少年の戦闘開始
奴隷商の男、ミランにアポを取ってもらい、1日が経過した。
今夜、俺はこの家から脱獄をしてみせる。
大げさな言い方かもしれないが、俺の中ではそれくらいの覚悟だった。
エリナさんは、もう昔のようにベッドの横に椅子を置いて一晩中見張る、なんてことはしていない。
それでも、油断はできなかった。
理由は一つ。
風低級魔法ウィンドサーチ。
魔力を帯びた風を屋敷全体に薄く巡らせ、異変があれば察知する索敵魔法だ。
足音、扉の開閉、空気の流れの乱れ。
どれもが、エリナさんの感覚に届く。
実際に使ったことがあるが、普通はそんな簡単に察知できるほど便利なものではない。エリナさんは感覚がとにかく鋭いんだろう。
そして俺には、その巡らされた風がわかる。
しっかり周りに注力すると、空気の中に“違和感”がある。
目に見えないはずの風が、薄く、淡く、漂っているのがはっきりと感じ取れた。
この風が、監視だ。
ベッドに横になりながら、俺は天井を見つめる。
呼吸はゆっくり、心臓の鼓動も落ち着いている。
焦るな。まだ、時間はある。
エリナさんは、俺が眠ったのを確認してから部屋を離れる。
大体、いつも同じくらいの時間だ。
――来た。
廊下を歩く気配。
扉が静かに閉まる音。
そして、風の流れがわずかに変わる。
ウィンドサーチが、部屋の外側に比重を移した。
つまり、「中は問題なし」と判断されたということ。
今だ。
俺は、そっとベッドから体を起こした。
床に足をつける瞬間、呼吸を止める。
……大丈夫。
風は、まだ乱れていない。
だが、このまま歩けば、確実に引っかかる。
足音も、空気の押し出しも、すべて拾われる。
だから――
俺は、小さく魔力を練った。
風初級魔法
「《ウィンド》」
俺はとにかく囁きながら魔法を展開した。
部屋の隅、カーテンの近く。
ほんの一瞬、そよ風が吹く程度に、風を撒いた。
ふわり、と布が揺れる。
同時に、空気の流れが“自然な乱れ”を作り出す。
人為的な動きではなく、夜風によるものだと誤認させるための偽装。
……よし。
ウィンドサーチが、そちらに意識を向けたのを感じる。
俺の足元から、注意が逸れた。
その隙に、俺は一歩、二歩。
足裏を床に吸い付けるように、ゆっくりと進む。
扉の前で、もう一度ウィンドを使う。
今度は、廊下側へ。
微細な風の揺らぎ。
「誰かが通った」のではなく、「風向きが変わった」程度の変化。
扉を開ける。
――成功。
廊下は暗い。
だが、風の流れが見える俺にとって、障害はほとんどなかった。
角を曲がるたびに、ウィンドを一度。
足音を消すためではない。
足音がしてもおかしくない状況を、先に作るためだ。
エリナさんは優秀だ。
だが、だからこそ「異常」に敏感で、「自然」には寛容でもある。
階段。
一段ずつ、間隔を空けて降りる。
魔法だけじゃなく、もちろん物音も立てずに慎重にだ。
玄関ホール。
扉の向こうに、夜の空気がある。
歩く。静かに、確実に。
俺はドアに手をかけ、ゆっくりと丁寧にドアを開けていった。
門の前で、一度だけ振り返った。
屋敷は、何も知らない顔で佇んでいる。
――勝った。
今夜だけは。
少なくとも、今は。
俺は門を抜け、闇の中へと身を溶かした。
さて、立ち止まってる暇はない。
昨日確認したが、一度俺の顔を見にきたらエリナさんはそのまま寝室に向かう。
それでも、戻ってきたら部屋に俺がいないのがバレる。ということも十分あり得るだろう。
俺はせっせと街に向かって走り出していった。
――――――――――――――――――――――――
街に向かい始めて約15分。俺は無事に街へ辿り着いた。
道中に魔物が現れるかと気が気でなかったが、この辺はかなり設備が整えられているようだし、なんのトラブルもなかった。
街に足を踏み入れた瞬間、変な不安感を覚えた。
昼間であれば、あれほど喧騒に満ちていた大市場。
呼び込みの声、荷車の軋む音、行き交う人々の足音。
それらが今は、まるで嘘のように消えている。
店の看板は下ろされ、布の屋根は畳まれ、石畳の広場には人影がほとんどない。
灯りは点いているが、それは賑わいのためではなく、監視のための明かりだった。
俺は足を止め、耳を澄ませる。
すると、規則正しい足音が、遠くから聞こえてきた。
――カツン、カツン。
一定の間隔。
複数人。
武具が軽く触れ合う金属音。
衛兵みたいなやつらがいるのか?
視線を巡らせると、広場の端を巡回する数人の人影が見えた。
鎧姿に、腰には剣。
明らかに、夜間警備用の配置だ。
泥棒対策ってとこだろうか。
昼は人の多さで誤魔化せても、夜は違う。
こうして人を減らし、怪しい動きがあればすぐ分かるようにしている。
……想定外だな。
この時間帯なら、誰もいないと思っていた。
少なくとも、ここまで露骨に警備されているとは。
もし見つかったらどうなる?
年齢的にも、時間的にも、確実に「保護」案件だ。
身分を聞かれ、どこから来たかを問われ、屋敷に連絡が行く。
そうしたら、ゲームオーバーだ。
俺は反射的に、近くの建物の影へと身を寄せた。
呼吸を抑え、灯りの当たらない位置に立つ。
風に意識を向ける。
この辺りには、ウィンドサーチの気配はない。
衛兵達がもしかしたら使ってると思ったが、まぁ常に風魔法を使い続けるほどの魔力量なんてあるはずないか。
だが、油断は禁物だ。
衛兵たちは広場を中心に巡回している。
となると、正面から市場を横切るのは無理。
ならば残ってる道はただ一つ、裏道だけだ。
俺は視線を動かし、建物と建物の間に伸びる細い通路を見つけた。
昼間は荷物の搬入口として使われていそうな、薄暗い路地。
人通りはない。
灯りも、最低限。
衛兵の視線も、届いていない。
俺は、そっと足を踏み出した。
石畳の感触を確かめながら、一歩ずつ進む。
路地に入った瞬間、街の音がさらに遠ざかった。
俺は背中を壁に預け、もう一度広場の方を振り返った。
衛兵たちは、何も知らずに巡回を続けている。
よし。
このまま、裏から回り込めばいい。
ミランの店は、市場の外れだったはずだ。
俺は気配を殺し、闇に溶け込むように歩き出した。
……また足跡か。
まぁ流石に裏道だけ巡回しないってことはないだろうしな。
と、内心すこしイライラしながら身を潜めていると、俺は少しだけ驚いた。
現れたのは、イケおじって感じの大柄な男と、小さな女の子の二人組だった。
何の明かりもその2人組は持っていないから、ぶっちゃけかなり驚いてしまった。
さらに、その女の子は獣の耳、略してケモ耳を持っている。そんな種族、あるとは聞いたことがなかったが。獣人と呼べるような女の子だ。
そんなもの珍しい様子を見ていると
「……?」
その女の子と目が合った、と思う。
こんな暗闇で見つかるとは思えなかったんだが――
「助け――」
その女の子は俺に向かって走り出してきたが、すぐにそのイケおじが、その女の子の口を塞いぎ、抱擁するように女の子の動きを封じた。
「……?あの、すみません。その、お二人ってどんな関係なんですか」
俺は男に手を向け、すぐに魔法を打てるよう、構えをとった。
俺と同い年くらいだろうか?そんな女の子の動きを封じる時点で、この男の素性はなんとなくだが察せた。
「あー、待って待って。君、そもそもなんでこんな時間にいるのか疑問だけど、俺、奴隷商人でね。商品を運んでるんだよ」
奴隷商人、筋は通っているか……?いや
「なら、早くその女の子から手を離してあげてください。その子がなんて言うのか聞きたいので」
「うん、もちろん」
その男はすぐに手を離してみせた。
「……」
だが、その子は何も話さなかった。
男の隣で顔を真っ青のまま立っているだけだ。
「な?わかっただろ?普通に商品を運んでる途中なんだよ」
いや、変だろう。
最初は助けを求めようとしていた。
それなのに、今は何も言わない。
――それが、どうしても引っかかった。
「いえ……まだ納得できません」
まだこいつには何かある。そんな気がしてならない。
「あー……もしかして、ヒーローごっこでもしたいのかな?奴隷商人ってのはよく悪だと決めつけられるけどさ?少しは信用してもらいたいもんだよ」
随分と大人気ないやつだな。
だが、奴隷商人なのもなんとなくわかるような……
確か、昨日言ってたな。亜人の子がどうたらって……
明日の夜ということは、もしかして、亜人をお買いになるのですか?
的なこと言ってたよな。
もしかして、亜人がこの女の子なのか?
それなら、今日にちょうどこの子が販売されるから、明日の夜ということは、とミランが付け足して言ってたのか?
で、その子をちょうど商品として連れていってるのがこの男ってとこだろうか?
……それなら、納得できるな。
「いつまで長考してるのかな?そろそろおじさん仕事に戻りたいんだけど」
「……もう少し待ってください」
考えれば考えるほど、判断が鈍っていくような気がする。
……なんでわざわざ気にかけてるんだろうか。
もしこいつが凶悪犯だとしても、奴隷商人だとしても、関わらないのが1番だろ。
いじめを助けたことで、変な正義感にでも目覚めたのか?
「……やっぱり、もういいで……」
……なんで俺、アルト君の体を奪ってまで、そんなふうに考えなきゃいけないんだよ。
「……最後に質問です」
「あぁ、なんだ?」
「奴隷を運ぶ時は、勘違いされないように、必ず奴隷運搬書を持たされるはずです。それを見せてください」
これで、こいつはどう答える?
「うん、もちろんあるよ。怖いならそのままの距離感でいいからさ、ちょっとこっちに着いてきてよ」
釣られたな。
もちろん、そんな書類は存在しない。
――俺が今、この場ででっちあげたものだ。
「えっと、どうしましょうか、流石に少し怖いですね」
考えろ、俺はどうするべきだ。
「ちょっと考えさせてもらってもいいですか?」
「……じゃあ1分だけ待つけど、それ以降は行かせてもらうよ」
普通に考えれば2択。
1、すぐさま逃げて衛兵に通報する。
2、こいつと戦い、この子を保護する。
普通に考えれば、さっさと逃げるのが普通なんだろう。
面識も何もない女の子のために、命を張るなんて、普通はありえない。
普通なら、わかってない風な演技をし、通報するだけで満点なはずだろう。
通報するのは少し遅くなり、彼女の安全が脅かされるかもしれないが、普通に考えれば、逃げるべきだろう。
そう、普通なら。
だが、アルト・ハルフォードならどうしたんだろうか。
あんな堅物な親父と、頭お花畑の母親の子供なら、きっとこんな場面で何をするのか。
……そんなの、決まってるよな。
「《ウィンドサーチ》」
俺は魔法を使う。あいつに聞こえないくらいの小声で。
構えてる方ではない左手を使い、風を生成し始める。この風が周りに浸透しないと、何も探知ができない。
……少し時間かかりそうだな。
「じゃ、行かせてもらうってことでいいのか?」
「いえ、まだ考えてます。もう少し待ってください。もし逃げようとするなら大声を出して、衛兵さんに知らせます」
「はいはい、でも本当、あと少しだけな?」
あいつの言葉からは、ほんの少しだけ、疑惑感が漏れ出ているような気がした。
女の子は、期待感を膨らませているような顔をしている気がした。
あいつが痺れを切らしたら、おそらく俺を無視して逃げるだろう。
はやく……はやく。
……よし、行き届いた、な。
俺を含めた3人以外にも隠れるように誰かがいる。想像より少ないが、もしこいつが誘拐犯とかなら、1人でやるわけねーよな。
仲間がいると思ってたが、予想的中だな。
右手には水路だから、左側に風魔法を集中するだけで済んだ。……そこには2人が固まっている。この様子を黙って見てる時点で、十中八九仲間だろう。
ふー……普段から、戦闘のシミュレーションをしてきたんだ。
作戦はもう立ててる。
後は、やる気だけだ。
やれる……
いくぞ……!
……いくぞ!!!
「おい、いい加減に――」
「――巡れ。世界を満たす無形の――」
「やれ!!」
やっぱり、引っかかったな……!
男が合図をすると、すぐさま左方向から2人の剣士が俺に向かって飛びかかってきた。
悪いな、詠唱はフェイクだ。
「《ショット岩》!」
俺はすぐさまその2人組にショット岩を放った。
「ぐっ!?」
先陣のやつの足に直撃したが、もう1人の後方の男が多段攻撃を仕掛けてくる。
まずい……!
「ハァ!!!」
もう1人の後方の男も、剣士だった。
剣を上段から振り下ろし、俺に切り掛かるが、渾身のバックステップでギリギリ回避ができた。
「うっ……!《ショット岩》!!!」
すぐにまた放ち、男は燕返しのように剣を振り上げ、俺の魔法を切ろうとする。
だが、無論俺のオリジナル魔法、ショット岩は石を撃つだけだから、魔力はこもっておらず、切るのは不可能だ。
そして、またも足に直撃した。
「ゔっ……」
「はぁ、はぁ、《ショット岩》」
悪いが、これは戦闘だ。
「ぐぁ……!」
もう片方の足もちゃんと折った。
あとは、あの男も戦闘不能にすれば、終わりだ。
「《ウィンドスピ……》」
男の方に振り返り、すぐに魔法を風中級魔法ウィンドスピアを撃とうと思ったが、あいつは恥も外聞もなく、少女を盾として扱っていた。
「……随分と卑怯じゃねーか!!」
「黙れ、今考えてるんだよ」
こいつ……中々の胆力だな。
いや、なんで俺が待ってんだ!
だったら、上空に魔法を撃って衛兵達にアピールを
「《エクスプロ……》」
「待て!これ以上魔法を使ったら、このガキの首を掻っ切るぞ!!」
「……チッ」
ミスった。
こいつに攻撃するより、最初にするべきだったのは、とにかく衛兵達に知らせることだってのに。
「こっちだってお前の仲間がいる!投降して、女の子を解放しろ!じゃないとこいつらの命はないぞ!!」
あいつに負けないくらいの大声で脅したが、あいつは何も気にしてないどころか。
「好きにしろ、そいつらはどうでもいい。黙ってろ」
ブラフとはとても見えないくらい、あいつは堂々としている。
「今度は、俺が待たせてもらうぞ」
今もこいつは随分と考え込んでいるようだ。
あいつは女の子の首を掴んで盾にしているから、見てて気が気じゃなくなる……
……落ち着け、俺もこの時間で考えさせてもらおう。
距離感は4メートルくらい、俺が有利だ。
逃げたとしても、ウィンドサーチが展開されてるから、簡単に逃げられはしない。
仲間も2人戦闘不能だ。
だが、応援が来られるのもまずい。衛兵が来るまで長期戦をしかけるか、短期戦をしかけるか……
……ここまできたなら、絶対に助けてやる。




