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鉄と菌の狂想曲

低く垂れ込めた雨雲から、粘り気のある冷雨が絶え間なく降り注ぐ境界都市コンスタンティア。

東西の文化と剥き出しの悪意が泥まみれになって混ざり合うこの巨大な吹き溜まりで、寄り添うように生きていた3人の家族がいた。

屈強な体躯の割に驚くほど情に脆い、ぶっきらぼうなお人好し・バシズ。

冷静沈着で理知的な眼鏡の兄貴分・カシム。

そして、普段は子供たちに深く慕われる美しいエルフでありながら、戦闘時には大切な者を守りたいがゆえに苛烈な狂気を爆発させる学者・ソフィア。

不器用ながらも温かかった彼らの日常は、一人の欲深い商人の手によって無残に引き裂かれる。

奈落の底へ突き落とされ、生き残るために世界を滅ぼせるほどの『邪神の呪い』を受け入れたバシズ。人間であることを捨て、漆黒の菌糸を纏う異形の王へと変貌した彼は、愛する家族に呪いの火の粉を飛ばさぬよう、一人きりで激しい雨の荒野へと飛び出していく。

世界中から命を狙われる、お人好しな男の孤独な逃避行。

しかし、バシズを誰よりも溺愛するソフィア先生の、世界を揺るがす真の「強さ」が解き放たれる時、そして残されたカシムが「もう一つの邪神」に魅入られる時、運命の歯車はさらに狂い狂い、狂い咲いていく──。

邪神を宿した者たちの、愛と狂気のダークファンタジー、開幕。

低く垂れ込めた雨雲から、粘り気のある冷雨が絶え間なく降り注いでいた。

西の『石と盾の国』と、東の『砂とスパイスの国』を隔てる狭い海峡。その両岸を跨ぐように広がる境界都市コンスタンティアは、東西の文化が泥まみれになって混ざり合う、巨大な吹き溜まりだ。

高台にそびえる重厚なドーム状の大聖堂から聖歌が響くかと思えば、南の巨大市場(グランドバザール)からは、羊肉を焼く油煙とクミンやナツメグの焦げた匂いが風に乗って鼻腔を突く。行き交うラクダの群れ、馬車の轍が刻む深い泥濘。行き場のない浮浪児や, 錆びたナイフを隠し持った商人の用心棒たちが、排泄物と腐った果実の入り混じる路地裏にひしめき合っていた。

ドーム状の礼拝堂から、この街の多数派が信奉する「ムラービ教」の祈りの鐘が鳴り響く。街の人々は一斉に足を止め、東の聖地に向けて絨毯の上で額を地につけ、厳かに天への祈りを捧げ始めた。バシズとカシムも人混みの端で足を止め、その神聖な空気の中で静かに頭を垂れる。バシズの耳には、街の人々が呟く「偉大なる天の父よ、今日の糧に感謝を……」という静かな祈りの声が心地よく響いていた。

お祈りの時間が終わると、バザールは一瞬にして元の喧騒を取り戻す。

「おい、バシズ。ぼんやり歩いていては危ないよ。絹を積んだ荷馬車に轢かれたいのかい?」

狭い露店の隙間。大麦の粥を売る屋台の喧騒の中、バシズは聞き馴染んだ静かな声に肩を叩かれた。

振り返ると、複雑な刺繍が施された擦り切れたインナーの上に、油を染み込ませた防雨用のウールマントをスマートに羽織った男がいた。同居人であり、ストリートチルドレン時代からの兄貴分であるカシムだ。指先で器用に小刀(ジャンビーヤ)を回している。

「……あ、悪い。少し考え事をしてただけだ。カシム、お前こそ昼間から何をしてるんだよ」

「ソフィア先生に頼まれた香油と、新しい羽根ペンを買いに来たのさ。ほら、お前が持っているその麻袋、随分と重そうじゃないか。僕が半分持とう」

カシムはそう言って、バシズが担いでいた買い出しの袋をひょいと奪い取った。いつも理知的で冷静な口調でありながら、バシズの様子を誰よりも敏感に察してさりげなく気遣ってくれる、面倒見のいい男だ。二人は肩を並べ、ひときわ熱気の立ち込めるグランドバザールの中心部へと足を進めた。

「おっ、バシズの旦那にカシムじゃねえか。今日もソフィア先生のお使いかい?」

色鮮やかな絨毯を並べた露店の店主が、人混みの中から二人に親しげに声をかけてくる。

「ああ、おやじ。先生が『赤コケ』を大量に入り用でな。そっちの市場は相変わらず干し魚のいい匂いがするな」

「へへ、そいつは良かった。バシズの旦那、昨日言ってた路地裏の暴漢どもなら、旦那が威嚇してくれたおかげで寄り付かなくなったよ。みんな感謝してるぜ」

「……別に、余計な奴らに首を突っ込んだだけだよ。俺たちもこの街の泥を舐めて育った身だからな、気にするな」

バシズが無骨な顔を少しだけ赤くしてそっぽを向くと、隣のスパイス売りの中年女性が「ちょっとバシズ、カシム! 今日はいいハーブが入ってるよ。ソフィア先生に持ってっておくれ」と包みを差し出してきた。

「ありがとうございます、アンナさん。先生、最近夜遅くまで調べ物をしていますから、とても助かります」

カシムが器用に銀貨を支払う横で、隣のパン屋の親父も「バシズ、これ焼き損ねたナンだ、持っていけ!」と太い腕を振る。バシズはこの混沌とした、けれど情に厚い街の人々との会話が嫌いではなかった。

二人はさらに、馬の糞尿が混ざった泥の石畳を歩き出す。

「なぁ、バシズ。今日の夕飯の干し魚だけど、僕が半分もらってもいいかい?」

「は? なんでだよ。それ、俺の分の貴重な塩分だぞ」

「だって、お前またやっただろう。さっきからバザールの裏路地を気にしていたからね。ほら、あそこにいるじゃないか」

カシムが眼鏡の奥の目を向けた視線の先──香辛料の入った麻袋の陰に、煤と泥で顔を汚した、年端もない物乞いの子が縮こまっていた。お腹を空かせているのか、虚ろな目でこちらを見つめている。

バシズはカシムの呆れ顔に「うるさいな」と少しむくれながらも、バフ・コート(厚手の牛革衣)のポケットから、さっき自分の昼飯用に買った干し肉の塊をそっと取り出した。借りのあるムラービ教の慈愛の精神が、彼の身体を自然と動かしていた。バシズは子供の前へと、ゆっくりと歩み寄る。

大剣を背負った大きな図体に怯えて後ずさる子供に向けて、バシズは膝をつき、目線を同じ高さに合わせた。

「ほら、お腹空いてるんだろ。……怖がらなくていいから、これ美味しいし、さっさと食べなよ」

普段のぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほど、優しく穏やかな口調で子供に語りかける。そう言って、大きな掌で干し肉を子供の手元へそっと握らせた。子供の爛々とした目が輝き、弾かれたように肉を口に押し込むのを見届けると、バシズはその小さな頭をぽんぽんと優しく叩いて立ち上がった。

かつてこの境界都市の裏路地で、商人の荷馬車を守る『使い捨ての犬(用心棒)』として泥を舐めていた自分たちの過去が、どうしてもあの子供たちに重なってしまう。

「相変わらずだね。お前はその屈強な体躯の割に、随分と情に脆い。お前のような危なっかしいお人好しは、僕がこうして管理してあげないと、すぐに野垂れ死んでしまうよ」

カシムはクスリと理知的に笑い、バシズの無骨な肩に手を置いた。

「余計なお世話だよ。知的な兄貴面しやがって……」

バシズは顔を赤くしてカシムの手を軽く払いのけた。

二人がたどり着いたのは、下層街の斜面に張り付くように建つ、ひときわ古い石造りの邸宅だ。

隙間風を防ぐための重いウールのカーテンをくぐると、外の冷雨とは対照的な、乾燥した紙と古いインクの匂いが鼻腔を突く。壁際まで天井高く積み上げられた羊皮紙の山、怪しげな薬草が吊るされた薄暗い土間──ここが二人の寝床であり、大切な「家」だった。

「戻ったか、間抜け共」

部屋の奥、蝋燭の火に照らされた美しい金髪が覗いた。

この家の主であり、バシズたちを路地裏から拾い上げた大人の女性──高名な学者であるソフィア先生だ。

ソフィアは人間ではない。数百年を生きる長命種──『エルフ』だった。豊かに波打つ美しい金髪の隙間から、わずかに尖った耳が覗いている。

歳の頃は人間の三十代半ばか、あるいはそれ以上に見える、大人の色香と包容力を湛えた熟女。下層街にはおよそ不釣り合いなほど、息を呑むような気品に満ちた美女だった。謎めいた美しさと、冷徹な知性を湛えた鋭い双眸。バシズは彼女に命を救われた恩義以上の、言葉にできない淡い憧れと恋心を、胸の奥深くにずっと隠し持っていた。

彼女が歩くたび、その裾に小さな影がいくつかまとわりついていることに気づく。近所のスラムや孤児院の子供たちだった。ソフィアはこの薄暗い家の一部を開放し、身寄りのない子供たちに文字や簡単な学問を無償で教えていた。子供たちが笑顔で袖を引くと、ソフィアはガクガクと不自然に首を傾げ、血走った目で子供たちの頭をガシガシと、頭皮が擦り切れるほどの熱量で激しく愛おしそうに撫で回した。子供たちはその異様な雰囲気に怯えるどころか、それが彼女なりの過剰な愛情表現であることを知っており、「先生!」と嬉しそうにしがみついている。その歪でありながらも温かい笑い声に溢れた光景は、バシズにとって守るべき平穏そのものだった。しかし、バシズとカシムが買い出し袋を抱えて部屋に入ってきた瞬間、ソフィアの双眸がさらにギラギラと狂気的に輝いた。彼女は手に持っていた羊皮紙を激しくむしり取り、ガクガクと首を折り曲げながら、弾かれたように叫び始める。

「──赤コケ! 『赤コケ』をこんなにたくさん、私のために、私のためだけに運んでくれたのですかァ、バシズ、カシム!! ああ、愛おしい、なんて健気で愛おしい子供たちッ!! それなのに、それなのにこのクソまみれの街は、あなたたちの胃袋を満たすための食費すら、この家の家計すら! 命すら! どれほど圧迫し、削り殺そうとしているかッ!! 許せない、許せない許せない許せないッ!!」

「やれやれ、先生、また発作が始まっていますよ」

カシムが肩をすくめて土間の椅子に腰掛け、バシズを小突く。

「おい、バシズ。お前がまたバザールで自分の昼飯を丸ごと物乞いの子に貢いできたと、今しがた帰ってきた隣の商人が言っていたよ。先生に報告させてもらうね」

「おいカシム、余計なこと口走るなよ!」

バシズが顔を真っ赤にして焦る横で、ソフィアが自らの頭を両手で強く挟み込み、自らの爪が頭皮に食い込んで血が滲むのも構わず髪を掻きむしりながら、二人の前に割り込んできた。首を直角に折り曲げ、鼻血が出るのではないかというほど顔を近づけ、その両目から涙をボロボロと流しながら、今度はバシズをいじるように叫ぶ。

「やはりですかァ、バシズ!! あなたのその優しさは! 慈愛は! 世界の誰よりも美しく、あまりに尊いものですがァ!! 自分の昼飯まで他人に明け渡すなど、ただの無駄に図体がデカいだけの押し弱すぎお人好し野郎ですッ!! このクソ街の悪意に利用され、奪い尽くされて骨と肉だけにされるバシズを想像するだけで、私は脳髄が弾け飛びそうだァ!!」

「だ、誰が押しが弱いってんだよ……。俺はただ、飯に困ってるガキが目の前にいたから……勝手に手が動いただけだっての!」

バシズが無骨な顔を真っ赤にしてそっぽを向くと、カシムが眼鏡の位置を直しながら、冷徹な知性を含んだ笑みで悪ノリする。

「その通りですよ、先生。彼はその威圧的な容姿のわりに、内面は驚くほど繊細で脆いですからね。もっと教育してやってください」

「ええ、カシムの言う通りですッ!! 何より、何よりも、まずあなた自身のその分厚い身を第一に考えなさい、死なないようにしなさい、奪われないようにしなさい!! わかりましたか、わかったのですか、バシズぅぅッ!!」

過剰なまでの愛と、外の世界への恐怖が裏返った怒号。それはどこまでも狂気的でありながら、3人の間には確かな信頼と、家族としての気恥ずかしくも温かい空気が流れていた。バシズが観念したように「……あーもう、分かったよ先生! だからそんなに泣き叫ばないでくれよ……」と不器用に頭を掻くと、ソフィアはガチガチと歯を鳴らしながら、困ったように、けれど嬉しそうに愛おしそうに不気味に微笑んだ。

ソフィアはそのまま壁際に立てかけられた無骨な鉄の練習剣の前に歩みを進めると、それを流れるような動作で引き抜き、バシズへ放り投げた。普段は冷淡で偏屈な知識人に見えるが、バシズが「用心棒の仕事で生き残れるように」と、その卓越した剣術を叩き込んでくれた師でもある。

「口を動かす暇があるなら、剣を握りなさい。今日の分の打ち込みがまだですよ」

バシズは鉄剣を片手で受け止め、土間の広いスペースへ進み出た。

カシムが「さあ、見物させてもらうよ」と楽しげに積まれた本の上へと移動し、見守る。

キィン! と, 鋭い鉄音が響いた。

ソフィアの踏み込みは、しなやかな体躯からは到底想像できないほど鋭く、容赦がない。長命種ならではの洗練された剣技に、東西の荒々しい実戦の泥臭さが混ざり合った、一切の無駄を削ぎ落とした精密な太刀筋。

激しい打ち合いが続く中、バシズの剣が鋭く迫り、ソフィアの身体が不意に大きく動いたその瞬間──彼女の瞳から理性が完全にスッと消え失せ、恐ろしいほどの激情がその身を支配した。

ソフィアはガクガクと首を不自然に傾け、血走った目でバシズを凝視すると、突如として地を幾重にも幾重にも這うような悪鬼の声を狂ったように上げ始めた。

「──ぬるい! ぬるいぬるいぬるいぬるいです、バシズ!! それがあなたの言う『生きるための剣術』ですかァ! 万死! 万死に値するぬるさですッ!!」

激しく身体を震わせ、自分の頭を鉄剣の柄で自傷気味にガンガンと叩きつけながら、狂信的なまでの熱量で怒号を吐き散らすソフィア。

「私はッ! 私はあなたを死なせたくないのですよッ!! なぜわからないのです、バシズ!! この街の、世界の救いようのない悪意どもが、いつかあなた自身の肉体を切り刻み、犬のように泥の中で死へと至らしめる!! それが私は、耐えられない、耐えられない耐えられないッ!! あなたを害するすべてを、私はこの手で、この剣で、塵一つ残さず切り刻んで絶滅させてやりたいッ!! だから動かしなさい、その足を! 刃を! 害虫どもを皆殺しにして生き残るための力を、今ここで私に証明してみせろォォッ!!」

涙の滲む両目を血走らせ、髪を掻きむしり、外界の敵への殺意とバシズへの過剰な愛を叫び散らすソフィア。その凄まじい発狂状態とは裏腹に、彼女の繰り出す鉄剣の太刀筋は寸分の狂いもなく、むしろその大切な者を絶対に守り抜くという痛切な祈りのような殺意に比例して、速度と精密さを跳ね上げていた。

そのあまりの豹変振りと奇妙な悪癖に、バシズは「また始まったよ……」と引きつった苦笑いを浮かべ、本棚の上のカシムも「先生のあれは、何度見ても非合理的で恐ろしいな」と肩をすくめる。しかしバシズは知っていた。この制御不能の狂気の奥底にあるのは、あまりに不器用で、重すぎるほどの自分たちへの愛情なのだと。数百年を生きる長命種であるがゆえに、大切な者の死を見届けてきた精神の歪みなのかもしれない。

たっぷり一時間、ソフィアが時折自らの髪を掻きむしり、狂ったように叫びながらの過酷な打ち込みを終えたバシズは、床に大の字に寝転がった。

「ふん、少しはマシになりましたね。さあ、カシム。温めておいたレンズ豆のスープをこの大食漢に与えなさい。飢え死にされては寝覚めが悪い」

先ほどまでの奇妙な狂気が嘘のように、ソフィアはいつもの優しく、知的な大人の表情に戻り、再び書物へと戻っていく。その凛とした大人の背中を見つめながら、バシズは胸の鼓動を落ち着かせた。

カシムが「ほら、お疲れ様。僕が温めておいた特製スープだよ。しっかり食べて体力を戻しなさい」と木皿を差し出す。バシズはそれを「……ありがとな」とぶっきらぼうに笑いながら受け取り、喉へと流し込んだ。この無骨で、けれど温かい日常が、いつまでも続くのだと信じて疑わなかった。

しかし、その穏やかな日常は、一人の男の登場によってあっけなく崩壊することになる。

「おい、ぐずぐずするな。薄汚い用心棒め。我が『ギルバート商会』の資金で雇われているという自覚を持て」

都市の郊外、荒涼とした岩肌が露出する古代の禁忌地。

松明の火に照らされた大穴の前に、豪奢な毛皮の外套を纏った男が立っていた。この街の若き大富豪であり、傲慢さで知られる商人、ギルバートだ。彼はソフィアの持つ古文書の知識を買い、この地に眠るという「古代の邪神の封印地」の調査遠征を立ち上げた。バシズはその護衛として、彼が率いる数十人の私兵(軍隊)と共に雇われていた。

「おいギルバート、ここは邪神の封印地だ。これ以上奥へ進むのは危険だとソフィア先生も言っていたはずだぞ」

バシズが眉をひそめて進言するが、ギルバートは鼻で笑った。

「黙れ、ドブネズミ風情が。お前たちのようなストリートのゴミ屑は、大金の前に頭を垂れて命を投げ出していればいいのだ。……そう、例えば、このような時にな」

ギルバートが冷酷に片手を挙げた。

次の瞬間、背後にいた数人の私兵が、バシズの背中を容赦なく大穴へと突き飛ばした。

「が……ッ!?」

無防備な背中に衝撃を受け、バシズの身体が宙に浮く。

見上げる視界の中で、ギルバートが歪んだ笑みを浮かべていた。最初から、危険な毒気や罠があるかもしれない底へ、バシズを使い捨ての「毒見役」として落す算段だったのだ。

「先生への言い訳は適当に作っておいてやる。底で大人しく肥やしになるがいい、無能め」

嘲笑の声を遠くに聞きながら、バシズは暗黒の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。

激しい衝撃と共に、バシズは冷たい泥の上に叩きつけられた。

「がはっ……、う、くそ……!」

骨が軋む痛みに耐えながら、バシズは這い上がる。幸い、泥がクッションとなり即死は免れたが、見上げる遥か頭上の穴の口は、豆粒ほどの大きさに塞がれていた。自力での脱出は不可能。

そこは、嗅いだこともない強烈な「胞子」の生臭い匂いと、死の気配が立ち込める絶望の空間だった。

足元を見れば、地面を埋め尽くしているのは土ではない。うごめく白や黒の菌糸の絨毯だ。壁一面には、見たこともない巨細胞のようなキノコや発光するシダ植物が群生し、まるで世界を侵食する「腐海」の底に放り込まれたかのような、悍ましくも圧倒的な異景が広がっていた。

「──おやおや。随分と手荒な歓迎を受けられたようですね」

その時、暗闇の奥、一際巨大な菌糸の塊から、驚くほど澄んだ美しい男の声が響いた。

おどろおどろしい化け物の咆哮ではない。まるで大聖堂で迷える子羊に語りかける、若き聖職者のような、どこまでも慈悲深く優しい声。

「だ、誰だ……ッ!?」

バシズは狼狽し、落ちた拍子に手放さなかった大剣を構えた。

菌糸のドームがゆっくりと身震いし、その中心から、人間の神経系と植物の根が融合したような、巨大な菌糸の塊──『邪神』が拍動を強める。

『驚かせてしまいましたね。申し遅れました、私はかつてこの地の民にそう呼ばれていた存在です。まずは自己紹介を。……バシズ、とおっしゃるのですね? 上から見ておりましたよ。あなたが飢えた子供に施しをする、奇特で優しい人間だということも』

「俺の名前を……? 契約を持ちかけるつもりか!?」

バシズは冷や汗を流しながら叫ぶ。

『ふふ、そんなに警戒なさらないでください。私はただ、あなたに同情しているだけなのです。……さて、どうされるおつもりですか?』

「どうするって、ここから這い上がるに決まってるだろ!」

『それは不可能です』

邪神の声は、残酷なほど優しかった。『あなたの骨はひび割れ、体内には私の胞子が巡り始めている。何より、上の商人たちは、あなたが生きていると知れば何度でも石を落すでしょう。ねえ、バシズ。現状を直視してください。あなたはここで、誰にも看取られず、愛する家族の元へ帰ることもできずに腐り果てるのです』

「くそ……、あいつら……!」

ギルバートの嘲笑、指示に従う私兵、死に赴く自分。そして自分を心配してくれるソフィア先生やカシムの顔が脳裏に蘇り、バシズは奥歯を噛み締める。退路は、完全に断たれている。

『ですが……私なら、あなたを助けてあげられますよ。私の【一部】を受け入れなさい。そうすれば、あなたを害するすべての不浄を、一瞬で消し去る力を授けましょう。……もう、やるしかないのでしょう?』

脳内に響く優しい全肯定の囁き。バシズは己の無力さを呪い──覚悟を決めた。

「……ああ、やってやるよ。化け物の力だろうが何だろうが、生き残ってあいつらに借りを返す!」

『素晴らしい。最高の選択です、私のバシズ』

次の瞬間、バシズの全身を、細胞一つ一つが爆破されるような悍ましい激痛が貫いた。

「...が、あああああああぁぁぁぁぁッッ!!」

解き放たれた叫びと共にバシズの肉体が、内側から激しく作り変えられていく。

衣服を引き裂いて溢れ出したのは、無数の漆黒の菌糸だった。それらはバシズの強靭な肉体を覆い尽くすと、まるで緻密な織物のように美しく編み合わさり、高貴な仕立ての「菌糸でできた礼服」へと変貌していく。漆黒の衣を飾るボタンやカフスは、不気味に硬化した傘の組織だ。

だが、真の変貌はその頭部だった。バシズの頭蓋を包み込むように菌糸が爆発的に増殖し、人間の髪も耳も覆い隠して、肥大化した「巨大なキノコのような頭部」が形成されていく。そのグロテスクなキノコ頭の前面には、感情の消え失せた、濁った二つの「目」だけが怪しく明滅していた。

さらに、顔面を覆うように、白く硬質な菌糸の膜が「覆面」のように張り付く。その覆面の表面からは、まるで生贄の血を吸って咲いたかのように、鮮血色や紫斑の混ざった禍々しい極小のキノコたちが群生し、奇妙な意思を持つかのようにかすかに蠢いていた。

人間であることを捨て、世界を滅ぼす「腐海の王」のような異形へと、バシズは完全に変貌を遂げた。

大穴の上では、ギルバートが満足げに鼻を鳴らしていた。

「よし、邪魔な目障りは消えた。これでこの遺跡の財宝はすべて我がもの──」

「おい! バシズをどこへやった!!」

突然、遠征隊の最後尾から鋭い怒号が響いた。

ソフィアの買い出しを手伝い終え、不穏な気配を察してバシズの後を必死で追ってきたカシムだった。彼は数人の私兵をすり抜け、息を切らせてギルバートの前に立ち塞がる。

「おお、もう一匹のネズミか。バシズなら、底の危険を確かめるために一足先に降りてもらったよ」

「てめぇ……!!」

カシムが激昂して小刀(ジャンビーヤ)に手をかけた瞬間、周囲の私兵たちが一斉に組み付いた。多勢に無勢、カシムは地面に組み伏せられ、大穴のふちへと引きずられていく。

「ふん、ちょうどいい。これほどの深さだ、生贄は二人いた方が確実だろう。そいつも落せ!」

「ギルバート、てめぇ……! バシズを返しやがれ!」

拘束されたまま、奈落の底へと容赦なく突き落とされるカシム。

浮遊感と死の予感がカシムの全身を支配した、その瞬間だった。

ドォン!!!

爆音と共に、大穴から視界を完全に遮るほどの「黒い胞子の嵐」が噴き出した。

泥と岩片が逆流する中、底から凄まじい弾道で跳ね上がってきた影があった。

「──カシム!!」

「え……?」

落下していくはずのカシムの身体が、空中でがっしりと抱きとめられた。

そのまま地面を爆ぜさせながら着地した影──それは、全身から黒い胞子を撒き散らし、菌糸の礼服を纏い、禍々しいキノコが生えた覆面の頭部を持つ、異形のバシズだった。

バシズはカシムをそっと地面に下ろすと、大剣を握る左手でカシムを背に庇い、大穴のふちに立つギルバートを睨みつけた。

だがその瞬間、バシズの意識は突如として奥底へと沈み、脳内の邪神が彼の肉体を完全にハイジャックした。覆面の隙間から覗く二つの目が、狂気的な真紅の光を放ち始める。

『アハハハハハハハ! 待たせたなァ、マヌケども!!』

キノコの頭部から発せられた声は、地響きのように重低音でありながら、邪悪で乱暴な口調へと豹変していた。邪神は狂ったように笑い声を上げながら、バシズの身体を使って暴れ始める。

「ひっ……! 構えろ! 撃て! そいつもろとも殺せぇ!!」

ギルバートの絶叫と共に、数十人の私兵が一斉にクロスボウの引き金を引いた。放たれた数条の鉄の矢がバシズの全身に突き刺さるが、邪神に乗っ取られた肉体はびくともしない。

『痛ぇなァ! だが気持ちいいぜェ!! さあ、たっぷり【祝福】してやるよォ!!』

邪神は狂暴に笑いながら、漆黒の異形と化した腕を激しく振るった。鉄の防具など紙切れのように、最前線の甲冑を着た私兵たちが肉塊となって真横に吹き飛び、岩壁に激突して砕け散る。

『逃げるなよォ! ほら、踊れ、狂え、腐り果てろォ!!』

狂乱する邪神の咆哮と共に、バシズの体表から波のように押し寄せた黒い菌糸の絨毯が、逃げ惑う私兵たちの足を、身体を容赦なく捉えた。

衣服の隙間から肉体へ侵入した菌が内側から喰い荒らし、一瞬で彼らを干からびた「苗床」へと変えていく。わずか数十秒で、ギルバートが誇る私兵は全滅し、辺りは阿鼻叫喚の後に異様な静寂に包まれた。

『次はお前だ、金持ちのブタ野郎ォ!!』

邪神は爆笑しながら、泥まみれになって腰を抜かしているギルバートの胸ぐらを掴み上げた。

「ハ、バシズ! 待て、悪かった! 金ならいくらでも──」

『うるせぇよ、死ねナマゴミがァ!!』

グシャッ、と、短い肉の破砕音を響かせ、邪神はギルバートの首を冷酷にへし折り、ゴミのように地面に投げ捨てた。

ギルバートの息の根が止まった瞬間、激しい耳鳴りと共に黒い狂気が引き、バシズの意識が肉体へと戻ってきた。

「はぁ……はぁ……っ, 俺は、今……」

バシズの肉体から悍ましい殺気と邪神の気配が消え、元のバシズの意識へと戻る。しかし、周囲に転がる干からびた死体と、へし折られたギルバートの骸が、今起きた恐ろしい現実を物語っていた。

バシズは自らの右腕の禍々しさにゾクリとした恐怖を感じていたが、感傷に浸る時間はなかった。この異常事態に、遠くの街の衛兵たちが動き出す気配が伝ってくる。このままでは、大好きなソフィア先生や、目の前で呆然としているカシムにまで、この「呪い」の火の粉が飛んでしまう。

「バシズ……お前、その姿……それによ、さっきの奴は……」

恐怖と、それ以上に弟分への心配が入り混じったカシムの声を聞き、バシズは胸を締め付けられながらも、ぶっきらぼうに背を向けた。禍々しいキノコの頭を揺らし、低い声で告げる。

「……カシム、ソフィア先生を頼んだぞ。俺に関わると、お前らまで腐る」

「バシズ! 待ちやがれ!」という兄貴分の制止の声を背に、バシズは夜明け前の激しい雨が降る荒野の闇へと、一人きりで走り出した。

「みんなには、絶対に迷惑をかけられない……!」

世界を滅ぼせる邪神を宿したお人好しな男の、世界中から命を狙われる孤独な逃避行が、今ここに幕を開けた。

第1章(プロローグ)を最後までお読みいただき、ありがとうございました!

若き大富豪ギルバートの策略によって奈落の底へ突き落とされ、生き残るために邪神の力(呪い)を受け入れてしまったバシズ。

異形の姿となり、邪神の狂気に肉体をハイジャックされながらも、間一髪でカシムを救い出し、最後は「俺に関わると、お前らまで腐る」とぶっきらぼうに告げて激しい雨の中へと消えていきました。

あんなに温かかった日常にはもう戻れない、お人好しすぎる男の孤独な逃避行がここから始まります。

しかし、残された家族もただ待っているだけではありません。

バシズにあれほど凄まじい剣術を叩き込んだソフィア先生は、実はとんでもない強さを持つ規格外の存在です。愛するバシズを連れ戻すため、世界の悪意を相手にその圧倒的な力を解放することになります。

さらに、今回は命を救われたカシムですが、のちにバシズとはまた異なる「別の邪神」に寄生され、思いもよらない姿で再び物語に現れることになります……!

邪神を宿した者たちの運命、そしてソフィア先生の真の強さ。

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次章、バシズの過酷な逃避行と、動き出すソフィアたちの物語でお会いしましょう

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