第4話 脱力ゆとりギャルのお世話
朝のホームルーム終わり、1時限目までのわずかな余暇で教室は浮き足立つ。
江口は友達の席に行って何かを話しているようだ。
ほんのり騒がしい教室で、僕は一時限目の授業の準備中。
百環は例によって突っ伏したまま動かない。
しかし時折、咳をしている。
その時だ。
「ん……」
百環はおもむろに、机のフックに掛けている鞄に手を伸ばす。
「んっ……ふんっ」
何かを取り出そうとしているのだろう。
頬を膨らませ、顔を紅潮させ、短い腕を必死に伸ばして鞄の中を弄っている。
と思いきや。
「……はぁ」
諦めた。
へにゃった顔で、鞄に手を突っ込んだままうなだれる百環。
何がしたかったのか。
「……ふんっ」
再度挑戦。
気を取り直して鞄の中をガサゴソと探る。
そこまでして一体何を求めているのだろう。
いやいや。何を実況しているんだ僕は。
気にしないと決めただろ。
自業自得の風邪っぴきに優しくしてどうする。無視だ無視。
と、自戒している間に百環は、目的の物を取り出していた。
ペットボトルのルイボスティーだ。
喉を潤そうとしているのなら殊勝な心がけである。
ペットボトルに引っかかっていた髪ゴムがその拍子に床に落ちたが、百環はまったく気づいていない。
ともあれ百環が事を終えたので、僕も心置きなく授業の準備ができる。
と、思っていたが……。
「ふっ……ふんん……」
百環のミッションはまだ終わっていなかった。
未開封なのだろう。
百環はプルプル震えながらペットボトルの蓋を開けようとするも、開かない。
先ほどよりもいっそう顔を真っ赤にして、ペットボトルと格闘している。
しかしびくともしない。
非力すぎるだろ。
「はぁ、はぁ…………むっ」
百環は息を切らしながら、ペットボトルを睨む。
ペットボトルにメンチを切っている。
何の意味があるのか。ひとりで何をやっているのか。
そうして再び蓋に手をかけるも、全然開かない。
教室内が束の間の解放感に包まれている中、脱力ゆとりギャルvsペットボトルという世紀の珍勝負が展開していた。
「……………………」
また気にしてしまっている。
そう自覚した時にはもう、悔しさの延長線上にある諦めが、僕の中の正しさに、無視できないほど大きな影を落としていた。
「はぁ……」
敗北を認め、百環が未開封のペットボトルを鞄に戻そうとした、その瞬間――。
「え?」
僕は百環の手からペットボトルを奪って、パキッと蓋を開けて、少しだけ閉めて、百環の机に置いた。
ついでに床に落ちた髪ゴムも拾って同じく机に置いた。
「…………」
一連の行動を無言で、百環の顔を見ることもなく行ったのは、自分で定めた取り決めに反して自業自得の風邪っぴきに優しくしてしまった決まり悪さからだ。
あとちょっとだけ気恥ずかしかったからだ。
チラリと横目で見ると、百環はペットボトルを手に、じっと僕を見つめている。
「ありがと」
「……うん」
先生がやってきた。
クラスメイトたちは席につき、雰囲気が引き締まる。
一方で、僕と百環の間の空気はどうしてか、ほんのり弛緩したままだ。
最後にもう一度、百環に目を向けてみる。
「んふ」
彼女の笑顔を、僕はその時初めて見た。
***
ずっと入りにくいと思っていた店が、一度入ってしまえばそれ以降は躊躇していたのがウソのようにズカズカと入っていけるようになる、みたいな出来事が人生の中には溢れているらしい。
高1の時分であるがゆえ、まだあまり経験はないけれど。
しかし、どうやら今の僕は、それに近い状況にあるらしい。
「百環、ハンカチ落ちてる」
「んぁ」
休み時間、トイレから戻ると百環の座のそばに、ハンカチが落ちていた。
拾ってやると、その感触に僕は違和感を覚える。
「百環、これいつから洗ってない?」
「わかんない」
「……今日はもうハンカチを使わないようにな。ポケットティッシュやるから。帰ったらすぐにこのハンカチ洗うんだぞ」
「んー」
百環は、見るからにもちもちな頬に手で杖をつき、起きてるのか寝てるのか分からない顔をしている。
了承したかどうかは定かでないが、ティッシュを受け取ったので良しとしよう。
「あと次は移動教室だけど、場所分かってる?」
「なんでぇ?」
「……何に疑問を持ってるんだ?」
言われなくても分かってるのになんで聞く、との意だろうか。
だとしたら申し訳ない。百環を甘く見積りすぎた。
「なんで、移動するの……ずっとここでいいじゃん……」
違った。
学校教育のシステムに疑問を呈していた。
「実験は化学室じゃなきゃできないだろ」
「むずかしいこと言う……」
「何も難しくない。そろそろ行くぞ。準備しろ」
「んあー」
「はい、早く早く。授業に遅れる」
僕は、ぬっそぬっそと教科書を取り出す百環を急かし、化学室まで誘導する。
きっかけはペットボトルの蓋を開けたこと。ただそれだけ。
だが一度手助けをしたせいか、僕の中で百環の世話を焼くことへのハードルが、グッと下がってしまった。
会話が成立しなかったり、気まぐれで返答がなかったりするせいで彼女と接することを諦めたクラスメイトは多い。
その点僕は、百環の事情など知らず、勝手に世話を焼いているので関係ない。
桃を幼少期の頃から世話してきたのだから、面倒のかかる人の扱いはきっとこのクラスの誰よりも上手いだろう。
ならば僕が買って出よう。
こちとら桃のイヤイヤ期も経験している。ダラダラ期のギャルひとりのお世話くらい、わけないのである。
***
昼休み、僕は友達の席に向かう前に、百環に話しかける。
「百環、今日も菓子パンか?」
「チョココォネ」
そう言って、ビニル袋に入ったチョココロネを見せる百環は、どこか誇らしげだ。
おそらく登校前に、どこかのベーカリーに寄っているのだろう。
毎日何かしらのパンを昼に食べている印象がある。
その顔を見るに、チョココロネの競争率は高いらしい。
「風邪っぴきなんだから、あったかいものも腹に入れときな。ほら」
大きな水筒から紙コップに注ぐと、ふわっと湯気が立つ。
机に置くと、百環は無表情で紙コップに鼻を近づける。
失礼なヤツだ。
「なんこれ」
「卵とほうれん草のスープ。ピタミンとタンパク質と鉄分だ」
「いい匂い」
「そうか。スプーンいるか?」
「いい。あぃがと」
百環はちびっと紙コップを傾け、ほわっとした表情を浮かべた。
「ずっと気になってたんだけどさ、百環」
「なに?」
「ら行を疎かにしていない?」
百環の口から出てくる言葉の中で、本来ら行が登板すべき箇所がたまに、母音になっていることが多い。
『ありがと』が『あぃがと』となる具合に。
「もしかして、ら行習ってない?」
「そんな日本人はいない」
シンプルだが的確なツッコミをもらった。
「ら行は、疲れる」
「ら行は疲れる」
「うん。ら行はあんまり言いたくない」
「そうか、分かった」
「うん」
聞いたことのない理論を突きつけられた僕は、逃げるようにその場から離脱することにした。
ら行は疲れる。
ら行は疲れるのか。
思案しながら友達の席に向かう。
そこで江口とすれ違った。
「やほ、見てたよ。いいなースープ」
「ああ。拒否られなくてホッとした」
「あははー。それにしても、どうしたの今日は。葉山くんずっとちゃみ子ちゃんのこと、気にかけてるじゃん」
やはりクラスメイトからは、そう見えるらしい。
「大きな声じゃ言えないけど……てっきり葉山くんってさ、ちゃみ子ちゃんみたいな子、苦手なのかと思ってたよ。絶対に理解できない人種だろうから」
自他共に認める無個性女子だが、察しは良いらしい。
「だから優しい葉山くんでも、あまり世話焼いたりしないもんだと思ってた」
「僕もそう思ってたんだけどな」
「うん」
「百環を同い年でなく、幼児として見るようにしたら、案外しっくりきた」
「とんでもない思考の転換があったんだねぇ」
そもそも僕は僕がすべきだと思うタスクをするだけで、別に他人のことはどうでも良いタイプだ。
家族以外の他人の世話を焼きたいと思うこともなかったし。
委員長として対応すべき場面では立ち上がるけども。
なので百環に対する行動は、僕自身も意外に思っている。
まるで性格が違う百環に苛立ちを覚えてもおかしくないが、今となっては不思議とそんな感情もない。
当然百環に気があるわけでもないし、何者かへのアピールでもない。
ならば、この感情は……。
「父性なんじゃない? それ」
「……それは違う」
確かに、昔の桃と同じ扱いはしている。
実際父性は近い気がする。
とはいえ、クラスメイトに行き場のない父性をぶつけていると思われるのは嫌だから、否定しておく。
「ま、しいて言えば学級委員長としてのタスクのひとつだよ。隣の席だから声をかけたりするのは何の苦労もないし。今日一日で大体扱いも慣れた」
「学級委員長って、そこまでする役職なのかな……」
江口の疑問も分かるが、僕の中ではそうなのだ。
自分でもどんな心境で百環に接しているのか、うまく言語化できないが、こうした方が僕らしいと僕が思っているのだから仕方がない。
「世話焼きすぎてウザがられるかもだけど、ひとまず全うするよ」
「あはは、もう父性というかオカンだね」
そうしてその日から、僕のタスクがまたひとつ増えた。
脱力ゆとりギャルの、お世話。
願わくば早々に、百環を制御できるようになりたいところである。
***
しかし、その翌日のことだ。
クラスの誰も想像し得ない事態が巻き起こった。
つくづく思う。
僕は百環茶見子という女を、甘く見ていた。