教会
「確かにお前はここ数百年は、人の血を吸っていない。けれど、」
彼の口角が一層上がった。
「最後に血を吸ったの人間は、修道女だったろ。」
彼の目は、きらきらしていた。
「……なるほどね。」
僕は自虐的な可笑しさを通り越して、嬉しくなってしまった。
可笑しさの先に嬉しさがあるとは思えないけれど。
でもほら、彼も笑っている。
「君に、君の教会の神父に、代々僕のことを伝えてきたのは、あの人がいた教会の神父だったんだね。」
目の前の彼は、何か不思議なことを発見し、その真相を突き止めたような、無邪気な子どものような顔をしていた。
僕は肩をすくめた。あーあ、降参だよ。
「確かに、僕は彼女の血を吸った。あの人に、彼女に恋をして、そしてその思いのたけのまま、血を吸った。そして彼女は――死んだ。」
全部、ぜーんぶ飲んじゃったんだ。
そりゃ死にもするだろう。
僕は幼い神父を見つめた。
代々に渡って監視されるわけだ。前科があるんだもの。
「今回も同じパターンだから、君は自分の血で、犠牲者が出ないようにすることを選んだわけだ。」
神父は褒められた子どものように、顔を緩ませた。
「もし吸血鬼がまた人に恋をするようなら、その代の神父はそうするように、言われてきたんだ。」
「なるほどね。そして今の代の神父である君は、不幸にもその役目に当たってしまったんだね。」
しかし彼は、にいと笑った。
「不幸か、それは、どうかな」
無邪気でいて、それは凶悪だった。
吸血鬼の僕が言うのもなんだけれど、少なくとも神父らしからぬ笑みである。
まったくこの少年は。
それでも僕は彼のその表情にも、言葉にも驚いた。というか、狼狽えた。
何せあの人は、彼女は、僕という存在に恐怖し、あんなにも嫌悪したのだ。
「そもそも、僕は充分に人殺しだ。君の言う、悪魔に当てはまるじゃないか」
「なぜ“退魔”ではなく“監視なのか」
彼は、なんでもお見通し、という顔をした。
僕は押し黙った。
「修道女の血を吸って殺してしまったお前は、その日から後悔の日々に苛まれ、以来誰の血も吸っていない。」
彼はすごく嬉しそうだ。
「俺たちはそれを懺悔と呼ぶんじゃないか。」
そして得意げだ。
「悔い改めた者は赦される。」
彼は続けた。
「神様は、なんでもお見通しだぜ。」
なんでもお見通しなのは、カミサマの方だったらしい。
血をすする音が講堂に響く。
いや、ここは聖堂というべきか。
「なんだ、今日は乱暴だな。」
肌をわずかに湿らせた、この教会の主が言った。
痛みは感じずとも、体に負担はかかる。
「……君がこんなとこに連れてくるからだろ。」
彼の腕から顔を上げ、その顔を見ずに応える。
「別にいーじゃねえか。人目につかねえならどこだって。お前、教会だってどこだって入れるんだし。なんだ、怒ったのか?」
息を乱した彼が、弛緩した体でだるそうに、聖堂の長椅子の一片に腰かけている。それでも楽しそうに、僕の顔を覗き込んできた。
僕はそれをかわして彼と距離を取り、今度はその顔を見て答えた。
「怒ってはいない。ただ、この場所はさすがに、彼女を思い出す……。」
それでも最後には俯いてしまった。
「けど、今好きなのは別のやつだろ?」
「そうだけど、そう割り切れるもんじゃない」
「ふうん?」
やはり、彼はこの手の話には首を傾げるばかりであった。
さすがは神父様。というより、いっそ穢れを知らない天使みたいだな。はは。
なんで僕の方がよっぽど人間らしいんだ。
僕は外してあったメガネをかけ、彼の横に座った。
「お前、いつからいるの?」
彼がふと、話題を変えてそんなことを聞いてきた。
「……さあ。あんまり、覚えてないんだ。」
好奇心で訊いてきたのだろう。その気持ちはわからないでもない。
けれど期待にそぐえない返答で申し訳ない。僕は思わず苦笑した。
しかし彼は、
「俺とおんなじだな。」
「え?」
嬉しそうである。
「俺も、自分がいつからいるのか、よくわかんねえ」
「え、でも、君は普通の人間なんだから、生年月日わかるだろう?戸籍がない時代じゃあるまいし。」
おっと、これはジェネレーションギャップだったかな。
「そおだけど。自分自身では、自分がいつから自分としているのか、よくわかんないじゃん。だから、一緒。」
彼はそう言って笑った。
僕は目をぱちくりさせながら、彼を見つめた。
それからついつい、噴き出した。
「十字君は、おもしろいね。ほんと。」
「面白いこと言えなきゃ、神父の説教、みんな寝ちゃうだろ?」
「ははっ、かもね」
楽しい。
彼は神父だ。けれど、それとは関係なく。
十字君といると、ほんと飽きない。
「さっきの話、僕がいつ生まれたのか、神様なら知ってるのかな?」
「ったりめーだろ」
そう言って、十字君が僕に体当たりしてきた。そしてそのまま僕に体重をかける。
やはりまだ余韻を引きずっているのだろう。彼の言うように、確かに乱暴に啜ってしまった。
汗がまだ残っている。僕はもたれかかる十字君の額を、制服のズボンから取り出したハンカチでぬぐった。
「お。なんだよお前、ハンカチ持ってるなんて、ジョシリョクたけーな」
十字君がされるがままになりながら、そう茶化してくる。
「ハンカチくらい、持ってないとモテないよ」
僕は皮肉で返す。
「そうか。憶えとく。」
十字君はわかってるだろうに、気にする素振りを見せない。ま、実際気にしてないんだろうなあ。
「それにしても、人目がないっていうか、誰もいないじゃん……」
僕は改めて聖堂内を見回した。
「言ったろ、表向きだって。普段は使ってねーもん。」
「いつ使うのさ」
「神のみぞ知る。」
「このエセ神父……」
やはり、ここはどうしても、僕に彼女を思い起こさせる。
「あれ以来だ、ここに入ったのは。」
この若き神父と出会う、ずっとずっと昔。
「彼女の教会の神父、君のところの初代の神父は、僕を憎んでいた?」
愚問だろう。疑問形である意味がない。
それでも神父であったから、彼らが僕を裁くことはできなかったのだろう。
「関係者には、お前を消すべきだと考えた人間もいただろうな。けどあの神父はな、」
十字君は自分の胸元に手をやった。
「自分が神父であるにもかかわらず、一瞬でもお前を憎んでしまった自分自身を、憎んだ」
すると布越しにある十字を、その手に握りしめた。
「そして吸血鬼の監視役を、自らに課した。」
「そうか。」
僕も、彼の手の上から十字架を握ってみた。
「彼のクリスチャンネームは確か、」
「ああ、」
「ルカ・マリア」
いつもならとっくに家についている頃。
――つまり、もう日は沈み切っていた。
そんな中だ、彼があっさりと言いのけたのは。
「お前、今日泊っていけよな。」
「はあっ!?」
それはさすがにいただけない。
「もう遅いし。」
「いや、まだ日が暮れたばっかだし、そんなに遅くないだろ」
現代人は日が暮れたぐらいでは動じない。
しかし彼は彼で、そんな現代の生活に動じない。
「いいから。」
不機嫌そうに睨み付けられれば、僕に拒否権はない。
僕がもう一度彼を家に招こうなどと思っている隙に、なんと彼は家に僕を泊めるなんてことを言い出した。
人の家をちょっと尋ねるのと、泊まって一度でも寝起きを共にするのとはわけが違う。
それを彼は僕に許してしまったのだ。
この吸血鬼に。
しかも彼の家はただの住宅ではない。
教会なのだ。
吸血鬼を泊めるなんて、神父の方が例えよくても、教会の方はたまったものではないだろう。
こうしてこの教会はその夜、吸血鬼を宿泊させなければならなくなった。
哀れ教会。