監視役
次の朝、学校で席に着くと暫くして十字君が登校してきた。
その姿を見たクラスメイトは、彼の出で立ちに、いつもよりも騒めいた。
腕には包帯、目元には絆創膏があったからだ。
顔はやっぱ気づかないわけないよなあ……。腕はそんなに酷くしたつもりはなかったんだけど。左腕だからリストカットだと思われないかなあ……。あれ、でも十字君って右利き?左利きだったら、気にしなくてもいいのか……?
僕の心配はよそに、言わずもがな、クラスメイト達は十字君の傷を喧嘩で負ったものだと思っている。まあ、十字君がリスカなんて、思いつきもしないだろう。そもそも彼の利き腕を知っているのかどうか……。とにかく、彼が怪我を負えば、真っ先に喧嘩を思い浮かべるだろう。同意の上なんだけどね。
十字君が喧嘩の傷を負っているということで、クラスの体感温度は低い。
彼のネックレスも心なしか冷たく輝いている。
今日の教室はいつもより涼しそうだ。
ほらね、あの子も怖がってるよ。
周りがそうこうしている間にも、十字君は自分の席に着いた。
その間彼は、僕の方を見る素振りも見せなかった。
監視役のくせに、
僕は喉の渇きを誤魔化すため、自分の唇を舐めた。
僕の舌は、彼の血の味を、しっかりと覚えていた。
僕は大好きなあの子へと目を向けた。
そして今日も僕は、ここ最近と同じように、あの子を眺めて過ごすのです。
あの子を視界に入れていたかいあって、僕は人の血を――不良少年の血を吸ったことを、すっかり失念していました。
放課後までは。
そう、すっかり忘れていた僕は、あの子の姿をしっかりと目に焼き付けてその日の授業をすべて終え、あの子の姿を思い出しながら帰路に就いていた。
そして、交差点に差し掛かったところで、その声は上がった。
「今日はつらくなかった?」
僕ははっとして足を止めた。
声のした方を振り返る。
内心では飛び上がりながらもそれが表に出なかったのは、やはり人らしくはないと言いますか……。
「十字君……」
彼は――十字君は、僕の後ろから、今さっき僕が通った通学路を、彼も辿っているところだった。
それはそうだろう、彼も方向が同じなのだから。
ここまでは。
そして僕は、それを知っている。
昨日知ったばかりだ。
「きみが昨日身を挺してくれたおかげだよ。」
思わず目を細めてしまう。が、笑顔で誤魔化す。
忘れていたはずの、彼の赤い芳香が鼻腔に蘇る。
代わりに今日は、あの子から漂う、甘い誘惑が一切感じられなかった。
ま、文字どおり、彼のおかげってわけだ。
「そう、それはよかった」
彼が振り返ったまま立ち止まっている僕の元へと、徐々に近づいてくる。
十字君は淡々と言った。
彼の瞳は済んでいるけれど、その真意は汲み取れない。
無邪気すぎて、逆にすべてがするりと抜けて行ってしまう。何も引っかからない。
けれどその言葉に偽りはないのだろう。
なぜなら澄み渡っているのだから。
何色でもない。――もちろん、赤でもない。
そんな彼は、しかし後続けた。
「けど残念だなあ」
「え?」
彼は少しにやっとした。
白い歯に夕日が光る。
昨日も見た夕日だ。
「神父の血を飲んだんだから、死ぬのかと思った。」
目を細めたのは彼の方だった。
睫の長さが際立った。
その時僕は、匂いだけじゃなく、その味もくっきりと蘇ってしまった。
「モグリのくせに、よくそんなことが言えるね。」
僕も笑い返した。
「神学校に通って人から認められる神父よりも、信心深さでもって神様に直接認められた神父の方が、俺はいいと思う。」
「……」
めちゃくちゃを言っているが、彼の考えはよくわかった。
「ふうん。その思想は立派だけど、そんな神父様が、血を吸われることにハマらない保証は、僕には出来ないからね。」
しかし彼は、僕の脅しともいえる言葉に笑みを崩さなかった。
それどころか、一層深めて見せた。
口角がさらに上がる。彼が唇を動かすたび、夕日がそれを艶やかに艶めかせる。
僕は口腔を赤で満たしたい気分になった。
堪らないなら、溜めればいいじゃない、ってね。
「なんだ、やっぱり今日も欲しいんじゃないか。」
十字君が得意げに言った。
ばれました。ばれたらしょうがない。
「僕の好きな子、同じクラスなんだ」
「ふうん、常に視界に入るから意識して辛いってことか?ふうん。」
十字君が小首を傾げながら言った。
色恋には疎いのかもしれない。僕も達者ではないけれど。何せ吸血鬼だし。
「そうならそうと、言えって言ったのに……」
十字君はまっすぐ僕を見つめて言った。
「や、連日は悪いでしょ。」
「悪くない。」
「それに、僕も昨日の分で結構もってるし。」
「自分ではわかってねえだけだろ。」
「……。」
なんでこうも断定的なんだ。
仕方がないので、僕は一度唾を飲み込んでから、言った。
「やっぱり、ハマっちゃったんじゃない?」
わざとらしく肩をすくめてみせた。
彼がほんとにみんなが思ってるような不良なら、ここで血を流すのは彼じゃなくてむしろ僕の方だろう。
けれど彼は……、
「おいおい……」
彼は笑う。
「忘れるなよ」
彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「これはお前の望みでもあるんだろ?」
「……」
僕はいつの間に脅されていたのでしょう?
僕は彼を家に案内した。
血を吸おうにも人目がある。
しかたなく、神父を根城に入れる。
「あれ、お前ベッドじゃなくて布団派?」
「そうだよ。」
「片付いてんなあ~」
「そうでもないよ、別に普通でしょ?」
「っつうか目ぼしいものないなあ」
「……目ぼしいものってなに」
「俺普段椅子に座ってんだけど」
「……床でお願いします」
うるさっ。
「ず、随分騒がしいね」
「あ?外に誰かいるんだろ?」
君だよ、君のことだよ。
「しっかし結構なぼろ屋敷に住んでんなあ」
「君の教会は、さぞかしきれいなんだろうね?」
「んー、まあテキトーに手入れはしてるよ」
皮肉が通じないなー。
「……何か飲む?お湯、沸かそうか」
僕はなんだか疲労を感じ、彼と並んで座り込んでいた腰を上げた。そして彼を残してコンロに向かおうと、した。
僕は、彼に腕を掴まれて、それ以上身動きが取れなくなった。
「なんかもっと、洋館とかに住んでんじゃねーの」
「……ドラキュラ伯爵の話?」
「棺桶は?」
「だから布団だって」
僕は振り向かずに答える。
彼は質問を続けたくて僕を引き留めたんだろうか。
それにしては掴まれた腕が、痛い。
「なあ、おい」
彼は掴んだだけだった腕にさらに力を入れて、僕を引き下げる。
さすがに振り向く。
視界が降下する中、彼の襟と肌の間に、銀のロザリオが見えた。
元の場所に座り込んだ僕に、彼は言った。
「喉が渇いてんのはおまえだろって、」
彼はどうしても僕に血を吸わせたいらしい。
それを言うとまた何か言い返されそうだから、何も言わない。そう、血を吸いたいのは、あくまでも僕、だ。
彼は昨日と同じように左腕を突き出すと、元々捲られていた腕から、乱暴に包帯をほどいていった。
僕がやったのにもかかわらず、僕は罪悪感を覚えてる。
「だ、大丈夫なの、腕?」
すると彼は顔を上げたが、気にしたふうもなく言った。
「お前、別に痛くしたわけじゃないんだろ」
「え、そりゃあ」
「じゃ、気にすんな」
気にしてないならこんなこと言わないのに。
そうしている間にも、するすると包帯は解かれていく。
無機質な白さの包帯と、温かみを秘めた彼の白。
夕日に照らされてなんとまあ、
――おいしそう。
彼の白い腕から、白い布がはらりと落ちる。
どうやら全部ほどけたらしい。
ほどけてしまった、らしい。
「ん、ほらよ」
最後に傷口のガーゼがびりっと剥がされると、実に軽い調子で腕が目の前に突き出てきた。
あ、あっけなさすぎ。
けれどさすがに、傷口を目前にすれば狼狽える。
「おんなじ腕でいいの?傷からずらした方がいいよね?」
戸惑う僕に対して、傷を負わされる側であるはずの彼は、至ってなんでもなさそうだ。
「よく見ろよ、傷なんかもう塞がってる。吸血鬼の能力だろ?」
むしろ呆れているご様子。
「いや、そりゃあ、自分の特性くらい、わかってるけどさあ」
そして、もはや、ため息をつかれてしまう。
「あ~のなあ……」
と思ったら、こちらを強く見てきた。
「つべこべ言ってんなよ?」
唇に弾力のある筋肉の感触と、滑らかな肌の感触が、いっぺんに押し当てられる。
そこからはもう、お約束というか……。
やることは決まってしまったようなものだ。
僕は塞がった肌の、そこだけにあるわずかな凹凸を、再び突き破ってしまった。
「はははっ、美味いかよ、神父の血は?」
二度目で余裕があるのか、十字君がしてやったり顔で、神父の腕に夢中でかじりつく僕を見ている。
けれど見ているのがわかるだけで、僕は自分の制御なんてできやしない。
他に分かることといえば、腕に縋り付きすぎてかちゃかちゃと音を立てる、今にも外れそうなメガネの存在だけだ。
しかしそれも、音が止んだ。
僕は最初、自分が夢中になりすぎているせいで、周りの音が聞こえなくなったのかと思った。
しかしそうじゃなかった。
彼が、僕の鼻にかかるメガネを触っていた。
「これ、邪魔じゃねー?」
そう言って、腕から離れない僕はそのままに、強引に僕の顔からメガネをはぎ取った。
かちゃりと音がして、どこかに避けられたことがわかる。
「やる前は、外しとこーな」
十字君は子供に言い聞かすみたいに、僕の髪を人撫ぜさせてそう言った。
捕食者はこちらのはずなのに、この扱いはなんなのだろう。
そしてやがては、腕から牙を抜く時がやってくる。
僕は新しいガーゼを彼の腕に施していた。
それが終わると、彼がほどいた包帯を、今度は僕が巻いていく。
白い腕に、白い包帯を。
吸いすぎてはいないはずだが、彼の肌をじっと見つめ、確認をする。
「そんなに見なくても、また明日吸わせてやるって」
彼は笑って言うが、それは誤解だ。
「……ほんとは今朝、君の治療の後を見て、謝りたいって思ったんだよ。けど君ときたら、監視役だっていうのに、僕の方ちっとも見ないから、どうすればいいのかわかんなくなっちゃって。」
言い訳にもなってないことを言っている。
けれど思ったことなのだから仕方がない。僕は嘘偽りなく彼に伝えた。
「見てなかったって?いつもあんなもんだよ。」
僕にされるがままになりながら、彼は言う。
「あんなもん?そんなにきっちり見てるってわけじゃないってこと?」
「見てるよ。焦点に合わせてないだけで、視界に入れてるよ。」
「え、それで見てるっていうの?」
「視野に入れば見えるんだから、見てるって言わないの?」
逆に彼に聞かれてしまった。
「み、見てるのか」
「見てるよ。」
彼が見えていて、見てるというのなら、そうなんだろう。
「いつも、僕のことそういうふうに見てるんだ。」
「そうだよ、そういうふうに、見てるよ。」
それは、見られていても気づかないかな。
「だから、遠慮せずに言えばよかったのに」
そうだね、話し掛ければよかった。
「血が吸いたい、って。」
そうじゃない。