第六話
依願退職という辞め方だったのが幸いして、再就職先は思っていたよりも早く見つかった。これが懲戒免職だったら教師と言う経歴を活かせる職種には就けなかっただろう。
新しい職場で仕事を始めて、3ヶ月が経った。職場での人間関係も構築され、仕事も生活も十分に新しいものに順応した。
進学を目指してがつがつ勉強するのではなく、自分の基礎を固めることを理念としている個人経営の塾の講師として小学生から高校生、果ては社会人まで、と幅広く見ている。
私は数学を主に担当しているが、英語と国語の免状も取得しているので使い勝手は良いと思われているようだ。
自分ひとりのお腹を満たせばいいので、就業条件にさほどこだわりもしなかったのも就職先が早く見つかった理由の一つだろう。非常勤ではあるが、元の職場の影響で正社員並みのかなりいい条件をつけてもらえた。
1コマ60分で講師の時給は小学生担当が1800円。中学生担当が2000円。高校生担当が2500円。社会人が2800円。塾生は全体で90〜100人。
個人経営にしては塾生が多いが、塾生の月々の費用は8000円〜3万円である。相場から見てさほど高いわけでもない。
平日は、夕方4時30分から小学生は夜8時まで。中学生は夜9時。高校生は夜11時。
この塾では平日の昼間も不登校の生徒やちょっと勉強をしたい、という社会人向けの(多くが主婦だったり、退職した方だったり)授業も行われている。
社会人向けは英語の需要が多いが、数学や国語、理科や公民といった授業も開かれている。休日は朝9時から夜11時までみっちり小中高向けの授業が入っている。
他の先生との兼ね合いもありながら、一週間のうち月水木土日の昼間を2コマずつ。月金土日の夜を3コマずつ。
基本は高校生の数学を受け持っているが、英語や国語も数コマ担当しているし、他の先生の休日の埋め合わせとしてちょくちょく呼び出されたりして、一ヶ月に手取りは25万ほどだろうか。
元の職場が手取り40万を超えていたのを考えると激減しているが、以前の職場が好条件すぎたのだ。
その分、古巣では部活の顧問、大学の進学率会議、生徒指導に担任として成績作成のためのデータ処理など授業以外の煩雑な仕事は多かった。
数学教師だから数字には強いだろうとばかりにデータ処理を任せられたことは幾度もあり、明後日の進路会議に使う、と3年生全員の書類作成を任された時は2日間徹夜で完成させた。
それを考えると、今の仕事はガツガツと進学を目指している塾生が多いわけでもなく、自分自身がゆとりを持って授業が出来ている。
そんな新しい生活に物足りなさを感じるほどの情熱は、端から持ち合わせていない。
大学時代から築いてきた全ての関係を断ち切って始めた生活は、自分の高校生以前の日々のように冷めきった諦観と飢えは無く、かといって大学から以前の職場までのように行動力と情熱に気圧されそうになることも無い。
ぬるま湯。
それが、一番近い表現だろう。平凡で、どこか退屈と表裏一体となりがちなそれは、私にとって初めての、穏やかでゆとりと余裕がある日常だった。
「ああ、久萪先生。すみません、休日に急に呼び出してしまって」
「気になさらないで下さい。予定も無い気軽な独り身ですし、以前の職場の忙しさを考えると時間には余裕があるんです」
「おや、そうなんですか?確かに、あそこは多方面に力をいれていると耳にしますから、先生方の忙しさも並ではないのでしょうね」
さらりと穏やかに言葉を交わし合う相手は塾長である。
ゆっくりと杖をつきながら左足を少し引きずるようにやって来た塾長にこちらから近寄る。
今でも張りのある声と確かな知性を持つ塾長は不自由な足を理由にすでに現役を退き、臨時以外に教鞭をとることはないが、荒れた時代に荒れた公立高校で教師を勤めていて生徒同士の乱闘を止めようとした際に左足に大怪我を負った、という経歴を持っていると他の講師から耳にした。
塾長本人は、『いえ、若い頃に少々ヘマをしてしまって。お恥ずかしい』とあまり公言していない。
穏やかな顔つきを崩さずに、塾長は本題に入った。
「それで、久萪先生をお呼び立てした用件なのですが、そろそろ夏期講習に関する研修が始まりますので、先生にも徐々に参加していただこうかと」
意外な話である。
そういった研修が開かれるのは知っているが、派遣されるのは大抵が塾の常勤講師だったからだ。高校生の物理や化学など非常勤講師しかいない場合にしか非常勤の者が派遣されることはないはずである。
「私が、ですか?」
「ええ。今日の大手予備校で開かれる一般研修に全国模試の説明の意味もありまして、うちの塾からも1人派遣する予定だったのですが、暑気あたりで体調を崩してしまったと今朝、連絡があったんです。代役を考えたとき、本日の授業を受け持っておらず、元々そういった経験を積んでいただきたいと考えていた先生にお願いしようと思いまして」
「分かりました。研修が開かれる会場はどこでしょうか?」
「ありがとうございます。研修場所は」
凪子が働いている系列の予備校だった。彼女の職場それ自体ではないが、少しだけ面倒な予感がする。
私の予感なんて留学時代の一応の三角関係で一度たりとも発揮されなかったポンコツだと証明されているが、凪子の守備範囲に行き、彼女との遭遇確率が上がるのは数学教師でなくとも分かる。
だがもう今更、断ることなんて出来はしない。
久々の緊張感からの胸の高まりに、塾長には気づかれないよう、そっと憂鬱の溜息を吐いた。