第二話
『・・・凪子、席交換してくれない?』
『別に、構わないけど。いいの?あんたの隣の席、かなりの有名人が座ってるよ?』
『そうみたいね。でも、私の中で、この席順で、隣に来た瞬間にアウト』
『ほんとに、顔が良くても駄目なんだ』
『めんどくさい体質だってことは認めるわ』
大学の同じ学部でも、少数派だった同じ数学科の仲良くなった女学生と席を交換する。凪子は私と同じ黒に近い焦げ茶色の髪と瞳、つまり純日本人の容姿をしていた。
4人掛けの長い机と椅子。教育心理学は講座をとる学生が多いらしく、大ホールが使われる。
私と凪子は真ん中から左に2つずれたところの右から6列目の席に、左の通路から凪子、私の順で座っていた。スクリーンが大きいので、近すぎると見えないし、講師の演壇も左にあるからだ。
そこに、右の通路から見知らぬ男子学生が2人座った。私の隣が青い髪。そのまた隣は染めたような茶髪だった。どうして茶髪が先にこないのか。茶髪であればまだ耐えたのに。そう思いながら凪子と席を交換する。
『あまり、気を悪くしないでね。この子、閉所恐怖症の気があって。なのに通路側は嫌い。端に行ったら行ったで講義を受けた気になれないってワガママ言うの』
凪子がお隣さんになった青髪にいうと、
『そうなんだ。気に触ることをしてしまったのかな、って思ってたんだけど』
『誰に対してもこうだから、本当にあまり気にしないでね』
どうして、私のフォローなんてしてくれるんだろう。私は構わないけど、凪子は空気を気にする質なのかもしれない。
『凪子は世渡り上手の気配りさんだね』
流れをいっさい無視してマイペースに凪子を評す。凪子は青髪の男に笑っていた顔を私に向けると、般若になっていた。
感じの悪い態度をとれば、感じの悪い態度が返ってくる。それを納得して受け入れて早十数年。しっぺ返しは何度もくらった。それでもいい、と頑なに私は変わらなかった。
相手を不愉快にさせる分、私も不愉快になることを受け入れる。それはとても生きにくい世界である反面、自覚のある私にとってはとても楽だったのだ。
『あんたが無神経なの。私は気配りなわけでなく相対的にあんたが感じ悪いの。“隣にきた時点でアウト”とか、初対面の人間の前で平然と口にできるあんたが間違ってる!』
『私にとって事実だよ』
『あんたの常識を持ち出さない!』
『なら、どうやって席の交換を持ち出すのが一般的なの?』
『“ちょっと飲み物買ってくるから”とか“ごめん、狭いのムリ。席かわって”とか遠回しか理由含めてとか』
『凪子、頭いいね』
『褒められても嬉しくないわよ。こんな処世術』
『だったら、知恵が働く?』
『悪知恵働かせてるみたいでイヤ』
ふはっ、とそんなに大きくはない声でしていたやりとりが聞こえていたらしい周辺の席で抑えられなかった笑いがいくつも漏れた。青髪と茶髪以外にもだ。よく見ると右だけでなく左や前後の席にいた学生が肩を震わせて笑いを噛み殺していた。
凪子は顔を赤くして、ヤケクソに、
『お昼はあんたに驕ってもらう!』
『貧乏学生に無茶言わないで。100円の素うどんしか認めないわ』
『・・・そんなメニュー、あった?素うどんって156円じゃなかったっけ?』
『6月頃、人がひけた頃に学食に行って、学食の人と話したらうどん定食のミニサイズの器使って100円にしてあげるって。人が多い時には無理だけど。だから、驕るのは2時半くらいになるかな』
あれは幸運だった。学食の人達は黒髪や染めた茶色が多かったし、気のいい方々ばかりだった。ついつい話が弾んだついでに貧乏学生のジリ貧生活で同情を引き、ささやかな譲歩を引き出したのだ。
そう回顧しているうちに凪子の顔が微妙な、笑おうと思って失敗したので真顔になろうとしたのにやっぱり失敗を引きずっているような、つまり引きつった顔で、
『いつもその時間に、それ食べてるの?』
『うん』
『・・・今日のお昼、私が驕るわ』
『いいの!?わぁ、うれしい。日替わり食べてもいい?』
『デザートもいくつか選びなさい。あんたを太らせてやる。こんなに細っこい腕しやがって』
『ごちそうになります』
呆れるとべらんめい口調がほんのりと混じる凪子は私の手をとって、その細さを哀れむかのように二ギュニギュとした。
『その昼、俺らも混ざっていいかな?』
青髪の男が笑いを噛み殺して申し出た内容に、私は間髪を入れず、
『なんで?』
『あんたはちょっと黙ってなさい。日替わり食べたかったらね』
『はい』
ただ飯大事。ご飯重要。お昼まであと2時間。
『いや、2人のやりとり面白くって知り合いから始めたいな、と』
青髪は綺麗な笑みを浮かべて言った。それに呼応するように茶髪が、
『そうそう。あ、自己紹介まだだった。俺は牧崎 寛司。法学部。それで、こっちが・・・』
『真久貝 浩介。経済学部』
自己紹介をする流れになり、凪子がまず、
『御噂はかねがね。あなた方と同じく内部生の仁科 凪子です。教育学部。でもってこっちの子が・・・ちょっと、自分で自己紹介くらいなさい』
凪子に言われて、こっそり深呼吸すると、
『・・・久萪 立花です。彼女と同じ教育学部で、外部生です』
渋々の感を滲ませながら、無愛想に、できるだけ素っ気なく。なのに、青髪は笑った。至極楽しそうに。
『これからよろしく』
『・・・・・・』
差し出された手は何だ?握手したいってか?誰がやるか。と思っていたら、凪子がニギュニギュしていた私の手を勝手に青髪に掴ませた。
『よろしく。・・・本当に、細い』
とりなおしての言葉とともにぽつりと呟かれた感想は、得体の知れない人間に触れられていることを実感して、ある種の嫌悪感も感じたが、凪子の顔を見る限り振り払うわけにもいかないだろう。多分、それをしたらお昼はない。
『俺も俺も』
そう言って、茶髪から差し出された手には、この流れではしかたがないと自分から手を差し出し挨拶の最低限の礼儀として笑顔もつけておいた。
講義が終わって、なし崩し的に昼食を共にすることになった。
『日替わりって、いざ目の前にすると中々に量が多いね』
最初の感動は薄れ、閉口気味にぽつりと漏らすと、
『どこが!?言っとくけどこれ適量!体育会系の私の兄なら日替わり2つ食べたあと、物足りなくてカレー大盛りを食べたって話よ』
半分も減っていない定食に四苦八苦する自分を尻目に、凪子も青髪も茶髪も軽快に箸を動かしている。一応選んだ(というより凪子が取り分けた)デザート類に冷菓などはないのでその意味では大丈夫なのだが、如何せん待たせてしまうとしたら少々申し訳ない。凪子にも、男達にも。
『それは凄い。私、そのお兄さんの食べた量で4日は過ごせそう』
なかなか減らない五目ご飯にもほうれん草のおひたしにも、最大の敵である豚の角煮にも(ご飯を敵だと思う時点でもう色々、駄目な感じだが)内心半泣きになる。唯一器を空けたのは熱いうちに飲むべし、と一番に口をつけた柚子風味のすまし汁だ。
『昼食はって意味よね?』
『いや、丸4日。朝昼晩含め』
『・・・三食きちんと摂ってるって聞いたから、いままでおかしいと思っても聞いてこなかったこと聞いてもいい?』
『どうぞ』
茶髪はもう食べ終えていた。青髪はあと数口だ。食べるペースは出来るだけ私に合わせてくれていたようだが、それでも限界があった。
『毎食、何をどれくらい食べてるの?』
『朝はお汁を一杯。お昼はうどん。夜は雑炊野菜入りをお茶碗一杯』
『あんた、絶対に胃が縮んでる!!この日替わりが入らないって摂食障害寸前だから!!』
『ごめんね、日替わり食べたいなんて身の丈に合わないこと言って』
『合わせろ!そこは根性でっ』
いや、本当にきつい。これ全部食べると吐きそうだ。そう凪子の言葉を聞き流しながら、途方に暮れつつ機械的に箸を動かす。デザートは無理だろうな、とそっと溜息を吐いたときだった。
私の口数が減り、気を遣って窺うように口を閉ざしていた男達の片方、青髪の男がデザートが載った皿を目の前に差し出し、もう片方の茶髪の男がささっと食べかけのお膳を自分達のほうへ引き寄せた。
『無理して食べても美味しくないよ。食事は楽しまないと。無理はしないように食べて、残すのが嫌なら俺たちが片付けるし』
『・・・ありがとう、ございます』
正直、青なんてけったいな色した髪の人間のくせに一丁前にまともなことをいう、と思わないでも無かったが純然たる厚意であり、私が調子に乗った尻拭いをさせられるのだ。昼食を一緒に摂ろうと言ってきたのはあちらだが、申し訳ない、と心から思った。
もしかしたら、あまりに遅い食事速度に苛々していたのかもしれないが。
『敬語はやめて。同じ学年なんだし。無理せず、これから少しずつでも食べられるようにしよう』
とりあえず、全品一口でも制覇、と言われてデザート1つにつき一口ずつちまちまと口にする端から青髪と茶髪で片付けてくれる。
最後の一つを口にしたあと、青髪が最後のデザートを引き取ってパクパクパク、と3口で食べた。
『完食ー!!』
イエーイ、と茶髪が目の前にいた凪子、隣にいた青髪、一番遠い私の順番にハイタッチを求めて全員が苦笑しながら応じる。正確に言えば、若干一名は無表情だったかもしれない。
『お世話になりました。ありがとうございました』
『敬語はやめて、本当に気にしないで。明日は外にでも食べにいく?小鉢で色々出してくれるお店が近くにあるしね』
『・・・はい?』
『リハビリしようね。普通に食べられるようになるために』
青髪はニッコリと笑って、その日から私の食事指導を買って出るようになった。
凪子を見ても自業自得だむしろありがたいと思え、という顔をして何も言わない。茶髪を見てもへらっと笑うだけ。逃げ込む先は、なかった。
青髪の食事指導という名の食べ歩きツアーはスパルタではなかった。
ゆっくり、焦らずに、いろんなご飯を驕ってもらい、食事量を増やしていく。
そして悔しいことに青髪の選んだ店が出す料理はどれだろうと美味しかった。奴の味覚嗜好は私と似ていたらしい。
そして、
『立花、一人前大丈夫?』
『平気。1人で食べきれる』
リベンジの日替わりを1人で食べきった日の夜、私と真久貝、凪子と牧崎で祝杯をあげた。
『本当にありがとう。でも、なんで真久貝は私の食事指導なんて買って出たの?』
『・・・・・・』
『ぶはっ』
牧崎が吹き出して、真久貝が睨みつけるも、吹き出した口は裏話を語った。
『浩介は昔、餓死寸前の真っ黒い野良猫拾ったことがあってさ、なかなかエサを食べようとしない猫をつきっきりで面倒みて、普通の猫並みに回復させたんだ。拾ったときにもう年とってた猫だったから浩介が中学の時にその猫は寿命で死んじゃったんだけどね。花ちゃんの細さとその猫の拾った当初を重ねたかなって思ってるんだけど、そこんとこどうなの?浩介』
捨て猫、か。あながち外れでもないな。
不快に思うでもなく、私は冷静に納得した。
『・・・重ねなかったとは言わないけど、純粋に立花のことは立花として好きだよ』
珍しくほんのりと頬を赤く染めて言われた言葉に、
『そう。私も、真久貝のこと好きだよ。多分、一番に。こんなに他人に好意を持てること、これから先ないと思うくらいに』
そう、無いだろう。私にとって常識はずれの色を持つ人間とこうして平然と話し、好意を持つことなんてこれから先には多分無い。
慣れる、という意味では真久貝はとてもいい人間だった。
例え理解できない色をしていても人間なのだ。
私と同じ、感情を持ち、味覚を持ち、体を持つ、同じ人間。理解できないままだけど、理解し合える部分だってきちんとある。
真久貝がいなければ、私はその事実すら無視し続けただろう。異質な存在として彼らを本質的には見ないふりをして、異質な存在として私が浮いていくことを許容し続けただろう。
それで、自分が守れるならば。
でも、私は自分を守ることにさえ注意してこなかった。それを諭され続け、どんな経緯があろうと手を差し伸べてくれたのは無視していこうとした存在の1人である真久貝だ。
今となっては感謝してもしたりない。私の世界の恩人である。