映画館
今日は金曜日である。
彼の血を頂くようになってから、二度目の金曜日だ。
学校が休みの日は、彼も血を吸ってくるようには言わない。
しかしその日は違った。と言っても、彼の血を吸う湯になって、まだ二週間だ。
放課後彼を待っていると、程なくして彼が僕の席までやってきた。
クラスメイト達は、僕が教室に残っている時に遅くまで残っていることはあまりない。……彼が残っている時は、ホームルーム終了と同時に、我先にと消えていく。それでも用事があって居残りしたい生徒でも、その作業の場所にこの教室は選ばない。
「明日明後日休みだな。」
彼は言った。
まさか休みの日の分まで飲んでおけとは言わないだろう。
そんなことをしたら、いつも元気な彼であっても、さすがに帰宅が難しくなる。
もしそうなったら、僕が送ることになるのだろうか?
別に僕だって男だし、彼を背負うのはわけないけれど、問題はそこじゃない。
彼を送る?教会まで?
吸血鬼が神父を教会まで送るなんて、そんなおかしな話はないだろう。血を吸っといてなんだけど。
とにかくそれは、御免こうむりたい。
「うん。だから十字君は、この五日間僕に吸われた分だけ、しっかり休んでね。」
彼に何か言われる前に、釘を刺しておく。
「見たい映画があるんだ」
……。
「は?」
十字遣は僕の話を聞いていたんだろうか?
「お前が言ったんだろ。お前の監視意外にやることないのかって。」
え、そこと繋がるの?
「監視対象がもうちょっと活発だったら、俺もいろんなとこ出歩くんだろうがなあ。」
え、僕のせいなの?
「お前と一緒に行くんなら、映画も悪くないだろ。」
悪くないって、そこで使う意味が分からないよ。
「明日、分かれ道で待ち合わせな。」
え、
そう言うが早いか、彼は包帯とガーゼをいっぺんに腕から剥がし取り、間抜けに開いていた僕の口から、無理やり牙に挿し入れた。
そんな早業があったとは。
そしてさっきまで呆気にとられていたはずの僕は、次の瞬間にはごくごくと鮮血で喉を潤していたのであった。
僕が刺した釘はどこへ行った?
強引極まりなく取り付けられた約束は、破られることなく果たされた。
なぜなら僕は待ち合わせ場所にきちんと行ったし、もちろん彼も自分で取り付けた約束を反故にすることなくそこに現れた。
だって何故だか僕のせいのように彼が言うし。
そりゃあ人にとっちゃあ吸血鬼なんて化け物、存在するだけで迷惑なんだろうけれど。
そんな吸血鬼は今、神父と一緒に映画を見ている。
アメイジング。
午前中であるのに真っ暗な部屋。
しかしそこだけ切り取られた窓のように光を放つスクリーン。
臨場感たっぷりの音響は、日本語ではなかった。
隣の彼を見やる。
真っ黒な服の中、真っ白な肌と銀色の鎖だけがスクリーンの光を反射している。
彼の視線は一つの物語に集中している。監視業務もお休みか?
そう思っていると、突然頬を摘ままれた。
痛いが声を上げるほどではない。
映画館では静かに鑑賞がマナーだから、彼のさじ加減によるものだろう。
しかし痛いものは痛い。
「なんで見てねえんだよ。」
視線は映画に向けたまま、彼が不機嫌そうに小声で言った。
よそ見をしていてせいで、僕は抓られているらしい。
僕は急いで視線をスクリーンに戻した。
字幕を見ていなかったせいで、何を言っていたかあまりわからなかったが、再び物語へと意識を戻したおかげで、見落とした部分を何とか補える。
焦点を合わせていなくても見ることができる。
彼が以前説明してくれた監視方法は、本当だったらしい。
彼が口を閉ざしたことで、館内は映画の世界だけの音となる。
大きな画面の、大きな字幕を目で追っていく作業を、また再開する。
元々、土曜だってのに人はまばらだった。
マイナー映画らしい。
彼がチョイスしたのは洋画だった。
僕が映画に詳しいはずもないが、それでも聞いたこともないタイトルだった。
他の観客に僕たちくらいの年齢はいない。クラスメイトでも知っているものはいなさそうだ。
内容は宗教モノだ。
らしいっちゃあ、らしすぎる。
宗教と言っても、ゴスペルの類ではなく、少しファンタジーとホラーの要素があるものだった。
なぜなら、吸血鬼が出てくる。
そして主人公は神父だ。
僕は再び目が彼の方に向きそうになるのを、寸でのところで耐えた。
また抓られてはたまらない。
先程までは物語の前半で、吸血鬼が出て村が大騒ぎしていたところだ。
村人は自警団や神父に頼るが、犠牲者は夜毎に増える。
街から兵隊や悪魔祓いを呼ぼうにも、村からは遠く離れており、到着するまでに村は全滅だろうとのこと。
主人公である神父は、村人たちのために何とか吸血鬼を探し出そうとする。
しかしこれがなかなか見つからない。
村人たちは夜は出歩かないようにし、吸血鬼が自分の家に入れないように、魔除けのまじないも施している。
それでも、犠牲者は続く。
そしていよいよ後半。
徐々に吸血鬼の正体が見え隠れし始める。
僕は最初に隣りの彼を気にしていたことも忘れ、純粋に映画を楽しんでいた。
ところが、
「行くよ。」
「えっ?」
十字君は僕の腕をつかみながら突然立ち上がり、そのまま扉へと向かった。僕はわけのわからないまま、ただ彼の行く末を見つめ、気づいた時には
「まだ、映画終わってないのに」
扉の外どころか、チケット売り場も出ていて、完全に映画館の外へと連れ出されていた。
「あそこまでで、いい」
僕を引っ張ってきた本人と言えば、何故か俯いて、しおらしくしながらそんなことを言う。
見たかったんじゃないのかよ!
という憤りも、彼のその表情のせいで、気がそがれてしまう。
「もう、よかったの?」
「いい。」
「……なら、いっか。」
そしてだんだんと、彼が見たいと言って、彼がいいと言うのなら、まあいいか、と思うようになった。
人はそれを絆されたと言うが、僕は別に、それでもよかった。
ただ、彼は映画のラストを知っているんじゃないかと、それだけ思った。
映画館を後にした僕たちは、取り敢えず近くのファミレスに入った。
昼食にはまだ早かったが、ここで適当に過ごしていれば、いずれ腹も空いてくるだろう。
なので、今のところはドリンクバーだけを注文してある。僕はコーヒー、彼は……オレンジジュースか……。
僕は何故か、少しイケナイモノを見てしまったような気分になった。
だってここに入る時、彼の強面を見て怯んだ店員さんが、僕の顔を見た途端ほっとしたもの。わかるよその気持ち。僕はフツメンでよかった。彼の顔はよく見るときれいなんだけどね、ぱっと見はね、……うん。
そんな彼が、今僕の目の前でオレンジジュースを飲んでいる。ストローでちゅうちゅう吸っている。やばい、なんかやばい。吸っているとはいっても、僕が血を吸ってるのとはわけが違う。
見てはいけないような気がしても、これから数時間はここにいるのだ。これから数時間は彼のオレンジジュースを見ることになるのだ。はは。
「……お前さ、」
彼がストローを咥えたまま話し掛けてきた。
「金とかどうしてんの?」
普段僕のことを何でも知っているような口ぶりなのに、最近やけに僕について訊いてくる。
「あー、不動産?土地とかマンションの部屋とかを……」
「ふーん、そこは吸血鬼っぽいかも」
「だからそれ伯爵でしょ?」
「んー」
そしてこういうとき、彼は決まって歯切れが悪い。
「っていうかさ、最近何?知ってるんでしょ?僕がお金どうしてるかとか、学校どうしてるかとか。」
「知ってる。」
けれど僕には大方予想がついていた。彼が僕について知っていることを、わざわざ僕に聞いてくる理由。
「ありがとね。」
彼がストローから口を離した。
「そうやってさ、僕と話す機会作ってくれて。それで、君のことを知る機会も作ってくれて。」
彼は何も言わないが、相変わらず、僕のことは見ている。
「今日もこうやって一緒に出かけて、……おかげで君のことだいぶわかってきたよ。」
オレンジジュース好き、とか?
「僕が君を家に上げたこと、よく思ってないって、気づいてるんでしょ?」
「血を吸わせたり吸ったりする関係なのに、テリトリーに俺を入れてくれないってんなら、それが許されるくらい、お前に認められようと思った。」
彼はようやく言葉を放った。
僕は一つため息。
「律儀だねえ、シンプサマ?」
彼は僕を一瞥すると、今度はストローを勢いよく噛みだした。
「ちょ、ストローだめんなっちゃうよ、代えてこなきゃ……」
そして僕がそういうと、勢いよく立ち上がり新しいストローを取りに行ってしまった。
彼の首のチェーンの音だけが、そこに残る。
その時の彼の顔は、惜しくも見損ねた。
その後注文した昼食をそれぞれ頬張りながら、味がどうの、店がどうのと、他愛もない話をした。
僕は、来週にはまた、彼を自宅に呼べるかもしれないと思った。
思えば、吸血するときも、誘ってくれるのはいつも彼の方からだった。確かに僕から言うのは憚られるが、それにしても僕は待っているだけだった。
彼がここまでしてくれているのだから、僕も彼に歩み寄るべきなのだろう。
いや、そうしたいんだ。僕が。
今まで人に必要以上に干渉しなかった僕だけれど、ほんの少しだけなら、あの子に話しかけてみてもいいかもしれない。
喉が疼いても、僕には彼がついているのだし。
僕専属の、神父様が。
そう思っていたのだけれど、彼の方がまだまだ上手だった。
僕から誘うなんて、まだ先のことなのかもしれない。
彼にしてやられたのは、僕が彼に気を許し始めた、その日の帰り道という、割とすぐのことであった。
いつもの学校帰りのように、いつもの分かれ道でお互いの帰路に就く。
ただしその日違うのは、今日待ち合わせを、ここでしたということだ。
そう、僕はいつものように、別れた家路を当然のようにそれぞれ帰るのだと思っていた。
しかし彼は、彼は違ったのだ。
分かれ道まで帰り着いたとき、僕がいつものように手を振ろうとしたら。彼は立ち止まったのだ。
僕は不思議に思って、彼に声をかけようとした。
けれどその前に、彼が唐突に話し出した。