吸血鬼
一つの話がそこそこ長い。
僕は吸血鬼だ。
どうもすみません、いきなりこんな。
でもそうなんです。僕は吸血鬼なんです。
そして僕は、人々の間で、人々と同じ生活をする吸血鬼なんです。
太陽の光は、ぽかぽかして暖かいので、夏場のじりじりするような日差しじゃなければ、晴れの日の方が好きです。
協会に入ることはありませんが、十字のものを見ても、特になんとも思いません。あ、でも、きれいな装飾が施されているものには、感動します。
聖水……、聖水って、どれが聖水なんでしょう?あ、蛇口を捻っても出てこないのはわかります。
棺桶の中では眠りません。僕は布団派なので、ベッドではなく床で寝ます。
蝙蝠には変身できません。今のところ変身できるのはー……って、できるわけないじゃないですか、変身なんて。
僕は早起きは得意なのですが、夜更かしは苦手です。なので、なるべく夕方には家に帰りたいです。
にんにくは匂いがきついので苦手ですが、焼き肉は美味しいですよね。
薔薇に触れても、枯らすことはできません。突然萎れたりなんかしたら、びっくりします。
……というように、吸血鬼らしいところが見当たらないのですが、確かに僕は、吸血鬼なんです。
人の血以外も摂取することはできるのですが、それでも僕は、人の血液を欲してしまいます。
普段は、人と同じようにマンションに住み、人と同じように学校へ行き、人と同じようにスーパーで買い物をします。
吸血鬼には変わりませんが、“僕”という存在自体は、ざっとこんなもんです。
黒髪黒目のメガネで、背も普通の容姿も十人並み。特に突っ張ってもいないし、勉強も運動も人並みで、目立ったところのない、どちらかというと大人しい方の部類に入ると思います。
血を欲する、という点以外は。
そして、そんな一般的な生活をしていた僕は、ある日、恋をしました。
それは、ごく普通の僕に似合った、ごく普通の恋でした。――ある一点を除いては。
――そう、僕は吸血鬼なんだ。
僕は人に恋した吸血鬼だ。
だって僕は、彼女に恋をしたと同時に、その血が欲しいと思ってしまったんです。
でもでも、普通の女の子である彼女にそんなことをすればきっと、彼女に嫌われてしまいますよね……。
僕は、普通の男子が思うように、普通に女の子に恋をして、普通に交際を望んでいるのに、僕は――吸血鬼なんだ。
彼女が好きだ。彼女の血が吸いたい。でもそんなことをすれば彼女に嫌われてしまうと、わかっている。大好きな彼女に嫌われたくない。だって好きだから。
――堂々巡りだ。
なのにどんどん、彼女を好きになってしまう。
昨日より今日、今日より明日。
そしてどんどん、彼女の血を求めてしまう。
昨日より今日、今日より明日。
――困った。
「なにが」
声に顔を上げた。
そこには、感情の読み取れない表情をした、クラスメイトが立っていた。
教室の窓から差し込む夕日が、彼の頬を美しく照らしていた。
そう、ここは僕のクラス、僕の席。
クラスのみんなが――彼女が返っても、僕は一人帰る気になれず、自分の机に突っ伏していたのだ。
一人、だと思っていた僕は、クラスメイトの存在に、驚いて机から上げた顔をそのままに、暫く呆けてしまっていた。
それに対し、彼は顔を顰めて首を傾げた。
クラスメイトのその尤もな態度に我に返った僕は、彼に対して二度目の驚きを見せてしまった。
「えっ?」
僕の反応に首を元の位置に戻した彼は、再び口を開いた。
そうだ、さっき彼はなんと言ったか。
「口に出てたぞ。困った、って。」
僕が驚いたのを、無意識の自分の台詞に返事が返ってきたせいだと受け取ったらしい。
そうだ、僕は困っていたんだった。
「あ、っそ、そか。」
僕は慌てて取り繕った。
彼の頬にあたる夕日は、相変わらず赤い。
……まるで――。
彼はまた、今度は先程とは反対側に、首を傾げた。
その顔はやはり再び顰められた。
いや、今の表情に比べたら、先刻のは単に目を細めただけ、のように思えてくる。
僕は焦った。何か彼を不快にさせてしまうようなことを、しただろうか?
「喉でも、乾いた?」
――!!
「えっ!」
大きな声が出てしまった。
しかしその声はかすれていた。首の中がひりりと痛む。
僕は彼の言うように、喉が渇いていた。
しかしそれは水で潤う渇きじゃあない。
普通の人が水を飲めば収まる欲求では、ないのだ。
そんな僕を、彼は見透かしたとでもいうのだろうか?
僕は先程の焦りよりも、もっと余裕がなくなった。
なのに彼は、さっきからまともに言葉を出せない僕に、更に言うのだ。
「喉、鳴ってたよ」
そして指が伸びてきた。
「最近、つらそうだね」
指先は僕の喉元を目指す。
「それってさあ……、」
そして、
「人の血でも吸いたくなった?」
首を、絞めた。
「ぐっ、」
ここで、クラスメイトの彼――十字遣が、僕が吸血鬼だという秘密を唯一知っている親友である、なんて設定は、いきなり発生するわけがない。
彼はその、なんて言うか、不思議な雰囲気のある人で、彼に近づく人はあまりいない。整った顔立ちはきりっとした顔つきで切れ長の目、普段無口だし、愛想もよくない。ように見える。首からチェーンネックレスを下げてるみたいだし、不良っぽい。よく知らないけど、正直言って、怖い人の部類に入る。それに、そういう人によくあるように、悪い噂だってある。絡んできた不良は全員返り討ちにあうとか、懐にブラックリスト帳を忍ばせているとか、外国語が話せて海外のマフィアと通じてるとか。
そんな彼と、平凡な僕には、もちろん接点なんかない。
なのに今、こうして睨まれながら首を絞められている。
……く、あ。やばい。なんか頭朦朧としてきた。ええっと、ここは学校で僕は蒐場紅墨……うるさい名前負けしてるとか言うな気にしてるんだから。
「けっほ!」
あれ?いつの間にか喉は解放されていた。
「……俺が監視している間、お前は一度も吸血行為を行っている様子は見せなかったが、……違うのか?」
なにこれ、質問に答えさせるために喉離したの?言わせるためだけに?……でもそんな顔してる。ってことは喋らないと……
「ひ、人の血を、吸ったことはないよ」
彼は、細めた目で、じっと僕を見つめてくる。
夕日は、彼の瞳にも反射していた。
眩しくないのだろうか。けれど彼は、眩しそうに目を細めるでもなく、僕から視線を外さない。
疑ってるんだろうな……。
そもそも彼は、僕のことを吸血鬼だと思っているんだろうか?吸血鬼なんて化け物が、本当にいるとでも?……まあいるんですけど。
「吸血鬼なのにか」
「……」
どうしようか。
しらばっくれた方がいいのかなあ。今ならできる。「人の血を吸わない」としか言ってないし、それだったら、普通の人と何ら変わらないし。自分から吸血鬼であることは言っていない。吸血鬼なんて……――
……――吸血鬼?何言ってんの?そんなものいるわけないじゃん。まさか、信じてるの?十字君って、見かけによらず……
「吸血鬼だけど、人の血を吸いたくないんだ。」
やめた。
「どうして?」
どうしてかな。
「どうしてかな、」
強いて言うなら、
「人と一緒に、人のように生きたいんだ。」
紅に染まった彼が、きれいだったからかな。
「……ふうん」
彼は目つきを変えずに、一先ずといった様子で、そう返した。
「でも、近ごろは吸いたそうにしてるみたいだけど?」
ばれてるのか。彼の言ってた“監視”というのは、冗談でもなんでもなく、言葉通りのものらしい。間違っても冗談なんて、言わなそうだけど。なんだ、不良どころか、実は真面目なんじゃないか?
「うん。実は、最近気になる女の子ができて」
吸血鬼であることがばれた(ばらした)からか、赤裸々な悩み事も、彼にはすんなり話す気になった。
「女子生徒を襲う気か?」
と言っても、彼が僕の言っているのが恋だということなんて、思いもしないだろうけど。そりゃそうだろ、吸血鬼が人間に恋だなんて、おとぎ話もいいとこだ。
「できれば襲いたくないんだよ。さっきも言ったように、僕は人と生きたいから……。できれば、じゃだめだな、絶対、襲いたくない。」
「……ふうん」
さっきと同じ返事ではあるけど、よりも抑揚のある声で、彼はそう言った。
「それで困った、ってわけか。」
「まあね。」
彼が言っているのは、最初に僕が無意識に漏らしていた独り言のことだろう。
今まで碌に話したこともないのに、僕と彼の会話は続く。二人以外、誰もいない教室で、夕日に照らされながら。
「じゃあ……」
彼が口を開いた。茜色が映りこんだ瞳からは、随分険が落ちたようだ。
「俺の血、やるよ。」
そんな彼が口にした提案は、とんでもないものだった。
「えっ!?」
慌てる僕をよそに、彼は左の袖のボタンをはずし、まくり上げた。意外だった。不良だと聞いていたのに、日に焼けていない白い肌が露になる。どうやら腕から血を吸わせてくれるつもりらしい。なんだ、首じゃないのか。っじゃなくって!
「っなっ、なんでっ?」
「だって、吸いたくないのに吸いたくなって、つらいんだろ?だったら、同意を得て吸うしかないじゃん」
えええ、そうかなあ?
「ほら、ちょっとだけなら、やるよ。」
おっとこまえだなあ。正気かよ?
目の前に突き出された腕の前に、彼の顔色を窺う。滑らかな肌は白いけれど健康そうな色をしている。って、そういう意味じゃなくてっ。彼の目は本気だった。さっきからそうだ、彼はずっと真面目に僕と向き合っている。吸血鬼の、僕と。
僕は彼の腕を、できる限り優しく引き寄せ、その内側に、歯を立てた。
彼の首飾りが、金属音を鳴らした気がした。
「っはあ……、」
「ごめん、吸いすぎた?」
僕が血管から歯を抜くと、十字君は詰めていたのであろう息を、大きく吐き出した。僕は傾いだメガネを元に戻した。
彼の顔を見るが、貧血したような青白さは見られない。牙を立てる前と同じ、温かな肌の色だ。
「……いや、でも……、こんな感じなんだな。」
十字君は、二つの穴が空いた自分の腕を見つめながら、そう呟いた。その眼差しは澄み渡り、流れる水面のように美しかったが、あまりにもしげしげと見つめ、零した言葉もなにやらしみじみとしていたので、僕は思わず笑ってしまった。
「どうした?癖になりそう?」
こちらとしては、そうさせているつもりはないんだけれど、人間にはいろんな人がいるから……。十字君がそういう人には、見えないんだけど。
「いや、それはない。」
ぼうっとしているように見えたのだが、意外にも彼ははっきりと僕の言葉を否定した。それもあっさりと。
そして彼は懐から銀色に光るチェーンネックレスを引っ張り出し、僕に見せた。
「俺は神父だからな。」
鎖の先には、銀色の十字架がぶら下がっていた。
「え。」
先に述べたように、僕は十字架を掲げられたところでなんともない。
けれど聖職者の血を飲んだのは、さすがに初めてだ。
そういう人たちは、吸血鬼に血を吸われるなんて、やっぱりショックが大きいだろうから、僕の方から遠慮しているのだ。幸い僕は、普段から血に飢えているわけじゃないしね。
なのにこの十字君は、よくもまあ僕に血を吸わせようと思ったなあ。
というかだいたい、
「え、高校生で神父とか……、なれるもんなの?」
「神父とは一般的にカトリック教の司祭のことを指すが、その司祭になるためには神学校に6年ほど通わなければならず、のちに助祭を経た後、司祭になることができる。」
「十字君はその神学校?に通っていたの?」
いつ?
「俺は神学校に足を踏み入れたことは一度もない。」
ん?
「……ということは?」
「……モグリだ。」
「……。」
「……。」
は?
「え!じゃあそれ十字架持ち歩いてるただのV系じゃん!!」
「神父」ってそういう意味!?設定!?十字君って不良じゃなくてバンドマンかなんかだったの?
「……ふっ」
俺が混乱しつつも拍子抜けていると、それを見て彼は笑いだした。
「ふははっ、はっ」
でもそれはまるで普段笑い慣れていないかのような、慎重で大人しい笑い声だった。小さくてかわいい。
「そ、かも、な。は」
ずいぶん慎ましやかに笑ってはいるが、目には涙がたまっている。よほどおかしいらしい。
「俺が神父である根拠としては、信者であることと、一つの教会を任されていることくらいかな」
十字君は眦を下げて説明してくれた。いつもは鋭利に尖っている眼差しが、今は柔らかい。
こんな顔するんだな。
彼の目じりに潤う水滴が、今は妙に美味そうだ。
「……ふうん、そっか。でもなんで吸血鬼に血を与えようなんて思ったの?よりによって自分の血を?ねえ、モグリの神父さん?」
僕は再び渇きを訴える喉を誤魔化すように、わざと嘲りながら彼にそう言った。
「……てめえが俺の血で満足すんなら、他の人間は血を吸われなくて済むだろう?」
「……」
驚いた。まさか十字君がこんな自己犠牲的で献身的なことを言うなんて。みんなに不良って恐れられてるのに。カミサマは見てるって?イイコトしないと天国には逝けないって?信者の人は大変ですねえ。流石に神父を名乗るだけはあるのか、モグリだけど。
「なんか勘違いしてるみたいだから教えてやるよ。」
「え?」
「俺は別に神様に気に入られるために善行してるわけじゃねえよ」
「へ?そうなの?」
「神様に認められたヤツは、自然と善行ができるようになんだよ。善行して修行して、ってのは、お坊さんとかだろ。」
「ふうん、逆、ってわけね……」
吸血鬼だから全然知らなかったや。
「そういうこと言ってるとほんとに信者みたいだね。」
「当たり前だろ、その教えのこと知らないのに、それを信じててそうすんだよ。」
確かに、信頼するならまずはよく知ることだよね。
「その教えは、吸血鬼と仲良くしてはいけないとは、言ってなかったのかな?」
「悪魔と仲良くしちゃならねえが、吸血鬼と仲良くしちゃならねえとは、教えられてないな。」
……。
「吸血鬼は悪魔じゃないの?」
「悪魔ってのは人を誘惑し不幸にする存在のことを言うんだよ。お前別になんもしてないだろ?」
「ん……うん」
「お前なんかより、麻薬とかのがよっぽど悪魔だろ。」
なんか引っかかるけど……。確かに、的を射ている。彼がおどけたように言った時、白い歯が見えた。ほんと誰だ、彼を不良なんて言ったのは……。いや確かに充分そう見えるけど。
まあとにかく、僕は悪魔じゃないらしい。モグリの神父サマが仰るには。
「そもそも俺、悪魔祓いじゃないからなんもできねえし。ただの神父だし。」
「ああ、エクソシストってやつ?じゃあ神父さまは悪魔にどうやって対抗するの?」
「お祈りする。」
「……ほんとになんもできないんだね。」
「ははっ。」
十字君はまた爽やかに笑った。
先程の彼の美味しそうな涙を思い出す。それは依然として彼の目じりにある。
「……クリスチャンネームとかあるの?」
「蒐場は質問大好きだな。あるよ、洗礼名。」
「へえ。教えてくれないの?」
「別に。教えてあげてもいいけど、その前に、今度は俺からも質問。」
「……なに?」
ああ早く、早くしないと、その涙が、乾いてしまう。
「まだ足りないんだろ?」
その疑問符はもはや、形だけのものでしかなかった。
「……お前、吸血鬼だろ?なにこれ、吸……涙?」
「……知んない。」
彼はけっこう茶目っ気がある。
「歯は立ててないんだろ?それにしても吸いすぎだろ、なあ、赤くなってねえ?」
そう言われても、僕は彼の顔を見れなかった。
彼の眦に夢中で吸い付いてしまった先程の自分に、僕は何とも言えない気分になった。
だって、ナミダって……。
「血吸ったのにまだ物欲しそうな顔してると思ったら、血じゃなくて涙吸いたいとか。なに、お涙チョーダイってか?」
「もう、旨いこと言わなくていいから……」
「え、旨かった?」
なに喜んでんだよ。
「……もう、帰ろうか。」
気づけばあの美しい夕日はすっかり沈んでしまい、夜の帳が下りていた。
「ん。」
彼も自分の鞄を持って用意をした。
「……今日は、ありがと。」
先に扉へ向かっていた彼に言った。
お礼を言うときは顔を見て言うべきだと思うけど、僕はその時卑怯な手段に出てしまった。
そんな僕に彼は。
「また吸いたくなったら、言えよ。」
わざわざこちらを振り向いて言ってくるもんだから、
堪らない、よなあ。
「ありがとう。」
だから僕は、今度は彼の目を見て言った。
眦を下げながら微笑んだ彼の目元は、少し鬱血していた。
「……なんで僕が吸血鬼だってわかったの?」
初めて知ったがどうやら帰り道が同じ方向かつ通学手段が同じ徒歩である十字君と、帰路を共にするさなか、僕は彼に聞いてみた。
「わかったんじゃなくて、知ってたんだよ。」
「えっ?」
「……ふふ、じゃなかったら血を吸う素振りすら見せない吸血鬼が、どうやったらそうだとわかるのさ?」
確かにそうだろう。吸血鬼なんだろと言われたことなんて、僕だって、今までこんなことはなかった。
「俺はそのためにこの学校に通ってるんだからな。」
「……は?」
それは、僕を見張るため、ということか?
「うちの教会の、先代の神父から聞かされていたんだよ。」
「その先代は、なぜ?」
「先代はそのまた先代から、話を聞いていたんだってさ。」
「……そのまた先代は?」
「そのまた先代のそのまた先代から聞いたらしいよ。」
「……じゃあいったい誰が一番初めに僕の正体を知っていたっていうのさ?」
「誰なんだろうなあ?」
「……」
カミサマ、とか言うのかと思った。
「ってことは僕って君んとこの教会にずっとずっと監視されてたってこと?」
「ずっとこれまでもそうだったし、これからもずっとそうだぜ。」
「……。」
まあ吸血鬼だしね。霊媒師に追いかけられたり、怪しい研究所とか送られるよりかは、監視くらい別にかまわないよ僕は。
「じゃあ俺は、ここ曲がるから。」
「あ、うん。」
十字君は、人通りのない道を指さして言った。
「教会、そっちなんだ?僕、この辺りに教会があるなんて、知らなかったなあ。」
首を傾げる僕に、彼は言った。
「まあ、表向きの教会じゃないから。」
「表向き」!?じゃあ裏向きってこと!?
唖然とする僕に、十字君は手を振って走り去ろうとする。
その姿に僕はよくわからない衝動に駆られる。
「ま、待って!名前!クリスチャンネーム、教えてくれるって言ったろ!!」
けれど僕が大声を出してまで尋ねたのは、そんなことだった。
十字君は振り向くと、花が朝露を弾くようにして笑った。
外は真っ暗なのに、彼の周りだけ明るくなったようだった。これが神父の威力か……?
僕が彼の笑顔に一人混乱し、ずれたことを考えている間にも、彼の柔らかそうな唇は動いた。
「マリアだよ!ルカ・マリア!」
彼の顔は誇らしげだった。
今日は彼のいろいろな表情を、一気に見た。それにたくさん話したなあ。
「あの!ほんとにありがと!」
彼は一層顔を綻ばせた。
明るい。溶けそう。
「ああ!いつでも言えよ!」
じゃあな――最後にそう言って、彼は、今度こそ背を向けた。
「十字遣……」
当然ながら彼が再びこちらを向くことはなかったが、僕は彼の姿が見えなくなっても、そこから指一本動かすことはままならなかった。
彼の顔と声が頭から離れない上、口の中には唾がたまった。
僕はいろいろなものをごくりと飲み込んでから、ようやくわが家へと向かった。
僕は家に帰る前に、近くのスーパーに寄った。注意してもらいたい、コンビニではなくスーパーだ。その方が安いからね。
籠を拝借して飲料のコーナーを通りかかる。トマトジュースに目を向ける。
吸血鬼は血の他ではトマトジュースが好き?いやいやいや。
別に嫌いじゃないけどね、好きだよ、トマト。
でもさあ、やっぱり血液とトマト汁では似ても似つかないよ。
だいたい色だってまるで違うじゃありませんか。
それに僕、トマトジュースよりトマトケチャップの方が好きですから。あ、ミートソースも好きです。
でも今日は、その似ても似つかない赤い液体に、数刻前の光景が蘇る。
夕日に照らされた彼。
僕はやはり、トマトジュースに手を伸ばした。
トマトジュースの他に、足りない食材を買って家に向かう。
僕の住まいはおんぼろアパートの一階の角部屋。
おんぼろと言っても元が古いってだけで、風呂もトイレも各部屋にある。しかもきちんと壁で仕切られていて別々だ。僕が長年住み着いているだけあって、なかなかの優良物件だと思いますよ。
冷蔵庫に食材を入れ終えると、僕は畳に寝転んだ。
そろそろ桜も散るころで、部屋の中はそんなに寒くない。
最近の僕は家に帰るといつもこんな感じだ。
好きなあの子のこと思い悩み、それでも何が解決するわけでもなく、だらだらと過ごす。
しかし今日は違う。今日は彼の血を吸った。
これであの子を危険に晒すことはなくなった。
僕は少しの違和感がありながらも、それを素直に喜ぶことにした。
後で冷蔵庫のトマトジュースを飲もう。