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黒騎士が自宅で目覚めたときには、陽が沈む一方の時間帯になってしまっていた。時計を見たら、午後四時――あまりに遅すぎる起床だ。
既に予備校は始まってしまっている。というか、あと一時間くらいで終わる。この時間ともなると、最早行く気も起こらなかった。あまりに欠席と遅刻を繰り返しているので、講師から大目玉を頂くことが目に見えているから。
もう、後がないと思え。
お前は、いつになったら合格できるんだ。
いい加減、真面目にやれ。
そんな台詞は聞き飽きていた。何度同じことを言うつもりだろう。
眠い眼をこすりながら、キッチンの棚に置かれたカップ麺を取り出した。ポットに水を入れて電源を入れる。
流しには、洗っていない皿がたまっていたが、黒騎士はおかまいなしだ。ここのキッチンはとにかく汚い。カップ麺の容器がいくつも転がっているわ、酒ビンが散乱しているわ、捨てていない生ゴミがたまっているわで、不衛生極まりない状態だ。
沸いた湯を注いで居間に戻り、すぐ三分が経過して麺をすすりながら、そろそろ食料が尽きかけていたなと思いつつ、財布の中身を確認してみた。
……札がねぇ。
入っていたのは百円や十円硬貨ばかりで、ぱっと見でも千円もないことが分かる。黒騎士は頭をぽりぽり掻いた。
今月、アイテム買い過ぎたかな……。
新しく出たアイテムは性能が良いものが多かっただけに、ついつい生活費の多くを貢いでしまった。運営の手口にまんまと嵌められたと毒づくも、後悔先に立たず。ネットはボタンひとつで買い物ができるため、金銭感覚が狂いやすくなるのだ。
電話を手に取り、なるべくかけたくない番号をコールした。二、三度の待受音の後、相手は電話に出た。
「あ、母さん? 今月ちょっと厳しいんだけど、金振り込んどいてくれない?」
と黒騎士が遠慮気味に言ったら、電話から、
『ちょっとあんた今、何してるの!!』
という怒声が聞こえてきた。思わず受話器から耳を離してしまう。こうなることは端から予想していたらしく、元々ある程度離していたのだが、それでも鼓膜が痛くなるくらいの大声量だった。
『こっちから電話しても全然出ないくせに、こんな時だけ連絡してきて! 予備校の先生からも連絡あったんだけど、ほとんど授業出てないらしいわね! いい加減にしなさいよ! 授業料だって、安くないんだから!』
電話の相手――黒騎士の母は烈火の如く怒っている。
黒騎士はシュンとなって「ウン……」と申し訳なさそうに言った。
『今月分は十分入れたでしょう! 一体お金を何に使ってるの!?』
「いや、あの、そのぉ……授業で使うテキストとかが高くて……」
『授業出てないくせに、そんなの買ってる訳ないじゃない!』
黒騎士はひたすら「ごめん、ごめん」と言った。こうなった母の前には何を言っても無駄で、ひたすら謝るしか道は残されていない。一度ごめんと言うたびに、自分が段々と惨めになっていくような気がした。
『全く、今回だけだからね! もうそろそろちゃんと、遊んでばっかいないで将来のこと考えなさい!』
そう言い放った後、電話はブツリと切れた。
――ごめんな、母さん。
大きく一度、ため息をついた。今のやりとりで、すっかり買出しに行く気力が失せてしまった。
黒騎士は居間に移動する。ようやくやる気を出して参考書でも開くのかと思いきや、パソコンの電源を入れた。
落ち込んだときは、ゲームに限る。そうして黒騎士は、毎度朝までゲームに浸るのだった。
嫌なことがある→朝までゲームする→昼まで寝てて予備校行かない→先生や母に怒られる→最初に戻る……という負のサイクルは既に完成していて、今日も今日とて黒騎士は、無意識のうちにその中へ巻き込まれるのだった。
バーチャル・リアリティーとは、よく言ったものだ。四角い箱の中には、楽しい別のセカイがある。ログインしてフィールドに出てしまえば嫌なことを忘れ、遊惰な一時を過ごすことができるのだ。
それが正真正銘の現実でないことは、黒騎士も十分心得ているのだが、中毒入ってるなと思いつつも止められない。ゲームをしているときの夢のような別世界の感覚は、いや、実質夢なのだろう、偽りの現実はゲームを終えると同時に霞となって消えてしまい、空虚な穴を胸にぽっかり空ける。それへの恐怖感が、さらにいつまでも、仮想の世界にいたいと思わせる。
俺にとっては、こっちが現実なんだよ。
ネトゲにログインし、今日も古戦場へ赴いた。
今日は普通に、モンスターを倒してスカッとしたい気分だったので、独りで行こうと転送装置に近寄った。しかし、横から誰かに「こんにちは」と声をかけられてしまった。
黒騎士は舌打ちする。このゲームは声をかけられると自動的に一旦立ち止まるシステムだ。それを利用して、黒騎士は誰かに話しかけ身動きを取れなくし、嫌がらせをするのが大好きなのだが、鬱陶しいと思えることも度々ある。レベルが無駄に高いだけあって、同行を求められることは日常茶飯事なのだ。
〝今日は独りで狩りたい気分だから、別のやつと行け〟
むこうの言葉を先読みして、黒騎士はあらかじめキーを打っておいた。後はエンターキーを押すだけで、相手を突っぱねることができる。
「昨日の今日ですね、黒騎士さん」
『こんにちは』は、聞き覚えのあるアニメ声だった。
げげっ、お前は昨日の!
目の前に立っていたのは、魔法少女こと☆莉子☆だった。
早くしないと、また長々と話されてしまう。念を押して「!!」を最後尾につける。焦りながら、全力でエンターキーを押した。
「今日は独りで狩りたい気分だから、別のやつと行け!!」
「あ、違うんです。今日は一緒に来て欲しいってわけじゃなくって」
だから長話したいんだろっ!!
黒騎士はコントローラーのスティックを闇雲にガチャガチャした。
「昨日は私の話を聞いても下さって、ありがとうございます! でも昨日は私ばっかりが話しちゃったので、今日は私が黒騎士さんのこと訊こうと思って!」
お前に話すことなんかねぇよ!!
と、キーを速打しかけたとき、ふと思いがけないことが、脳裏に浮かんだ。
――愚痴、聞いてもらおうかな。
と考えたところで、黒騎士は思い留まった。
相手は中学生だぞ? ずっと年上の俺がそんな……。
決心できずに狼狽えていたら、先に☆莉子☆が言った。
「黒騎士さんって、大学生なんですよね。大学生って、どんな感じなんですか? すっごく興味あります」
大学生って、まだ合格ってないんだけど。
などと困惑していたら、ふと思い当たる節があった。
実は黒騎士、自分のプロフィール欄の職業(現実での職業・誰でも自由に閲覧可能)に『大学生』と嘘を入れていたのである。虚しいと思いつつも、自分を偽ってしまったのだ。☆莉子☆は、それを見て、大学生だと思い込んでいるに違いない。
やべぇ、大学生活って、どんなだよ……!
『大学生ってのは嘘です。三浪してます』などとは格好悪くてさすがに言えない。黒騎士は必死に回答を考えた。
「合コンとかしたり、飲んで遊んでの毎日かな」
それっぽいことを適当に言う。合コンなんて、黒騎士は生まれてこの方、一度もしたことがない。大学生がそんな感じだと、どこかで聞いたことはあるのだが。
「へぇー、楽しそうですね! お酒飲めるってだけで、何か大人って感じがします!」
大人って……。まあ、一応大人だし?
目の前の☆莉子☆は、感心したような返事を返してきたので、黒騎士は少なからず良い気分になった。
「ちなみに、大学はN大学」
調子に乗った黒騎士は、ありもしないこと――自分が住んでいる県の難関大学に受かっていることをでっち上げた。
「え、ええぇー!! N大学って、本当ですか! 黒騎士さん、そんな凄い人だったんですね……」
おーおー、素直に驚いてやがる。
N大学とは、黒騎士が住んでいる県で最も難関とされる大学だ。黒騎士は☆莉子☆の反応で、さらに気分を良くした。
が――。
「学部はどこですか? 先生って、どんな人がいるんです? 確か、ノーベル物理学賞受賞者の先生がいるとか、聞いたことありますね。あ、大学ですから、先生じゃなくって教授って言うんですよね? 勉強とか、やっぱり難しいんですよね。でも黒騎士さんって頭良さそうですから、試験なんてちょちょいのちょいですよね! あ、N大学といえば、学生が美味しいカレーを発明しから、それが企業に採用されてスーパーとかでも売ってるって聞いたんですけど、本当ですか? 頭の良い人達は、色んな所に才能を発揮するんですねー! そういえば今思ったんですけど、私達って住んでる県同じじゃありません? もしかしたらN大学に行ったら、黒騎士さんに会えるかも! 私、近くなんですよ!」
ギクギクギクッ!! と黒騎士の心臓が連続で跳ねた。
もちろん、N大学などには行ったことがないので、どんな所なのかはまるで知らない。レベルが違いすぎて受験する気も起こらないので、オープンキャンパスにも行ったことがなく、情報は全く持っていないのである。
それなのに、昨日のようなマシンガントーク(タイピングと言う方が適切・やたら「!」が多い)で質問攻めにされたものだから、もう、堪らない。挙句の果て、現実で会うことなども視野に入れている。黒騎士が適当に答えてネットで検索をかけている間に、☆莉子☆は「学部って、黒騎士さんがいる所の他に何があるんですか?」「入試の問題って、どんなのが出るんですか?」など、次々と答えられもしない質問を次々と浴びせてくる。
ひ、ヒィ――ッ!!
黒騎士は涙目になりながら、苦し紛れに言った。
「☆莉子☆ちゃん! 俺のことなんかどうでもいいからさ、もっと☆莉子☆ちゃんのことが聞きたいな!」
「えー。でもそんな、悪いですよ。私のことばっかり……」
「いいのいいの! さあ☆莉子☆ちゃん、話したいこといっぱいあるんじゃないか?」
「私の話、学校でも長くてウザいって言われてるんですけど。本当にいいんですか?」
「だからいいって! 何でも聞いてやるから! ほら、彼氏とかいるだろ? ノロケ話でも構わないし」
「彼氏なんていません!」
「じゃあ何でもいいから!」
「そこまで言うなら、じゃあ遠慮なく……」
☆莉子☆がそう言ったところで、黒騎士は助かった――と安堵した。なんとか話題を逸らすことに成功。かなり危なかったが、嘘がバレずに済んだ。
しかしこの後、黒騎士は激しく後悔することになる。☆莉子☆はこの後、今度は二時間みっちり、長々と話し続けたのだった。最後に☆莉子☆は「黒騎士さんといると楽しいです。また明日!」と言い残してログアウトした。