第3話「頑張れ」でいいよ、別に
「あ、おはよーちゃみ子ちゃん!」
「おはよう」
早朝バイトを終えて学校へ。
朝のタスクを終えて担任の先生が来るまでの間、前の席の江口と宿題の確認をしていると、ちゃみ子がぽてぽてとやってきた。
「んあ」
相変わらず挨拶なのか判別し難い返事をすると、ぐてぇっと溶けるように机に突っ伏していく。
そこへ、クラスの男女4人ほどが、ぞろぞろとちゃみ子の席に近づいてきた。
「ちゃみ子ちゃん」
「ん……」
「今日なんだけどさー、放課後カラオケに行くんだけど、一緒にどう?」
「他のクラスに、ちゃみ子ちゃんと遊びたいって人がいてさ」
青春ど真ん中な眩しい誘いに、僕は思わず目が眩みそうになる。
端正な外見からやはりモテるちゃみ子。
入学してまだ数週間なのに、他クラスの男子からも好意を向けられているようだ。
江口と会話を続けながら関心していると、ちゃみ子は返答する。
「んんな……」
返答なのか、これ。
「えっと?」
「いい……」
「行かないってことで、いい?」
「んあ」
ギリ会話が成立したらしい。
青春ど真ん中な男女は苦笑しつつ去っていった。
江口も僕と同様に盗み聞きしていたらしく、小声でちゃみ子に尋ねる。
「何か用事でもあるの?」
「いや」
「じゃあなんで断ったの?」
「疲れる」
「……そっか」
そうして担任が来るまでの束の間、ちゃみ子は眠りにつく。
ちゃみ子にとっては、青春さえも疲れるらしい。
***
放課後の教室にて、僕はさっさと帰り支度をする。
百環も帰るようで、のろのろと荷物を鞄にしまっている。
惰性のようにスマホをぼーっと眺めながら。
一方で今朝ちゃみ子を誘っていたクラスの男女は、楽しげに今日の遊びの計画を確認している。
そんな彼女たちを横目にしつつ、僕は速やかに教室を後にした。
向かったのは、自宅の最寄り駅から少し離れたところにある、スイミングクラブ。
従業員の方々に挨拶しつつ階段を上り、プールの観覧席へ。
すでに座っている顔見知りの保護者の皆さんにも挨拶すると、「入学おめでとう」「ブレザー似合ってるね」などの言葉をいただいた。
分厚い窓から広いプールを見下ろすと、元気な小学生たちがぴちぴちチャパチャパと泳ぎ回っていた。
その中のひとり。
比較的大人しく、先生の言葉のひとつひとつをちゃんと頷いて聞いている女の子がいる。
ふと、彼女は僕を見つけると、途端に表情を晴れさせた。
とっさに手を上げたものの、瞬時に我に返ったのか恥ずかしそうに下ろした。
それでも顔を赤ながら、胸の前で小さく手を振っていた。
彼女が小学5年生の妹、桃だ。
***
「さっくん」
スイミングクラブの玄関先のベンチで座って待っていると、桃がやってきた。
ロングの黒髪の毛先はまだ濡れたままで、塩素の匂いが感じられる。
「おかえり桃」
そう言って笑いかけると、より眩しい笑顔を浮かべてピッタリ隣に座ってくる。
「おかえりさっくん!」
「今日のアイスは?」
「うーん、レモンのやつにしようかなっ」
「さっぱりいきたいんだな」
「さっくんはバニラね」
「僕のも決まってるのか」
「決まってる! えへー」
茜色に染まってゆく空の下、自動販売機で買ったレモンとバニラのアイスを食べながら僕と桃は並んで歩く。
寄り添うようにくっつきながら歩く桃の手は、僕の手を握ったり、腕に手を回したり、服の裾を掴んだり、忙しそうにしていた。
「今日は何を習ったんだ?」
「その前に学校の話〜」
「そうか。学校はどうだった? 新しいクラスは慣れたか?」
「うん、慣れたよっ。かりんちゃんと一緒でよかった〜。今日は給食の揚げ餃子とイチゴを1個ずつ交換した!」
異質なトレードだ。
釣り合っているのかそれ。
「桃がイチゴをあげたのか?」
「うん、イチゴは2個でじゅーぶん! 揚げ餃子の方が好き!」
男子高校生のような味覚の妹である。
「さっくん、バニラ〜」
「ほら」
「あむ。さっくん、今日の晩御飯はー?」
「スーパー行ってから決めるよ。ちなみに何がいい?」
「肉っ」
「だろうなぁ」
「さっくん、バニラ〜」
「ほら」
「あむあむっ。レモン食べる?」
「うん、あむあむ」
「食べすぎっ! あははー」
その後、スーパーで一緒に晩御飯の献立を考えながら買い物。
ふたりで帰宅すると、晩御飯の下ごしらえに、洗濯や風呂掃除。
母親が帰ってきてから調理を始め、3人の食卓で夕食。
桃の宿題をみたり一緒に遊んだりしたのち、自分の宿題と予習復習。
明日は早朝バイトはない。
ただ母親は明日の午後、経営戦略ミーティングとかいうよく分からんが重要そうな会議に参加するようだ。スケジュール共有アプリで見たので確かだろう。
なので弁当もちょっと気合いを入れて作らなければ。
そんなことを考えながら、僕は自室のベッドで眠りについた。
***
これが、僕の日常。
桃のスイミングの迎えがない日は、家事をしたり夕方シフトのバイトをしたり。
高校に入学して1週間だが、きっとこの日々を繰り返していくのだろう。
同級生たちが送る青色の高校生活とは少し異なるが、そこに何の疑問もない。
感じる幸せの量に過不足はなく、課されたタスクはどれも価値のある、十分に充実した理想的な生活と言えるだろう。
他人からはよく、「そこまで頑張らなくても」と言われる。
でもすべて僕のため、あるいは家族のために、自ら進んで行っていることだ。
だからせめて、頑張りを見守るだけでいてほしい。
もっと言うと、放っておいてほしい。
頑張っている人に頑張れと言うのはダメとか、誰が言い始めたのか知らないが、余計なことを言わないでほしい。別にいいよ頑張れで。
頑張れと雑に言われるくらいの距離感が、僕にとってはちょうどいいのだ。
他人に踏み込むことも、踏み込まれることも、今はちょっと相手にしてる余裕がなくて億劫なのだから。
そんな僕だから、しばらくは家族以外の誰とも深い関係を築くことはないだろう。
その時は、そう思っていた。
***
その日、早朝シフトは入っていなかった。
なので家族3人でゆっくりと朝食をとり、教室にはいつものようにホームルーム30分前に到着した。
江口と雑談をしつつ教室の環境を整え、あとは担任の先生がくるのを待つだけ。
そんな、ホームルーム3分前のことだ。
「ちゃみ子ちゃんおはよー」
「んあ……けほっ」
百環は江口の挨拶に応えつつ、乾いた咳をする。
「どうしたの? 風邪?」
「のどいたい」
「えーほんと? 大丈夫?」
「けほっ……れいぼぉ」
「れいぼ?」
百環は席につくとトロけるように突っ伏していく。
一応目は僕たちに向いている。
「お風呂でて……れいぼぉ、つけてねちゃん……」
「つけてねちゃん? 誰?」
頭にハテナを咲かせる江口。
一方で僕は百環の言葉を解読していく。
「もしかして、風呂上がりで冷房つけたまま寝た?」
「そぅ」
「えーーー、昨日の夜そんなに暑かったっけ?」
「お風呂あつくて……」
「まさかとは思うけど、髪とか乾かさずに寝たのか?」
僕がこう尋ねると、百環は悪びれもせず頷いた。
「ドライヤー……だって、めんどくさい」
「…………」
「あちゃー、そんな髪長いのに。そりゃ体調も崩すよー」
「不覚……」
「え、急に武士」
やはりと言うべきか、百環は家でも怠惰極まる生活を送っているみたいだ。
家族は一体何をしているのだろう。
「体調が悪いなら、休んだほうが良かったんじゃないか?」
「だって、みれぃが……」
と、そこまで言うと百環は目を瞑り、電源が切れたようにしゃべらなくなった。
「みれい? 今度こそ誰?」
「んー……」
「よくわかんないけど……しんどくなったら言ってね」
「んぁ……」
江口がそう言ったところで、担任の先生が教室に入ってくる。
僕は江口の後頭部ごしに見える担任の話に耳を傾け、百環に向いてしまっている意識を引き剥がそうとする。
完全に自業自得である。
予期せぬ体調不良ならば心配するところだけど、これは同情の余地もない。
怠惰がゆえに自己管理をないがしろにした結果なのだから、呆れるしかない。
本当に大変そうなら委員長として、江口と共に保健室に連れていくくらいはするけど、それが最低限だ。
「……けほっ」
「…………」
左隣を気にしないようにと心がけ、僕は担任の話に集中し続けた。