第3話 舞台の裏、秘密の筆跡
八時の鐘が鳴る前、私は既に舞台裏に立っていた。
今日も、公開婚約破棄の儀式が始まる——しかし、昨日までとは違う。昨日の改稿が、王子の眉間のしわを消し、聖女の目を泳がせた影響で、空気に小さな亀裂が走っているのだ。
「ユリア、今日も……」
扉の向こうから王子の声が聞こえる。私は軽く息を整え、扇子を握る手に力を込めた。
昨日の私の小さな改稿——王子の台詞の途中停止、聖女の目の逸らし——は、観客にとって些細な違和感に過ぎない。しかし、私はその些細な違和感の積み重ねが、やがて大きな波紋になることを知っている。
舞台下の床板を押さえ、私は《フォルトゥナ・スクリプト》の端をめくる。
昨日の私の書き込みが残っている——そして、その隣に別の筆跡が浮かんでいることに気づいた。
——誰の筆跡だろう。
文字は私には読めない。だが、確かに、誰かが私の改稿を待っていたかのように、次の行を準備している。
「面白い……」
私は小さくつぶやいた。舞台は、私だけのものではなかった。
八時の鐘が鳴る。大広間の空気が重く揺れる。
王子リヴィウスが言葉を紡ぎ出す。
「ユリア・ノートン、君との婚約を——」
途中で、王子の声が微かに引っかかる。昨日の改稿の効果が、まだ残っているのだ。
観客席はざわめき、聖女アイリーンは眉をひそめる。目の端で私を追いながら、心の中で何かを計算しているのがわかる。
私は扇子を握りしめ、床下の白紙に鉛筆を走らせる。
王子、台詞を途中で詰まらせる/聖女、微笑を抑える
すると王子は、一瞬だけ目を逸らす。聖女の唇は震え、笑みを作る努力が見える。
小さなざまぁは、舞台の上で着実に拡大している。
だが、私は知っている——昨日までは、すべて計算できた。
今日、舞台の裏にもう一つの筆跡が現れたことで、未来は少しだけ不確定になった。
「誰……?」
私は心の中で問いかける。観客も、王子も、聖女も、誰も知らない。舞台の裏で、誰かが私の運命を書き換えようとしている。
鐘が八時一分を指す。空気が止まり、すべてが固まる瞬間、私は最後の一行を床下の白紙に書き込む。
誰が書こうとも、私が今日の舞台を支配する。
その瞬間、舞台は微かに揺れた。王子の目が一瞬だけ鋭くなる。聖女の瞳が、私を捕らえる。
——このざまぁは、まだ序章に過ぎない。
だが、今日、私は世界の裏に潜む筆跡の存在を知った。
そして、次の改稿で、もっと大きな因果を巻き起こすことを決意する——。
扇子の影で微笑みながら、私は心の中でつぶやく。
「世界は、私の台本と、私以外の誰かの筆跡で……ますます面白くなる。」