人
今日も彼女の首筋への衝動は抑えきった。
その日も僕は、何をするでもなくだらだらと居残っていた。
「今日もお困りか?」
すると、十字君が現れた。
現れた、というと、まるで神出鬼没のようだが、実際僕にはそう感じる。
おかしいな、彼は普通の人のはずなのに。
確かに吸血鬼を監視しているなんて、なかなか一般からは離れているが、それでも人は人だろう。
僕は正真正銘の鬼だ。なんたって吸血鬼だ。
そして彼は、神父サマは、なんと慈悲深いことだろう。困っているこの吸血鬼めまでを、救ってくださると仰っている。
……大丈夫だって言っても、聞きやしないもんなあ。
そしたら、貰えるものは貰っておく方がいいのかなあ。
「十字君は、血を吸われても元気だねえ?」
僕は彼を見やった。
彼は僕の言葉など素知らぬ顔で、……豆乳を飲んでいた。
豆乳か……。ブリックパックか……。
「俺はちゃんと食うもん食って、飲むもん飲んでるからな。」
彼はそう言って、飲み終わり特有の、ずずっという音を立てた。
「お前と違って。」
言うが早いか、彼は用済みとなったパックをゴミ箱に投げ入れる。
それは、彼の視線がこちらを向いたままなのにもかかわらず、目的の場所に放り込まれた。
そのまま彼は、僕の方へと近づいてきた。
彼は僕の前の席の机に乱暴に腰かけた。机に入れられた椅子を気にすることなく、片手を机の上につき、音を立てて飛び乗った。
彼の顔は機嫌よさげだった。
そして彼は、既に包帯のとかれた白い腕を突き付けて、こう言った。
「なあ、吸いたいって、言えよ。」
目の前には、血の通った健康的な人の腕。
「欲しいんだろ、人間の血が。」
僕は思わず舌なめずりをした。
「ほら、言ってみせろよ。」
彼は血の気が多いなあ。
「言え。」
「……君の血が、吸いたいな。」
あーあ。言ってしまったよ。
その時の彼の表情と言ったら、もう。
自分の思い通りにいったことに、大変満足げでしたよ。ほんと。
僕は彼女に恋をしている。
けれど別に、近づきたいとか、そういうことは思わない。
それは僕が彼女の血を吸いたくなってしまうからというのもあるけれど、そもそも僕は人と仲良くなることはないんです。それは僕が吸血鬼だということを知っていなくても、です。
それは生き物の本能なのでしょうか。
僕と必要以上に仲良くなろうとする人は、自然と発生しないんです。
だから僕は、彼女にただ恋をするだけの、一方的な思い人なんです。
そして当然、必然的に僕には友達というものがいない。
しかし、
「おい、最近ずっと居残りだな。」
最近ずっと十字君と放課後を過ごしている。
初めて喋ってから一日で家に上げてしまったし。
そういえばそもそも、人を家に上げたことがほとんどない。
ましてや同級生なんて。
「俺のこと待ってんだろ?」
「君自意識過剰だね。」
「そんなことないさ、こっちはずっとお前のこと見てきたんだ。ずっと、お前だけをな。」
十字君が勝ち誇ったような笑みを浮かべて言う。
「だからそれくらいわかる。」
確かに僕は完敗だ。ため息が出る。
「ここで待ってないと、家まで押しかけてくるじゃないか」
「人目を気にしなくていいとこなんて、限られてるだろ」
彼の言うことは尤もだし、本当なら学校よりも、僕の拙宅の方がよっぽど安全である。
でもなんか。ほら、家って特別な場所じゃないですか。そこに十字君を、神父を頻繁に招き入れるって、どうなんですかね?いくら食事を与えてもらってるからと言って。
つまり僕は、彼をパーソナルスペースに入れることに躊躇いがあるのだ。
人間の皆さんにはなかなか理解できないかもしれませんが。
「わかってるよ」
そして見透かしたように彼は言う。
「俺をお前の部屋に入れたくないんだろ」
「……」
理解があるのは、ありがたいことなのかもしれない。
自分のことを知ってもらっているのは、嬉しいことなのかもしれない。
しかし僕は思うのだ。
それは、お互いがそうであるからこそ思うことなのではないかと。
彼が僕のことを一方的にわかっているというのは、肯定的に思えない。
吸血鬼が言うのもなんだが、この神父は、いささか不気味だ。
「本当に大丈夫なの、ほんとにこんな連日で、」
僕は話題を変えた。
けれどこれは本当に気になっていることである。
僕の視線の先には、彼のしなやかな腕を隠す包帯。目じりの絆創膏は、流石にもう取れた。
「俺、そんなひ弱そうに見える?」
見えない。
不良と名高いだけあって、その容姿は呼び名に劣らない。
筋骨隆々とはほど遠い、一般的な学生だが、しっかりした体つきをしていて、いつ見ても血色がいい。
見えない、けど。
まあ、何度聞いてもこの答えだし、大丈夫じゃないのに、あっちから誘ってくるなんてしないだろう。
「お前がもうちょっとガツガツしてくりゃ、こっちだってしおらしくできんのに」
意味が分からない……。
もういいや。
僕はあきらめて、またいつものように彼の包帯をほどくことから始めるのだった。
「十字君はさあ、僕を監視する以外やることないの?」
美味しい鮮血を頂いた僕は、無礼を承知で呆れたように言ってみる。
彼は僕の鞄から救急箱を取り出しているところだった。
それは小さいものだが、最近の僕の鞄にはそれが常備されている。僕は彼のための保健委員だ。
彼は救急箱を机の上に置くついでに、その隣の僕のメガネをよこしてくれた。
彼に言われてから、血を吸う前にメガネは外すようにした。彼は僕のための給食委員だ。
「ないよ。」
僕はがっくりとうなだれた。
受け取ったメガネがなぜだかずっしりと重い。
「俺はさあ、要はただの神父じゃないんだよ。蒐場紅墨、お前専属の神父なんだよ。」
吸血鬼専属の神父って、どういうことだ。
「そういうお前はどうなんだよ」
「僕は、人と一緒に生活がしたくて」
「そうじゃなくてさ」
彼はガーゼを傷口に当てると、テープで乱暴に留めた。
「そもそも、どうやって入学手続きしたの?」
彼の鋭い眼光が僕を射抜く。
神父殿にそんな気はないのだろうけど、その視線は杭となり吸血鬼の胸を射抜くのだった。
彼の目つきは元々悪いのだ。
僕はうつむいた。
「僕は人と共にありたいと思いながら、その人々を騙してるんだ。」
吸血鬼は人に暗示をかけることができる。
僕はいとも簡単に人を騙すことができる。
そして僕が人の中で日常を続けることは、日常的に人を騙していることになる。
「そうだよなあ。」
彼は普通に相槌を打った。
「僕はそうやって、入学と卒業を繰り返してきた。」
変わらない体のまま。
「学校は近くをローテーションで入卒?住処だけはここから変えずに?」
「そう。」
彼は包帯を引っ張り上げた。
「うちの教会が建つ前もさ、あの場所元々教会があったらしいよ」
僕は彼の手から包帯を取り去った。
「へえ、そうなんだ。」
僕は彼の腕を取り、慣れ始めた手順でその腕に包帯を巻いていった。
いつもの分かれ道で十字君に手を振った僕は、一人で帰路を辿っていた。
相変わらず周りに人はいないから、クラスメイトの噂になることはないだろう。
それもこれも、吸血鬼の通り道に、基本生き物はいない。
そんなことを言っては、どこでも血を吸い放題ということになるが、万が一ということもある。
僕は人に嫌われたくない吸血鬼なのさ。
好かれることもないけれど。
僕は足を止めた。
来た道を振り返る。
遠くに彼と別れた地点が見える。
――うちの教会が建つ前もさ、あの場所元々教会があったらしいよ
僕はけっこう長いことこの地にいるけれど、彼の教会のことは知らなかった。
僕の吸血鬼としての何かが、僕を教会から遠ざけているのだろうか。
何て、僕は教会も十字架も平気なんだけどね。
どうしてだろうね。
僕は再び向き直った。
今度は振り返らずに、家路を辿る。
赤い夕日は僕を貫くことなく、影を作る。
さあて、まだ冷蔵庫にはトマトジュースが残っていたはずだ。