第26話 濡れた声
夜も更けた頃、僕は桃の部屋に入る。
音を立てぬようゆっくりベッドに近づき、寝ている桃の額の冷却シートを取り替えようとするも……。
「さっくん」
「うわっ、起こしちゃったか」
「えへへ、起きちゃった」
桃は鼻声でそう呟き、にっこりと笑う。
「体の具合はどう?」
「寝る前より良くなった気がする」
「お腹は? 何か食べられそう?」
「うーん……ちょっとなら」
「分かった。雑炊あるから持ってくるな。その間に体温測っといて」
「うん」
キッチンで雑炊を温め、お茶と経口補水液と共に桃の部屋に持っていく。
桃は雑炊をちびちびと食べ始めた。
「味分かるか?」
「うん。鼻詰まってるけど。美味しいよ」
「そっか、よかった」
熱は37度9分。
今朝よりはだいぶ下がって一安心である。
「明日も休んだら、治るかな」
「今のペースなら、そうだな。でも月曜も無理しなくていいぞ」
「やだー。月曜の給食、唐揚げなんだよー」
「はは、そっか。唐揚げ好きだもんな」
風邪を引いていても唐揚げを優先的に考えられる思考なのだから、たくましい限りだ。外見は華奢で儚げな女の子なのに。
「せっかくの土日が……」
僕のせいでごめん、と言いかけて止めた。
そんな謝罪、桃は望んでない。
「残念だな。寝込んで潰れちゃって」
「しょうがないよー。明日はかりんちゃんと電話するし、大丈夫」
「そっか」
「さっくんは明日、バイト?」
「うん。母さんが家にいるから安心して」
「またちゃみ子ちゃんと行きたいな、さっくんのカフェ」
「……そうだな」
ちゃみ子とは、桃が熱を出したことを報告して以降やり取りをしていない。
ちゃみ子も気を遣っているのか、連絡はこない。
土曜はよくアレやってこれ持ってきてとチャットを送ってくるのだが。
「…………」
もうあまり、ちゃみ子のことは考えないようにしよう。
汗でぐちゃぐちゃになった桃の前髪を見ながら、僕はそう思った。
***
日曜日、バイトの帰り道。
雨は降っていないが、星は曇っていて見えない。
自然とポケットに手を突っ込みたくなるほどには寒い。
金土日と平年よりもだいぶ気温が低い。
梅雨入り前は暑いくらいだったのに。身体が変になりそうだ。
「…………」
信号待ちでスマホを確認。
桃からのラインで、もう平熱にまで下がったそう。
明日の朝また様子を見て、問題なければ登校するとのこと。
無理はしてほしくないが、それくらい学校が好きなら嬉しい限りだ。
その時だ。
通話の着信があり、つい癖で出てしまう。
「はい」
『さう』
「あ……ちゃみ子」
久々に声を聞いた気がする。
金曜に家を飛び出した時以来だ。
『桃、元気?』
「ああ。だいぶ良くなってきたってさ。心配してくれてありがとな」
『さう、声が変』
「そうか? バイトで喉使いすぎたかもな」
『んあ』
特に用事があるわけではないらしい。
しいて言えば桃を心配してくれていたのだろう。
チャットじゃなく電話してくるのがちゃみ子らしい。
きっと文章を考えたりするのが、面倒くさかったのだろう。
「ちゃんと髪ケアしてたか?」
『した』
「風呂はこれから?」
『これから。髪洗いに来る?』
「いや……帰らないと」
『そっか』
ひとつ、深呼吸。
そうしてできるだけ抑揚をつけず、告げる。
「ちゃみ子」
『ん?』
「これからは、僕にはもう、あんまり頼るな」
『……んあ?』
表情は見えないが、声色には戸惑いが感じられた。
「改めて考えたけど、やっぱり体裁が良くないだろう。学校でも街でも、男と女であんなくっついて歩いたりしたらさ。膝枕とかも、普通じゃないし」
『…………』
「家に他人の男を上げるのだって、やっぱり良くないよ。親御さんが知ったら心配する」
世間体とか親とか持ち出して、ズルいな僕は。
「だから学校でなら江口とか他の女子に頼れ。きっと喜んで寄りかからせてくれるから。家では、忙しいらしいけどみれいさんに頼るべきだよ。幼馴染なら勝手知ったるだろ」
『さう……?』
ここで不意に、ちゃみ子の声にひんやりとした悲しさが感じられた。
胸が痛む。
が、ここは我慢すべきだ。きっとお互いのためにも。
いや、結局は僕のためなんだけど。
『もしかしたら、ちゃみ子ちゃんのゆるゆる感が移ったのかもね』
冗談のつもりで言ったのだろう、江口のこの発言。
その時は僕も、そんなわけないだろうと思っていたが……決して的外れではなかった。
ちゃみ子といることに慣れた僕は、いつしか心がゆるんでしまっていた。
やけに眠気を催すことが増えたし、あらゆるタスクに対するモチベーションが低下してしまったように感じる。
中間テストにてケアレスミスが多かったのも、意識がたるんでいたからだ。
桃に寂しい思いをさせて、風邪を引かせてしまったのも……。
このままではいけない。
このままでは、時間をかけて構築してきた僕が、僕でなくなってしまう。
桃が心から自慢できる――どこの父親と比べても遜色ない頼れる姿が、崩壊する。
だから僕は、ちゃみ子から距離を取るべきなんだ。
「でもまあ、学校でならたまに頼ってくれ。なんたって委員長だし。勉強を教えるくらいは全然するし」
『髪は?』
「髪は……ほら、もう綺麗になっただろ」
『触りたくないの?』
「……もういいかな」
『軽くしてくれるって言った』
「それは……プロにお願いしよう」
『やだ、さうじゃないと』
「……………………」
『さうがいい』
想定していた以上に、痛みを伴っていた。
今すぐにでも撤回して、何も考えずちゃみ子の家に行ってしまいたいと心が叫ぶ。
だが不意に思い出したのは……。
『あ、さっくん』
スイミングスクールで待っていた、桃の寂しげな表情だった。
「ごめん、ちゃみ子……僕はな、ちゃみ子と違って、やらなきゃいけないことがいっぱいあるんだ」
そういえば、前にちゃみ子が言っていたな。
やらなきゃいけないことなんて、本当はないとか何とか。
そんなわけない。
少なくとも僕にとってここは、そんな世界じゃない。
「頑張らなきゃいけない理由も義務もあるんだ。生きるために。家族のために」
『…………』
スマホからちゃみ子の反応は聞こえない。
小さな息遣いだけがわずかに届く。
『でも』
不意に聞こえたのは、ほんのり濡れた声だ。
『さうが、いいな』
「っ……ごめん、ちゃみ子」
同情心を断ち切るために、僕はそこで通話を切る。
「……………………」
また、雨が降りはじめた。
傘のない僕は、それでも、家まで走る気になれなかった。