第七話
「仁科さん、申し訳ないのですが、私はこれから報告のために職場へ戻る必要があるんです。なので、腕を離して下さい」
「いやよ」
女としては上位に位置する筋力と握力を持つ凪子は、微笑みを浮かべたまま私の利き腕にまとわりついている。正直かなり鬱陶しい。
おかしい、凪子はもっとさっぱりした性質の持ち主のはずなのに。
嫌な予感が的中し、主催者側という役割の違いはあれど全国模試の説明講習会で遭遇した凪子は、会の間中、ずっと私を監視するがごとく幾度も視線を向けてきた。
会が終わると同時に集団に紛れて、さっさと退散しようとしたら、物陰で待ち伏せしていた凪子に彼女を知る私から見たら白々しい勢いの演技で、そのまま人気のない場所へと連れ込まれた。
「妙齢の女性が女性へ向かってそのような言動をとられても困りますし、仕事中にこのようなことをされると迷惑です」
「どうしてもまた居なくなるって言うなら、花の過去全部、大声で叫んでやる」
その言葉に、わずかに体が固まったのを自覚する。事務的に浮かべていた笑みさえ消し去って、急激に冷めて感情を凍結させた心とは裏腹に、勢いよく回り始めた頭が私にとっての凪子の位置付けが変わるだろうかと思考し始める。
あそこに居た頃には毎日のように私の心に訪れていた冷めきった感覚。
過去が、私に追いついて、その懐かしい感覚をわずかの時間で体全体に馴染ませる。
逃れられない。
それは、分かっていたことである。
逃げるために積み重ねている今は、まだ短く、浅いまま。
それでも、大学に私の過去を知る人間は居なかった。そもそも、本当の意味でのをrootsを私すら知らないことを知る人間が居なかった。
「花の、そんな顔は初めて見る」
先程までの拗ねたような色を含ませていた声音は、冷静な時の凪子が私に向けるものへと変わっていた。そして、私の変化を敏感に察知したのか私の腕に絡めていた彼女の手を解いた。
「野次馬根性って軽蔑されても構わない。私たちは花のことが知りたかった。最初に切り出したはずの寛司君だけは私たちを止めたけど。矛盾してるよね。寛司君も花も」
「何をおっしゃりたいのでしょうか?」
「知られたくないなら嘘つけば良かったのに。綺麗に関係を断ちたいなら、もっと他にやりようだってあった。真久貝君とだって別れてからいなくなれば、こんなに心配になることもなかった。花は、言葉が足りない」
心配、その言葉が凍った心に投げかけられて、揺らすことも受け止められることもなく地に落ちた。
その考え方も、一応は私の中にもあった。
けれど、それを選べば面倒な事態は目に見えていて、だから私は彼らの心情に配慮することなく、私がいちばん楽だと思う選択をした。
もう二度と、会うことはないと思っていたから。
その甘い考えが裏切られた今、私はやはり面倒事に対峙している。
「では、今申し上げます。今後、やむおえない事情がない限り、私はあなた方と付き合いを持つことはありません。それから、真久貝さんとは関係を終えます、とお手数ですがお伝え下さい。では、失礼します」
かろうじて作り物の笑みを口元にのせて、さっさとずらかろうと踵を返す。
「花っ、まっ・・と・・・から、・・・しく」
耳に入っては抜けていく音を無視して足を動かす。流石に凪子も個人的な話だと判断して私を無理矢理物陰に引っ張ったので、好奇の目を向けてくる者は居ないだろう。
切り捨てたはずのモノが眼前に突きつけられて、どこか覚悟していたはずのことなのに疲れてしまった。
救いは、これから何も仕事が入っていないことだ。報告して、帰宅して終わり。
「花っ!!」
少し前に牧崎の浮気騒動(結局は勘違いだった)で一番の修羅場中に牧崎に対して出した声で呼ばれる。感情的になるほど声が低くなる凪子のこの声は、無視してはいけない類いのものである。声とともにがっちりと掴まれた手首。
幸い、すでに屋外に居る。
凪子は仕事中のはずである。
クビになるのではないか、と凪子の行動力を甘く見た自分を反省しつつ、
「まだ何か?」
足を止めて、用件を伺った。
抵抗しようと思うより、面倒だと思うほうが先に立った。
諦めて凪子の好きにさせると、とりあえず私の仕事が終わるのを待つという。
監視人のように私のピッタリそばを離れずに歩いて、仕事場の中にまで押し掛けることはなかったが、入り口で逃すものか、とガラス製の扉越しに待っている。
「ということですので、模試の傾向としては英語は例年並み、数学と国語は少し範囲を広く深く出題するようです」
塾長と今回の模試の担当者の前で説明を終えると、
「分かりました。他の先生方への資料の配布と説明はこちらで行います。急なお話で申し訳ありませんでしたが、引き受けていただいてありがとうございます」
「いえ。お役に立てましたなら幸いです」
「もう半分ほど消費させてしまいましたが、午後からは十分に体を休めて下さい」
「恐れ入ります」
これからまだひと仕事あるんです。とは、言えるはずもない。むしろ、このあとも仕事を言いつけられたほうが私の安寧のためにはいいような気がする。
凪子の居る場所に向かう途中の廊下にある自動販売機コーナーで、午後からの授業を受け持つ講師の1人が出勤しているところに出くわした。こちらから事務的に挨拶をすると驚いたような顔をされる。
「久萪先生、来てたんですね。いや、入り口のところで女の人がジーッとこの建物見てるから声をかけたんだけど、久萪先生を待ってるって言われて、先生は今日休みです、って返してしまったのは余計なお世話でした。幸い、今もその人待ってるみたいですから」
「いえ、出勤したばかりなんですから私に急に仕事が入ったのを知らないほうが当然ですし、これから帰宅するところです」
「でも、なおさら表側の通路で会えて良かった。久萪先生いつも裏口使ってますし、今日もそうだったら、外で待っている人とは完全にすれ違ってましたね」
「そうですね。では、お先に失礼させていただきます」
このまま、凪子を無視して逃げることも道中で選択肢に入れていたのだが、そうすれば凪子は私を見つけるまでこの職場を張るだろう。もしかしたら、中にまで突撃してくるかもしれない。それを回避するには何の連絡もなしにここを辞めて、アパートを引き払うところまでを考えて、保守的な私はその考えを切り捨てていた。
同僚と別れてから建物の外へ出た瞬間に、迫ってきた凪子に腕をとられて、今住んでいる場所へ連れて行け、と要求される。
本日何度目かの溜息を吐いて、現在の住処へと向かうために凪子が引っ張っているのとは真逆の方向へと足を向けた。