第九話
「だから?」
私が養護施設出身だから、何だと言うのだろう。
私の存在も知らない父母のどちらかが黒を持った子供を捨てるほど嫌悪していたのかもしれない、と気づいた頃に、だからどうした、と思ったくらいの気持ちで聞き返した。
親がそうだったのかもしれないと気づいたとき、私の心に生まれたのは“孤独ではない”という安堵だった。そうだったからこそ、答えのない仮説は私の心に根を張ったのだ。けれど、安堵し根を張っただけで終わった。
だから、どうだというのだろう。何の慰めにも、解決にもならないただ根を張るだけの仮説を手に入れて、私は何も変わらなかった。
縋るものがなくても、自分を肯定する材料を手に入れても、私は何も変わらない。
だから私は、どこかおかしい。
1人で生きることに孤独を感じる人間として、どこか間違っている。そして、それを知りながら、冷静に何に孤独と弱さを持つのかは個人差による、と切って捨ててしまえるところが、いちばんおかしい。
人から、私の境遇をどうみられるか。
それは、私にとってさほど重要なことではない。たとえ凪子に、土足で過去を踏みにじられて騙されたと理不尽な罵倒をされても、嫌厭されても、私の心は生活を脅かされることへの警戒心以外に何ら恨みも憎しみも覚えることはないだろう。
私にとって大切なのは、この世界は私にとって異常であるという感性を否定されないことであり、否定されないように守ることが、私の世界を壊さない方法なのだ。
あの女生徒が現れるまでは、ゆっくりと世界と違和感との境目に折り合いをつけて、考え方をこちらに馴染ませることに成功しかけていたのに。
「私を調べて手に入れたその情報と、凪子が私に構う理由がやっぱり私にはわからない。なにより、養護施設出身者って知ったのに、まだ私に構おうとする凪子のほうが私には理解できない。凪子の家、結構いいとこでしょう?私は凪子の性質を知ってるけど、凪子の家の性質もなんとなくわかってるよ」
「花は花。私も真久貝君も寛司君もそれを知ったからって何も変わらない。私が言いたかったのは、『どうして何も言わずに辞めたの?』って一点だけ。私は花の親友だって自負してきたし、真久貝君は花の恋人だって認識してた。花に身寄りがないって分かった時に、一番最初に浮かんだのは心配だって気持ちだった」
私が仮説を根付かせて変わらなかったように、凪子にとっても私の出自は彼女が変わるに足る理由にはならないことはわかっていた。けれど、凪子の家は違う。
よくいえば、健全。悪しざまにいうなら潔癖。私の性質とどこか似ているぶん、凪子の家にとって嫌厭する人間に分類される私は、それを悲しいとも屈辱とも思うことはなかった。
マグカップの中は空になってしまった。凪子のグラスの中身は少しも減っていないのに。
私は、空になったマグカップに目を向けながら、私の現実を口にした。
「施設の子にとって大学に入るのは大変なことなの。どこでも構わないなら、お金を出せば入れる時代って言っても、そのお金がないから。奨学金って手もあるけど保証人がいない。奨学金は、ある意味で借金だから。学力がなければ返さないといけないお金でしかない」
私は返さなくていい奨学金枠だったけどね、とつけ加えて言った。
「就職だって住む場所がないと決められない。だけど、住む場所だって保証人がいないと決められない。寮に入ったのはそれが理由。勿論、寮にだって保証人は必要だったけど、成績優秀者の免除措置で寮費がかからないこともあって施設の所長さんに保証人になってもらえた。これは、すごく例外的なこと。いちいち子供達の保証人になっていたらお金や体がどれだけあっても足りないから」
だから今更、心配なんて無意味なのだ。
私はもう自立して、1人で生きていける大人である。
「私はそれを全部クリアして、職を得た。それを辞めても、再就職先が見つかってる。貯金だってしばらく暮らすには十分な額がある。何も言わなかったことで不安にさせたのならいくらだって謝るよ。問題はそのあとのこと。今までの凪子の言動に、私はすごく違和感を覚えてる。凪子の、本当の目的は何?」
「心配してるって言ってるでしょ!!」
「だから、そんな堂々巡りにしかならない言葉を延々話題にして、時間を浪費させようとしているみたい」
私の一言に凪子はわずかに動揺を見せた。顔に焦りが浮かんで、怯えているかのようだ。
私の知る普段の凪子なら、こんな怯えた顔は見せない。それに、“心配”は一度ではっきりと口にしたあと、建設的な話題に入る。
学生時代の唐突な留学から帰って、こっぴどく説教されたように。
『心配した』
『何をしたのか』
『何を考えているのか』
『自分達との関係をどう思っているのか』
『これから何をしたいのか』
そういった情報を1つでも多く獲得して私の行動の理由を探っているはず。
ピンポーン、と場違いなチャイムが鳴った。
来客の予定はなく、宅配がくるような注文も取っていない。よしんば、宅配であってもインターフォンがないのは分かるのだから扉越しに声をかけるだろう。
チャイムの音がまた響く。
すごく、嫌な予感がした。
チラリと凪子の顔を窺い見ると、なぜか安堵の表情が浮かんでいた。
3度目のチャイムが鳴り響いた。
その余韻が消え去った次の瞬間、ガンガンガンッ!!と殴りつける勢いで扉が叩かれた。
明らかに近所迷惑である。
借金取りもかくや、という想定外の事態に反射的に弾かれたように駆け出して扉を開いてしまった。
何考えてるんだ、あの馬鹿は!!
この家追い出されたら行くとこないんだよ。ここだけが今私の部屋なんだよ。
借金があるなんて大家さんに思われたら、ようやく保証人なしでも定職があったから入居できた条件のいい住処から出て行かなくちゃいけないの!
そんな苦労も恐怖も、あんたにはわかんないの!?
「帰って」
荒れ狂う心内を押し隠して、私の生活を脅かしたことへの嫌悪も露にそう言うと、目の前の男は能面のような顔で私の腕を痛いほどに力を込めて掴んだ。私の言葉は無視されて、そのまま中に押し入られる。
今まで目にしたことも、経験したこともない男の様子と行動に自分の中の怒りが混乱して、行き場を失ったまま鎮まった。
茫然と男のされるがままに引っ張られる。
たいして広くもない部屋なのに、凪子がいつの間にか消えていたことにも気づかないほど余裕が持てなかった。
ここは私の守備範囲なのに、雰囲気は完全に男にのまれていた。