第2話 タスクのある愉快な日々
休み時間などは大抵、このように寝て過ごす。
食べるのも教室を移動するのも、すべての行動が遅い。
移動教室の場所が分からずに、一度迷子にもなっていた。
つまりは何に対しても気力がない。
見た目が並外れて可愛いので、入学当初は男女問わず話しかけられていた。
しかしこのように、話すことすら億劫らしく反応は良くない。
そんなだから人もあまり寄り付かなくなった。
当人はまるで悲観的でなさそうだが。
それが、百環茶見子だ。
脱力ゆとりギャルなのだ。
「なんていうか、ちゃみ子ちゃんと葉山くんって隣同士なのに、ザ・正反対だね」
「ああ、間違いないな」
「本当に同じ構成元素で出来てる人間なのか、怪しく思えてくるよ」
髪やメイクなど外見的特徴だけで見ればギャルだが、実態はただひたすらに惰眠を貪る怠惰の権化。
そんな百環の隣の席にいる僕はというと、それなりに気にしてはいるものの、積極的に話かけてはいない。
江口の言う通り正反対の人間であるがゆえ、どう考えても気が合わないからだ。
仲良くなる想像が、こんなにもできないことがあるだろうか。
真面目に一生懸命でいることが正しいなんて思わないが、そこまで無気力でダラけていられる気持ちは、まったく理解できない。
僕にとっては誇張でもなんでもなく、火星人と触れ合うような気分なのだ。
なのでお隣になって1週間、僕と百環は挨拶以外でほぼまともに会話していない。そしてきっとこれからも関わることはないのだろう。
「……………………」
ただ、ひとつ。
僕は百環に対して、強い興味を抱いてしまっている身体の部位がある。
それは初めて彼女を目にした瞬間から、ずっと僕の心を掴んで離さない。
永遠に見つめてしまいそうな、それは――。
「葉山くん、あんまり寝てる女の子を見ちゃダメだよ!」
「あっ……そうだな、すまん」
「まったくまったく、私と話してるのにまったく!」
江口は頬を膨らませ両手を腰に当てるという、むしろ安心できるレベルの典型的な怒りのポーズを見せる。
この無個性女子ムーブが、逆に癖になりそうなところだ。
「とりあえず私はエチチなくしゃみを続けるから、授業中も気を抜かず聞いててね!」
「続けるのか……」
果たして江口は、百環茶見子に匹敵するレベルの個性を手に入れられるかどうか。
心の底からどうでもいいが、江口のために頭の片隅に置いておこう。
そう思っていたが、放課後になる頃には綺麗さっぱり忘れていた。
***
翌日。
枕元に置いたスマホの振動で目を覚ます。
4時50分と激しく主張する画面をタップし、僕は静かに起き上がった。
音を立てぬよう慎重に着替え、顔を洗う。
便器の流水音が鬼門だが、近くの公園までは我慢できそうなので本日はトイレキャンセルを試みる。
玄関の鍵を開ける音も閉じる音も最小で済ませ、家を出た。
「よしっ!」
マンションのエレベーターに乗った途端、僕は自然とガッツポーズする。
世界中の誰ひとり、僕の起床と外出に気づいてない。
明るくなったばかりの空も、祝福するように晴れやかだ。
***
「おはよう、葉山朔くん」
バイト先のカフェのバックヤードに入ると、優しそうな瞳の女性が店のコーヒーカップを片手に、ひらひらと手を振って出迎える。
「山菜さん、おはようございます」
「こんな早朝から、ごくろうさま。この後学校でしょ。えらいね」
「山菜さんも学校じゃないんですか?」
「今日は3限だけだから。大学生なんて気楽なものよ、葉山朔くん」
柔らかな笑顔を浮かべる山菜先輩。
常に微笑んでいるような表情、清潔感のある大人っぽいロングワンピース、長い茶髪はサイドテールでまとめて肩から垂らしている。
口が裂けても言えないが、初めて会った時はご結婚されている方だと思った。
もっと言うと1児の母だと思った。
それくらいの落ち着きがあったのだ。
まさか大学生、しかもまだ未成年だとは思いもしなかった。
僕はロッカーにカバンをしまいながら、ふと山菜さんに尋ねる。
「前から聞きたかったんですけど、なんでフルネームで呼ぶんですか?」
「響きがいいから、葉山朔って。すごく草属性っぽい名前だよね」
「朔って草属性ですか?」
「苔のね、胞子が入った袋みたいなのを朔って言うんだよ。あとほら、朔日草とかもあるから。私の中では朔は草属性なの」
山菜さんは植物に詳しい。
大学でそういった勉強をしているのだとか。
「ちなみに私も草属性。仲良くしよ、しゅっしゅー」
仲良くしようと言いながらはっぱカッターを仕掛けてくる、山菜葵さん。
ここまではお茶目で可愛くて大学生らしいのだが。
「……ちょっと、はしゃぎすぎちゃった」
浮かれた自覚をして照れ始めると、急に人妻感が出るのが不思議だ。
「年甲斐もなく……恥ずかしい」
いや別に、はしゃいでもいい年頃でしょ。
ユニフォームに着替えようと男子更衣室に入ると、同時に山菜さんもお隣の女子更衣室に入る。
薄い壁の向こうから、山菜さんが問いかける。
「今日の葉山朔くんは特にゴキゲンだね」
「え、そう見えますか?」
「うん。もう会うの三回目でしょ。しかも朝勤で会うのは初めて。なのに今まで見た葉山朔くんの中で、一番テンションの高い葉山朔くんだ〜」
山菜さんの声はなんだか嬉しそう。
隠しているつもりもないが、露骨に現れているとなると少し恥ずかしい。
「何かいいことあったの?」
「はい。実はですね……」
ふたり揃ってユニフォームに着替えたのち、ホールで開店準備をしながら、今朝の華麗なるサイレントモーニングを山菜さんに説明する。
すると山菜さんの緩んだ口元は、ピンとまっすぐになっていく。
ひと通り語り終えると、山菜さんは少し考えたのち、短く感想を述べた。
「トイレキャンセルはやめた方がいいよ。膀胱が可哀想だよ」
膀胱の心配をされてしまった。
「そこはまあ、無理のない程度にやっているので」
「それならいいけど……いいのかな? いやどうかな?」
自問自答する山菜さんである。
「昨日も朝勤だったんですけど、トイレの音で母を起こしちゃったんですよ」
「起こしちゃダメなの?」
「申し訳ないじゃないですか。あんな早朝に起こしちゃうのは」
母さんが家を出る時間は8時。
なのに5時前に起こすのは気が引けるというものだ。
山菜さんは「ああ〜」と納得してくれた様子。
「じゃあ今日は、そのリベンジだったんだね。お母さんと妹ちゃんを起こさず見事に家を出られたから、機嫌よかったの」
「そういうことです」
「でも、お母さんもいってらっしゃいくらい言いたいんじゃない?」
「息子としてはそんなことより、しっかり睡眠をとってほしいです」
「孝行息子だー。でも膀胱を考えると……いやどうなのかな? うーん?」
肯定すべきか否か。
ここまで逡巡が目に見えるのも珍しい。
「どう思う?」
僕に聞いてどうする。
「それで自分で使うお金は、全部こうして稼いでるわけね」
山菜先輩は「キュッキュ」とマグカップを磨く。
僕が7歳の頃、妹の桃が2歳の頃に、父親は亡くなった。
そうなれば僕が桃の兄だけでなく、父のような存在になるのは自然の摂理だ。
この店のバイトも、春休み中には面接を終え、入学前には働き始めている。
桃に不自由さを感じさせないため、僕のための金は僕自身で稼ぐと決めたからだ。計算してみたら、学費以外なら意外とどうにかできそうなのだ。
「そ日中は授業を受けて、放課後もバイトしたり家事したり妹ちゃんの面倒をみたりでしょ? 高校生らしからぬどころか、その辺の大人よりもよっぽど働いてるよー」
「半分くらい、好きでやってることですから。タスクをこなすのが楽しいというか」
「あー、根っからの仕事人間なんだ。偉いねぇ」
「タスクがないと、みぞおちあたりがムズムズしちゃうんです」
「偉いというか、変人の部類だったねー」
「えっ」
真面目で勤勉に生きているのに、変人と称されるとはこれいかに。
「何事も度を越せば変人の仲間入りだよ、葉山朔くん」
山菜さんが格言めいたことを言ったところで、本日最初のお客さんが入店した。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
さあ、今日も誠心誠意タスクをこなしていこう。