その三
「トオヤ・・・分かるか?」修史は小さく言った。今にも裏がえりそうな声。震え、怯え、弱々しい。
トオヤは真剣な面持ちでうなずいた。「分かってる。感じたんだな・・・俺たちは今、誰かに見張られてる・・・そうだな?」
修史はうなずいた。
「俺の後ろの方だと思う・・・見えるか?」
「いや」トオヤは修史の肩を透かして林の奥を探った。「分からない・・・何も見えない・・・けど何かがいる」
二人はその場を動かずに成り行きを待った。しんとした空間の中に冷たく重い空気が停滞している。風も吹かない林の中で自分たちは何に見張られているのだろうか、とそう思いながら、精神を研ぎ澄まして辺りに気を張りながら離れる術を考える。すると二人の耳に小さな音が聞こえた。
ギシ・・・ギシ・・・
それは林の中、地面に落ちた枝葉を何かが踏み締める、そんな音に二人には聞こえた。
ギシ・・・ギシ・・・
音はなおも二人の耳に入った。見えない何かの視線はいまだに感じ取ることが出来る。そして音は確実に聞こえる。修史は今にも気を失いそうだった。心臓が競り上がり、喉から飛び出してきてしまいそうだ。絶え間ない短い呼吸が唇から出たり入ったりして、自分の意思では制御できない。体中を実体のない手がなぞり、悪寒が電気信号となって体中を駆け巡った。
ギシ、ギシ、ギシ・・・
音は間隔を狭めて二人に近づいた。修史はもうどうしてよいのか分からなかった。そしてトオヤを見た。するとトオヤは冷静な面持ちで真っ直ぐを見据え、何やらぶつぶつと言っている。鼻腔を大きく開き、熱い息がそこから漏れている。修史は体を寄せてトオヤの言葉を聞いた。
「野良猫の尾の数、ぶれ動く太陽、落下点の輝き、狐目の男、東に上る守護者の魂、白鷺の信仰心、川のせせらぎ川の濁流、狐目の男、命あるものの末路、ぶれ動く太陽・・・」
修史は慌ててトオヤの腕を取った。修史はトオヤがおかしくなったと思ったのだ。彼は腕をきつく掴み上げた。するとトオヤは顔を歪めて腕を振り解いた。
「何をするんだ、急いでいるのに!」
修史は頭を振った。
「何って・・・早くここから離れないと・・・」
ギシ、ギシ、ギシ、ギシ・・・
「はっ・・・急いで、逃げないと」
「大丈夫だ!修史、大丈夫、お婆ちゃんに昔聞いた魔よけの呪文だ。どれもこれも、言葉一つ一つに意味がある。この中のどれかなんだ・・・狐目の男、東に上る守護者の魂、白鷺の信仰心、川のせせらぎ川の濁流、狐目の男、命あるものの末路、野良猫の尾の数、二つの角の向こう側、四門の精霊・・・どれだ?どれだ・・・」
ギシ、ギシ、ギシ、ギシ・・・
恐ろしい目が自分たちを見つめている光景が二人の脳裏に突如映りこんだ。二人は体を硬直させて顔を上げる。意思の感じない二つの目。白と黒だけで他に色はなく、血を感じず、爬虫類のそれのようにぎょろりと見つめてくる。
風が強く吹きだして林が俄かに騒ぎ始める。藁人形たちが騒ぎ出し、そのざわめきは彼らの自由への嘆きとも、打ち付けられたことへの憎しみとも取れる。
トオヤは平静を保ちながらも、もうすでに限界は近かった。思い通りに魔よけの呪文の言葉が出てこず、口は乾燥し始め、どろりとした粘性の汗が額に浮き出し始めた。トオヤは食いしばった。くそう、どうすることも出来ないのか?そんな馬鹿なことが・・・
「白鷺の信仰心だ・・・」不意に修史が言った。
驚いてトオヤが修史を見る。
「白鷺の信仰心だよ、呪文・・・幸せな呪文なんだ!俺と同じなんだ、きっと・・・」
ギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシ・・・ザッザッザッザ・・・
実体のない音はすでに二人のすぐそばまで近づいてきている。修史はトオヤを真っ直ぐに、瞬きもせずに見つめた。修史の動かない体は小刻みに震えてこれ以上は何も喋られなさそうだった。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ・・・
トオヤは眉を寄せて、息を吐き、目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。そして無表情を作り出し、見えない何かに向かって叫んだ。
「白鷺の信仰心!」
その瞬間、どこかで不気味な呻き声が上がるのを二人は聞いた。若い女のような、獣のような、悔しそうな呻き。そして突然足音が止んだ・・・
二人は見合わせてすぐに、何も言わないままに走り出した。一心不乱に石段へ向かって走る。二人は確かに聞いた。再び鳴り出した足音を。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ・・・
それは怒りに満ち溢れていて、二人を必死に追いかけてくる。しかし二人は振り返ることもなく走り抜け、石段を飛ぶように駆け下りた。あわや転げ落ちそうにもなったが、それもお構いなしに百八段を走った。
ダン!ダン!ダン!ダン!
左右を囲む美しい紅葉が次から次へと背後へ飛び去り、心音と風の音だけが耳に響いた。
ダン!ダン!ダン!ダン!
二人はようやく石段の一番下まで駆け下り、フォルクスワーゲンに飛び乗った。追ってくるものは分からない。ただ近づいている。それだけを感じ取ることが出来る。修史は目を閉じたままシートベルトを握り締めた。トオヤは口をつぐんで慣れた手つきでギアを操作し、金切り音を上げながらフォルクスワーゲンを発進させた。
「どうして“白鷺の信仰心”だって思ったんだ?」とトオヤ。
町の中へ入ってしばらくした後、二人はやっとのことで平静を取り戻していた。まだ四時半だがすっかり暗くなって、商店や街灯が変わりに町の灯りを取っている。赤信号で停車すると灯りは車の中まで射し込んで二人の視界を赤く染めた。方向指示器のいかにも機械的な音を耳に修史は安堵感に包まれていた。
「だって“白鷺の信仰心”には“しらさぎ”“しんこう”“しん”って“し”が三つもある。これは“しあわせ”だって、そう思ったんだ」
トオヤは呆れた表情で苦笑しながらも、最後には納得して見せた。
「なるほどな。よく分かったよ」
信号が青に変わり、フォルクスワーゲンは同窓会の開かれる場所へ向かって町の中を走って行った。
「でもよ、あれはなんだったんだろうな」修史は落ち着いた声で言った。
「うん、あれ・・・」トオヤは何かを言おうとして思い止まり、口をつぐんだ。そしてしばらく考えた後、軽い調子で言い放った。
「さぁ、考えても分からないな。でも、夢ってことにすれば、夢に過ぎないんじゃね?」
二人は視線を合わせると、声を上げて笑った。
「石段の上」完結です。
この物語は『夏のホラー2011 ~夏の夜には怪談を~』参加用に書き上げました。
別の世界への入り口は、案外見慣れた場所にあって、私たちは知らず知らずに通り過ぎているのかもしれませんね。
視線の正体は書きませんでした。
お化けや怪物が目の前に現れるよりも、得体の知れない目に見えないものの方が怖い、なんて思いませんか?私は目に見えないと怖いです。
感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。