・
「かしこまりました」と応えて電話を切ると、担当者が戻って来た。
「社長は本日御用繁多でお会いできません。明日、お会いすると申しております」
「明日?ですか」
「遠方からのお越しということもあるので、本日は当館にお泊りいただくようにと申しております」
冗談じゃない、こんな高いところに泊まれるかと俊彦は内心歯噛みした。
「結構です、どこか適当な宿をとります」
「いえ、是非社長のお客様として当館にお泊りいただくようにと申しておりますので」
フロントの女性が片手を軽く上げると、ホテルマンが飛んで来た。
「お部屋にご案内して」
「はい」
ホテルマンはフロントの女性からキーを受け取ると、俊彦に黙礼した。
「ご案内します」
ロビーの中央にあるエレベーターはガラス張りでスッと滑るように上がっていく。高くなるにつれて温泉街が一望に見渡せた。
その眺めに俊彦は言葉もなくただただ見入っていた。
社長が会うということは、元気なんじゃないか。元気になったのか・・・それならもう美佐江も綾子も返してくれてもいいのではないか。胸の内で込み上げる雑多な思いを反芻しながら明日のことを考えだしたときにエレベーターは止まった。
案内された部屋は大きなスイートルームだった。
身分不相応な部屋に俊彦はたじろいでしまった。
「ここですか」
「どうぞおくつろぎください。何か御用の際はご遠慮なくフロントにお申し付けを」
慇懃無礼な黙礼とともにホテルマンは去って行った。一人部屋に取り残された俊彦はなす術も無く立ち尽くした。
闘いの前の気力を吸い取られた気分だった。予想外のアッパーを喰らったみたいに座ることもできずショックで立ち尽くしていた。哀しいくらいに広々としたパノラマの風景が眼前に広がっている。
壁面がガラス張りの巨大な部屋は、俊彦にとって「悪趣味」としか言いようがないくらいにド派手な雰囲気を醸し出していた。一拍いくらの部屋なのか想像もつかなかった。調度品は外国製で、使うのが躊躇われるような高級品ばかりだった。こんな部屋に泊まらせるなんて自身の権力を見せつけて俊彦を叩きのめそうという社長の強い意志を感じられてならなかった。
「おまえのような奴には美佐江は渡さない」という声がどこからか聞こえてきそうな気配を感じた俊彦はなす術もなく壁に背をもたれかけてボーっと立ち尽くしていた。ゆっくりと日は沈み綺麗な夕景が窓一面に広がった。泣きたくなるくらいに美しいサンセット・・・温泉街に夜の帳が降りてますます賑やかになる時間だったが、空腹も忘れてなす術もなくただ一か所に案山子のように俊彦は立ち続けた。
真っ暗になった部屋の中で突然コールチャイムが鳴った。ビクッとして我に返った俊彦は、誰かが部屋の外で呼んでいるのに気づいた。
「はい」とドアに近寄ると「お食事をお持ちしました」とボーイの声が聞えた。
室内の電気をつけてドアを開けると、大きなワゴン車に山ほどの料理が載っていた。ナンなのだ、これは!!
「これはいったい・・・」その後が続かなかった。
そんな俊彦にお構いなく、ボーイは手早くリビングのテーブルに食事をセッティングした。
「どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
黙礼して出て行ったあとに再び訪れた静けさ。山のようなフルコースの料理が異様な輝きを放っていた。その時、俊彦の中で開き直りともいうべき精神力が沸き起こってきた。よし!!食ってやるぞ!!あいつに負けるもんかと腹を括った俊彦はテーブルに腰かけると狂ったようにがつがつとディナーを平らげた。食べ終わった後の胃は破裂せんばかりに膨れ上がっていた。
クィーンサイズのベッドに大の字に延びると、天井にはこれまたルネサンスを彷彿とさせる派手な絵画が描かれていた。こんなすごい部屋には滅多に泊まれるもんじゃないだろう、いや、きっと一生泊まることはこの先もないだろう。この夜をしっかり噛みしめて堪能して胸深く刻み込んでおこう。天井画を睨みつけて俊彦は心に誓った。
翌日、朝食後に俊彦は初めて美佐江の父親に会った。口髭を蓄えてでっぷりとした大柄な老人は、ポマードの香をふんわりと撒きながらロビーに現れた。にこりともしない苦虫をかみつぶした顔で俊彦を見た。
「加納俊彦くんかね」
「そうです。昨夜はこちらのホテルに宿泊させていただき、ありがとうございました」
「私が郷堂源吾だ。このホテルのオーナーだ。部屋はどうだったかね・・・ゆっくり休めたかな」
「はい、おかげさまで。ぐっすり休ませていただきました」
「結構。それは何よりだ。なかなか肝が据わっておる」
「恐れ入ります」
二匹の獣が向かい合って互いの間を見計らいながら、襲いかかるタイミングを狙っている。俊彦にはそのように感じられる対面だった。源吾は
大きな眼でぎょろりと俊彦を見やった。
「ここではなんだから、私の部屋に行こう。ついてきなさい」
くるりと向きを変えるとさっさと歩き出した。でっぷりとした体つきながら、なかなかの健脚で俊彦は小走りで源吾の後を追った。
エレベーターは使わずに非常用の階段を使って上階へ上がっていく。社長室は4階だった。部屋に着くころには俊彦は息を切らせていた。ハアハアと肩で息する俊彦を横目で見やり、源吾は笑った。
「わしがきみくらいの頃は、こんなこと何でもないことだったぞ。はいりたまえ」
ドアには「社長室」と金文字が浮かび上がっている。マホガニーのドアを押し開けると意外にすっきりとした空間が広がっていた。奥には大ぶりのデスクがでんと置かれている。
「どうぞ」
手でソファを示し座るように言うと、源吾は机上の受話器を取り上げた。
「わしだ。珈琲を二つもってきてくれ。ああ、そうだ・・・すぐに」
電話が終わると、源吾は俊彦に向かい合って座った。源吾の肩越しにボーっと近隣の山々が見える。何という山だろうか・・・と、ぼんやりと考えていた。
ドアをノックする音がした。
「はいりたまえ」
ウエイトレスが、珈琲を二セット捧げ持つように運んできて、手早くテーブルに置くと、黙礼して出て行った。重い沈黙が室内を包んでいる。どちらが最初に口火を切るのか、互いにタイミングをはかって腹の探り合いをしている気配を感じて俊彦は身を固くして座っていた。
「まあ、飲まんかね」
「はあ、どうも」
大の男が二人向かい合って珈琲を啜っている。ごくんと呑み込む音が室内に響いた。
「あの」
「さて・・・と」
言い始めが合ってしまってお互いに気まずいままで睨みあっていた。
「どうぞ」と先を促す俊彦に、「いや、そっちこそわざわざ遠か所から来んしゃったばってん」
ポロリと出た訛りにたじろいで焦っていたのは他ならぬ源吾自身であった。
「うんにゃ、こげんことで訛りば吐くとはたまらん」
「どうしてですか、お国ことばは良いじゃないですか。」
「おんしにそげんこつ言われんでもよか」
完全に源吾は訛りで喋り出していた。九州男児・・・これは大変だ。一旦言いだしたら聞かない頑とした意志の強さをもった、いごっそうだなあと思いつつ、思い切って俊彦は口火を切った。
「では、申し上げます」
「よか、言ってもはんど」
「美佐江と綾子を返してください。私は妻と娘を迎えに来たんです」
「ナンと」
源吾は真っ赤な顔で俊彦を睨みつけた。仁王立ちした赤鬼の迫力にたじろぎそうになるのを堪えて俊彦も立ち上がった。二人の視線が絡まりバチバチと火花を散らすような熱気を感じた。どれだけそうしていたことか・・・「フッ」と息を吐くと源吾が言った。
「もう無理たい」
「無理とは・・・どういうことですか」
「おんしにはやれんと。余所ばあ嫁にやったと」
源吾の言っている意味が理解できずに、聞きかえした。
「どういうことですか」
「よその男へ嫁にばやったばってん、もうここにはおりもはん」
俊彦は耳を疑った。
「あなたの具合が悪いから看病するために美佐枝は戻ったのですよ、それを嫁に行ったとは!!あなたは嘘をついたんですね」
「おんしに美佐枝ばあ呼び捨てにされんでよか。おいの娘ばあ、どこへ嫁にやろうとおいが決めるばってん!!」
「綾子はどうしたんですか」
「美佐枝のおまけに付けたと」
「おまけ!!!」
「おんしの負けでごはんど。東京へ戻ったらよか」
俊彦は動けなかった。握りしめた拳をぶるぶると震わせて源吾の顔を睨みつけて立ち尽くしていた。このままここで『武蔵の立往生』を演じたいと思った。
どれくらいそうやって睨みあっていたことだろう・・・源吾は「ふん」と鼻で笑うと椅子に腰かけた。音を立てて珈琲を飲むと言い放った。
「用が終わったのなら、帰りんしゃい。早ういかんとバスばあ乗り遅れるばってん」
机の上の電話でフロントに電話をかけて、
「お客さんばあ帰りなさるばってん・・」
さらに俊彦を正面からギロッと睨んで冷たく言った。
「自分のお金ばあ使ってうちのホテルに泊まれる男になりんしゃい。そしたら話ばあ改めて聞いてやってもよかたいよ」
まともに戦うことも叶わず、一体何をしに自分ははるばる九州まで来たのか。虚しさと悔しさがない交ぜになって俊彦の身を苛んだ。
フロントマネージャーがやってきて、俊彦は半ば強引にロビーへ連れ出された。
「どうぞ、お気をつけてお帰りください」
慇懃無礼なマネージャーの口調が耳にこびりついた。馬鹿丁寧に頭を下げられて唇を噛みしめながら郷堂館を出た俊彦の頭の中は真っ白だった。夢遊病者のようにふわふわとバス停までたどり着いて、次のバス時間まで2時間余りあることを知ってさらに打ちのめされた。もう戻れない・・・ここで待つのか。そんな気分になれなかった。半ばやけくそになって、俊彦は歩き出した。昨日バスが来た道をとぼとぼと歩きだした。舗装されているとはいえ、勾配の急な道を上るのは容易ではなかった。途中でぶっ倒れるかもしれない・・・それならそれでいい・・・もう生きる気力が湧かなかった。このままここで死んでしまおうかと考えながら、足をロボットの様に右左と交互に動かして移動し続けた。小一時間も歩いて坂道がなだらかになった。
道の傍には木製の門があった。『大林農場』と刻印されているのを見て、俊彦は思い出した。
そうか、ここは昨日バスの中で出逢ったあのお婆さんの農場だ。バスだとわずか10分余りだったが歩くとこんなにかかるんだと立ち止まって見た。様々な樹木の間を縫って細い道が奥に続いている。道の奥に赤い屋根の家が見えた。しばし立ち尽くして見入った後また歩き出そうとした時、奥からあの老婆が杖を突いて歩いてきた。俊彦を見つけると、
「うんにゃ、あんたは昨日の・・・○△×○」
もごもごなにやらつぶやきながら寄ってきた。
「・・・郷堂館ばあ行ったとぉ」
「行きました」
「そいで」
「今、帰るんです」
「帰るって、バスばあ乗らんと帰りなさっとかね」
「待ち時間があり過ぎて仕方ないので歩き出しました」
「ほっ」
大きな目で俊彦の顔を覗き込むとジッと老婆は見つめた。その眼の強さにたじろいだ俊彦は思わず目を逸らしてプイと横を向いた。
「失礼します」
立ち去りかけたその腕を、老婆は年寄らしくない強い力でしっかり握った。
「ちょっと来んしゃい」
「どこへ行くんですか」
「黙って来んしゃい・・・よかばってん・・・よか・・よか」
老婆に腕をつかまれたまま俊彦は木々の間を縫って小道を歩いた。
先ほど見えた赤い屋根の家の前に着くと、大きながっしりとした樫の木のドアを開けて中へ入った。
ずんずん入っていくとやがて広いリビングがあった。
「ばっちゃん、どうしたんネ。そん人はだれね」
リビングの中央に置かれた丸テーブルで足を組んでパイプ煙草をふかしていた男性が、声をかけた。
「崇、やっぱりおいの思うとった通りになったばい」
「はあ」
「昨日の夜、話したばってん、美佐ちゃんの・・・」
「ああ・・・」
崇と呼ばれた男性は、視線を老婆から俊彦に移した。
「あんた、名前は」
「加納俊彦です」
「何なさっとるかいのう」
「モノ書きです」
「ものかきちゅうと・・・」
「本を書いてます」
「ああ、作家さんかいね」
「まあ」
再びパイプ煙草をくわえてプワーッと吐き出した崇は、天井に揺らめいて昇っていく煙を目で追った。
「美佐ちゃんの相手は作家さんばあしとったかね」
そう呟いて俊彦の顔を見た崇は、人懐っこそうな表情を浮かべて椅子を勧めた。
「まあ、すわらんかね」
「いえ、そんな突然お邪魔してそういうわけには・・」
「そげんこつ言わんでよか。美紀・・・美紀しゃん」奥に向かって大声で崇が呼ぶと、「はあーい」と言いながら小柄のポチャッとした女性が出て来た。
「美紀しゃんたい、おいの奥さんばってん」
「初めまして」ぺコンと頭を下げる美紀に、崇は言った。
「お客さんに珈琲ばもってきて」
「はい」
「すわりんしゃい」
と、再びすすめられて俊彦は窓際の席に腰をおろした。いつの間にか老婆がいなくなっていた。
「ばあちゃんは、おいのおっかあたい。この農場ばあ切り回しとるばってん。さしづめ今は牛ばあ見に行ったたいね」
俊彦の胸の内を読んだように崇はニッと笑んで言った。
「美佐ちゃんとおいは幼馴染みでもはんど。よく一緒にころころとこの辺ばあ転げて遊んだばい」
「そうですか」
「うんにゃ・・そいでも親父さんばあ・・・あげん男ばってん、美佐ちゃんばあ・・・苦労したばってんのう」
崇は煙草をふかしながら時折珈琲を啜りつつ、とつとつと美佐枝との思い出を話してくれた。俊彦は黙って珈琲を飲みながら聞き入った。まるでそこに美佐江がいるようなそんな気にすらなった。窓の外はゆっくりと黄昏れていく。
「昨日、あんたがバスばあ乗って郷堂館ばあ行きんしゃったと聞いたばってん、ピンときたたい。あん人は美佐ちゃんの旦那さんやとね」
「美佐江はどこかへ嫁いだと聞いたんですが、本当でしょうか」
俊彦は身を乗り出して崇に尋ねた。
「あのおやじ、そげんこつ言ったかね」
黙って頷く俊彦の顔をジッと見つめて、崇はふぅーっと大きく吐息した。
「馬鹿たいね、大馬鹿たい」
重苦しい沈黙と静寂が辺りを包んだ。うつむく俊彦の眼に涙が溜まってポロポロとこぼれ落ちた。
「今日は泊まっていきんしゃい。もう帰るバスはなかと・・・部屋はいくらでもあるばってん」
「いえ、そんなわけにはいかんです」
「遠慮ばあせんでよかたいね・・・これもなんかの縁だったばってんねぇ」
いつの間にか先ほどの老婆が俊彦の後ろにいた。大きくて太い手が肩をしっかりとつかんでいた。温かい手だった。じんわりと沁みてくる母の愛に久し振りに出遭って、俊彦は声を上げて泣き出していた。
その夜、俊彦は大林農場に泊まった。崇とその妻美紀、それに崇の母の舟と心ゆくまで話し合い飲んで食べた。崇は美佐枝についてできる限りの情報提供をしてくれた。
美佐江と綾子が、源吾の顧客の某代議士秘書のもとへ嫁がされたこと等々・・・。
「東京から帰ってきたばってん、何ごとかと思うとったら・・・二三日でもう式もナーンもあげもせんでサッサと行きんしゃった。ここはこんな田舎の狭い温泉町ばってん、すぐになんでもわかってしまうやろ。皆びーっくりしとったと」
崇は舟の言葉を受けて続けた。
「嫁ぐときの美佐ちゃんばあ暗ーい顔しとったきに、哀れやったでのう。くっついとったこんまい女の子もだまーってうつむいとったのう」
「美佐江はどこにいるんでしょうか。東京でしょうか」
思い出すように、しばし考えて崇が答えた。
「いんや地元の秘書だ言うとったばってん・・・東京じゃあなかと。ウーンどこだ言うとったかいのう」
リビングの暖炉がパチパチと音を立てて炎が揺らめいている。山の中のせいか、夜になると若干冷えてくる。暖炉は心も身体も温めて癒してくれた。
俊彦が用意された部屋に引き揚げたのはもう未明近かった。寝るのも忘れて話し込んでしまったのだ。
舟は言った。
「美佐江ちゃんのことは忘れんしゃい。これも一つの定めだばってん。やがてあんたが立派な男になった時に堂々と名乗って会いにいきゃあ良いことたい」
「うんにゃあ、そうたい。それがよか。きっとチャンスは巡ってくるばってん」
ベッドに横たわって夜が白みつつある空をぼんやり眺めている俊彦の頭に、崇と舟親子の言葉がじんわりと沁みてきた。
目が覚めるともうすっかり朝になっていた。陽は昇り眩しいくらいの陽射しが降りそそいでいる。慌ててとび起きた俊彦がリビングに入っていくと、美紀が朝食の支度をしていた。
「崇さんとおかあさんは」
「あん人たちはもうとっくに農場さ行きんしゃったたい。早かあお人でビックリしちっち」
「あなたは」
「私は、嫁ですきにこうして家の仕事ばあしとるとよ」
俊彦は朝食を食べて、バス時間に合わせて大林家を辞した。帰りがけ、美紀は舟からのお土産を貰った。それには手紙が添えられていた。
「もうここには来んでよか。あんたが一人前の男になられることをきっと美佐枝ちゃんも願っとるばってん。よかよか」
この手紙は俊彦のお守りになって今でもずっと傍にある。
鎌倉に戻った俊彦は、無我夢中で小説を書きまくった。何かに憑りつかれたかのように昼夜かまわず書きまくった。自分にできることはこれしかないという意地と、いつかきっとしっかりした男になってやるという自負が彼をそこまで追い込んだのかもしれない。郷堂館を去る前に郷堂源吾に言われた一言は俊彦に後には「なにくそ」精神を植え付けたのかもしれない。
その頑張りが効を奏して、加納俊彦の書いた本は次々とヒットを飛ばし・・・著名な作家のひとりとして知られるようになったのだ。どこかできっと自分の成長を美佐枝と綾子は見てくれているだろう。心のどこかで未練にも似た淡い湿った想いがむくむくと頭をもたげることがあった。
縁あって冴子と結婚したものの・・・美佐江に対する捨てがたい思いは消えることはなかった。心の奥深くにひっそりと眠り続けていて、時折みゃあみゃあと産声を上げて目覚めかけたが、俊彦は全身全霊の力を振り絞ってその未練を押し潰し海底に埋め込んだ。自分一人の秘密として墓場まで持っていかねばならないと思っていた。
明るかった浜辺はすっかり日が暮れて太陽は水平線すれすれにふわっと乗っていた。さあ、もう行かねばと立ち上がりかけた時、砂を踏んで歩いてくる音が聞えた。フッと振り向くとそれは先日来幾たびか会ったことのある婦人と孫の姿であった。手をつないでニコニコと歩いてくるその姿に、得も言われぬ懐かしさを覚えると同時に、それは先ほどまでの思い出が見事に重なる気がした。「もしかしたら・・・まさか・・・」
何か言いかけた時に女の子の麦藁帽子が風に乗って舞い上がった。
「あっ、あやの・・・帽子・・・ママの帽子が飛んだ」
女の子は真ん丸の眼を見開いてこちらにパタパタと走ってくる。まるで図ったかのようにその麦わら帽子は俊彦の前にストンと落ちた。手に取った俊彦の目が一点に吸い寄せられるように注がれて・・・体が硬直した。赤い糸で「あやこ」の刺繍がされていた。昨日今日の刺繍ではない、もう長い間風雪に耐えた糸の色であった。
眼を上げた時に眼の前に女の子と婦人が立っていた。
「帽子をありがとう」それは遠い昔、幼い綾子が言った言葉と重なった。
俊彦は黙って帽子を女子に差し出した。
「おなまえは・・・」
「あやこ」
えっ、まさか同じ・・・そんな、偶然か!!俊彦は眼を老婦人に移した。
「ご無沙汰しています。たぶんあなたはもうお気づきになられたのね。美佐江です」
「!!!・・・なんと言えばいいのか」
言いたいことがいっぱいあったはずなのに頭の中が真っ白になって、俊彦は何も言えなかった。
「この子は綾子の娘ですか」
「そうです。母親と同じ名前なのです。ただしこの子はひらがなでね」
「そうだったのか。それはまたどうして同じ名前になったのかな」
「綾子が強く希望したの。自分の生まれ変わりだと言ってね」
「どういう意味なのか、よく解らないんだが・・・それはつまり綾子は・・」
「綾子はこの子を産んですぐに亡くなったのよ」
脳天を石で叩き割られるような感じがした。死んだ・・・綾子が死んだというのか。もう綾子に会うことは二度と叶わないということか。俊彦の中の綾子は3歳のままで止まっていた・・・これからもずっと永久にそのままなのだろうか。
「この帽子が綾子からあやこへの唯一の遺品になったの」
あや子は無邪気に砂遊びをしている。幼い頃、綾子とよくこうして黄昏時に過ごしたことを俊彦は思い出していた。
「あなたが私たちを取り戻そうとして郷堂館の父に会いに来てくださったことは、あとから聞きました。嬉しかったわ。あの日、実家に戻る時、こういうこともあるかと覚悟はしていたの。でもまさか子連れでどこへでもやらないだろうと思ったんだけど、甘かったわ」
美佐江は俊彦に並んで砂浜にすわった。長かった髪はすっきりと結い上げられて襟足が綺麗に見えた。着物の着こなしも決まっていて着慣れている気がした。自分と暮らしていたときは着物など着たことがなかったし、着れる生活ではなかったのだから。
「相手は代議士の地元秘書でね、かなり年配だったのよ。そんなところへ子連れで嫁がせたのは、父がその代議士とコネを作りたかったからなのね」
「そうだったのか」
「父の考えそうなことなの。あの人そうやってのし上がって来たんですもの。母は父に何にも言えないし・・・」
「・・・」
「でも、私は嫌だったの、絶対嫌だった。綾子もね、最期まで懐かなかったわ。私のパパはあなただけだと言ってね」
「・・・でも、一緒に暮らしたんだろう、その男と」
「ふっ」とやや自嘲気味に美佐江は笑った。
「私ね、向こうの家に着いた時にハッキリと言ったの。私には事実婚の夫がいます。それを百も承知で父は私と娘をあなたの所へやったのよって」
「うーん」
「そのおじさんは、言ったの。一緒に寝なくていい。愛してくれなくていい。ただふりだけでいいって言ったのよ」
「そうなのか」
「逃げ出せばよかったんだけど、向こうに着いたらもうすっかり妻の座が用意されていたの。地元の後援会だとか地域住民だとか何重にも取り囲まれていたわ。絶望に似た気持ちで外面は笑顔で、腹の中では泣いて過ごすしかなかったのよ。それでも年月は恐いわね、いつしかそんな暮らしに私はなれてしまったのよ」
「・・・・」
「私は大人だったからそうやって道化師になれたけれど、綾子は純粋な子供だったから無理だったわ。いつも暗い顔でむっつりしてね」
綾子のいつもころころと笑っていた顔が目の前にちらついた。あの綾子が笑うことなくむっつりと過ごしたなんてそんなあり得ない光景だった。辛かっただろうと胸が締め付けられる思いがした。
「高校を出てすぐに、綾子は家を出たわ。一人で生きるって言ってね。どこへ行ったかのか、何をしたのか一切言わず連絡もくれなかったの。形だけの妻には変わりなかったけれど・・・夫も秘書から代議士になったりしたもんだったから忙しくなってしまって、私」
「そうだったのか」
「でも、あなたが作家として着々と成功してらっしゃるのは知っていたわ。貴方の本、出るたびに買って読んでたんですもの」
「ありがとう。君に知らせたかった。感謝しているんだ・・君がいなければ今の僕はない」
「そんなことはないわ。あなたは私に関係なく成功できた方よ、あなたにはその才能があると私には解っていたもの」
「それで、綾子はどうしたんだい」
「ええ、5年前にふらりと戻って来たの。びっくりしたわ・・・疲れた顔をしてね、おまけに妊娠していて出産まじかだったわ」
「何も聞かないでくれと言われて・・・出産直前にちょっと話しただけなの。もし女の子だったらあやこにしてほしいとだけ言い遺したのよ」
「・・・なんと言えばいいのか」
「綾子が亡くなって・・・東京の議員宿舎から夫が帰ってきてびっくりしてね、そりゃもう大変だったの。だって自分に最期まで懐かなかった娘がこんな死に方してしまったでしょう。でも夫は結局は自分の娘として葬儀をあげてくれたわ。そして私はあや子と一緒に夫の地元で暮らしていたの。綾子が帰ってきたときに、この麦わら帽子だけは持ち帰ったのよ。これだけはいつもどこへ行くにも持ち歩いていたんだもの」
「そうだったのか。もう随分たっているのに、よくもっているよな」
「本当ね・・・あや子にも、これがあなたのママの大好きだった帽子よって教えてるの」
陽はもうとっぷりと暮れかけていた。綾子は美佐江の傍にくっついている。
「今晩はどうするんだい、なんだったら僕の家にくるかい」
「冗談でしょう・・・奥さまビックリなさるわよ」
「旦那の議員宿舎にでも泊まるのかい」
「あの人、昨年亡くなったの」
「そうなのか・・・これは…失礼したね。ごめん・・・知らなかったものだから」
「気にしないで。私、やっと自由の身になったの。と言っても実家へ帰るんだけど、あやこと一緒にね」
「郷堂館かい」
「あそこも・・・父はもういないのよ。規模もだいぶ小さくしてね、地元の小さな温泉宿になったの。そこでのんびり女将をして生きていくの」
「そうか・・・それはよかった。美佐江に会えて僕は・・・なんと言ったら」
「あなたの気もちは嬉しいの、だから言わないで。実家に帰る前に一目会いたいとここへ来たの。そしたら、あなたの顔を見て・・・もっと早く立つつもりだったのに、結局未練たらしくこうして居続けてしまったの。ストーカーみたいね」
「きみにだったらストーカーされてもいいさ」
「馬鹿言ってるわ」
美佐江は声に出して笑った。余りに愉快気に笑うものだから、傍にちょこんと座っていたあやこもつられてニッと笑った。
俊彦はおかっぱ頭のあやこの頭を愛おしげにそっと撫でた。自分の孫なのだという思いがギュッと胸を締めつけた。
「さあ、あやちゃん・・・そろそろおいとましましょうね。ごあいさつは」
「さようなら」
舌足らずの言葉が、遠い昔の綾子の声に重なった。小さな紅葉の手を俊彦はそっとにぎりしめた。
「ありがとう。気をつけて帰るんだよ。元気でね」
もっともっと言いたいことが山ほどあったが、気の利いた言葉が出てこなかった。
美佐江に手を引かれて去っていくあやこがかぶっている麦わら帽子の赤いリボンが夜の闇に消えて見えなくなるまで、俊彦はずっと見送り続けた。