雨の音、銃の音、自由の音
近くて遠い未来、惑星の環境悪化に伴い、人類はドーム型の汚染防護都市『アンブレラ』へ移住した。
『アンブレラ』で生まれた僕は太陽を知らない、空を知らない、土を知らない、川を知らない、海を知らない。知っているのはドームの内側にある無菌室のようなの白い町並みと、日光を一度も浴びたことのない人達の、病室のシーツみたいな白い肌だけだ。
『バタ!』
何か巨大なものが倒れるような轟音と地響きがした。僕の部屋が真っ暗になる。突然の停電。僕は窓の外を見た。窓から見える白い町は黒い闇に呑まれていた。停電は僕の家だけじゃない。何かがきっかけで都市電源そのものが落ちてしまったんだ、きっと。
『バタバタバタバタ……』
暗闇の中で雨の音がはっきりと聞こえた。『アンブレラ』の外は常に嵐だという。猛毒の雨がドームの外壁を激しく叩く音。おかしいな、何層もの防護壁に守られた『アンブレラ』の内側でどうして外の雨音なんて聞こえるんだろう。
『バタバタバタバタ……』
呼んでるんだ、と、僕はふとそう思った。
呼んでる。呼んでる。呼んでる……。この一つの言葉が僕の頭の中で繰り返される。奇妙な焦燥感が強まる。居ても立ってもいられなくなった僕は机の引き出しからヴァーチャル・ウォーゲームに使う拳銃を取り出した。普段は空砲にしているけれど、今日は違う。僕はレンコンの切り口みたいな弾倉に実弾を込めた。
部屋を出ると懐中電灯を手にした母さんと父さんに出くわした。懐中電灯の白い光が僕の顔を打ち、一瞬、僕は何も見えなくなった。僕はほとんど反射的に持っていた銃の引き金を引いた。
頭に血の花びらを散らせて母さんは床に倒れた。母さんは動かない。
言葉がおそらくこの場を収拾する唯一の手段だろうと僕は考えていた。ちゃんと話せばきっと父さんはわかってくれると、そう信じていた。
――だから、口を開くより先に父さんが僕に向かって飛び掛ってきた時、裏切られたような気持ちとともに強い怒りが込み上げてきた。
なんでいつも父さんは僕の話を聞かないんだよ!
僕は父さんの大きな身体に向かって二度、引き金を引いた。どっと床に倒れた父さんの身体に何の躊躇もなく、更に二発の銃弾を撃ち込んだ。計四発。銃弾を喰らって床でのたうち回っている父さんを見ていて何かに似ているな、と思った。そうだ、人口池で釣り上げた魚だ、地べたでぴちぴち跳ねている様がそっくりじゃないか。
ざまあみろ、という気持ちは苦しそうに痙攣する父さんの姿を見ているうちに薄らいでいった。父さんの頭に一発、銃弾を撃ち込んで、それで辺りは静かになった。母さんに比べれば、父さんは少し嫌いだったような気がする。僕の話は聞かないし、気難しいし、説教ばかりするし。……でも殺す程じゃなかったはずだ。
僕はいつの間にか涙を流していた。こんなはずじゃなかったのに。僕達家族はそこそこ仲良く、楽しく、幸せに暮らしてきたはずなのに。それでよかったはずなのに。どうしてこんなことになったのだろう。
僕は家の屋上に出た。雨の音に混じって、獣性剥き出しの銃声と獣声が聞こえた。町の至る場所で殺し合いが起こっていた。
『アンブレラ』が提供する何不自由ない生活に僕も他の人達もおおむね満足していたはずなのに、なんで暴動なんて起こっているんだ?
――でも、と僕は思う。例え楽園であったとしても、柵があって、外に出られなければそこは牢獄と変わらないんじゃないかって思う。どんなに美味しいものを毎日食べられたとしても、ベッドにくくりつけられて無理やり口に入れられたりしていたら、それはもう拷問と同じじゃないかって思う。
外の雨音を聞いた家畜達は畜舎から出ようと必死だ。自由を忘れて久しい家畜達ではあるけれど、柵の壊し方は本能が知っている。
雨音は自由への道しるべ、銃声は自由を叫ぶ人々の声……。
少しも止む気配のない獣声と銃声に僕は少し疲れてしまった。僕は床にうずくまり、そして目を閉じる。目を閉じていても開けていても闇は変わらずそこにあった。少しの間、僕は眠っているのか起きているのか、生きているのか死んでいるのか、よくわからない曖昧な時間を過ごした。再び顔を上げ、目を開けた時、銃声は止んでいた。
『バタバタバタバタ……』
雨音だけが聞こえる。
屋上から降りると生臭い、魚みたいな臭いがした。……血の臭いだ。その血の臭いに混じって、薄っすらと別の臭いがする。なんだろう、嗅いだことのない臭いだ。
僕はその臭いを追った。臭いが強まるにつれて、都市冷房の無機質な風とは違う、湿った風が僕の鼻先を触れるようになった。
少しして僕は湿った風が外から来るものだということ気がついた。外の、雨と風と土の臭い。
外に出よう、と僕は思った。
僕はミネラルウォーターの入ったペットボトルに度々、口をつけつつ、銃を片手に、地図もなく、ただひたすら雨音と外の臭いを頼りに暗闇を歩き続けた。疲れた。汗が出た。ついでに涙と鼻水も出てきた。こんなにぐちゃぐちゃになるのは生まれて初めてだった。でも気分は悪くなかった。
僕の人生は、汗とは無縁の学校生活とヴァーチャル・ウォーゲームで占められていた。今さらだけれど、僕は自分の人生の薄っぺらさに驚き、そして声を出して笑った。はは、ははは、はははは。
どれだけ歩いただろう。目はもうすでに暗闇に慣れてしまっていた。よくよく見ると道路は死体で埋め尽くされていた。暗闇の中で死体の白い皮膚が薄く光って見える。みんな、手に銃を持っていた。みんな、考えることは同じなんだ。
顔を上げると遠くの方に金庫の扉みたいな、巨大な円形の鉄の扉があった。あれが出口だ、そうだ、そうに違いない。
僕は扉に向かって走った。僕はもう、遠くの扉しか見えていなかった。
そんな僕の前に突然、白い影が横切った。僕は反応できずにその白い影とぶつかってしまった。
女の子だ。わき腹を手で押さえている。女の子の下半身は血で真っ赤だ。わき腹を銃で撃たれたのだ。僕の手にはまだ弾丸が装填された銃がある。僕は構えた。
「外へ出たい」
女の子はそう小さく呻いていた。僕は銃を下ろした。僕も同じ気持ちだったからだ。僕は『同士』に肩を貸してやった。出口はもうすぐだ。
扉の前にたどり着くと、その扉が少しだけ開いていた。扉の隙間から風と雨の音が聞こえる。
「やった、外だ。なあ、おいって」
僕は女の子に声をかけてみた。無反応。いつの間にか女の子の手はわき腹から離れていた。女の子はもう息絶えていた。僕は女の子の身体を投げ出し、円形鉄扉の隙間に身体を滑り込ませた。
『バタバタバタバタ……』
外へ出た途端、僕の身体を凄まじい雨風が襲った。僕は最初、息ができなかった。
ドームの出口はプールの飛び込み台みたいに、道半ばで途切れ、地面は遠く彼方にあった。高層ビルの最上階から下を眺めているような気分。
生まれて初めて出た『外』。どこまでも続く大地。泥水がもの凄い勢いで地面を走っている。空の黒雲は渦巻き、雷が猛っていた。怒っている! 目に付くもの全てが怒っている! こんな凄まじいものを見るのは生まれて初めてだ。
この時、ひときわ強い風が僕の背中を押した。僕は道の突端でバランスを崩し、そして宙に投げ出された。
長いようで短い自由落下の後で僕の身体は地面に激突した。僕の身体はぬかるんだ大地にめり込み、そしてそのまま泥流によってどこかへ運ばれていく。
全身を強く打った上に、毒の雨にさらされた僕の体は死につつあった。僕は全身にひどい、死の痛みを感じてはいたけれど、でもそれがとても新鮮で、僕はなくしていたものを取り戻せたみたいで嬉しかった。人工の都市で生まれた僕だったけれど、死ぬ時はちゃんと母なる大地に還れそうだ。そう思うと僕は全てから解放されたような、自由な気持ちになった。
……もう雨の音も銃の音も聞こえない。