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第25話 ゆるすぎた日常

 ちゃみ子のゆるい空気感に呑まれ、普段の生活にもゆとりめいたものが芽生えてきたのを自覚している。


 ふと陽の光を意識すると眠くなったり、朝起きるのが少し億劫になったり、晩ごはんを作るモチベーションが低下して楽なレシピを選んだり。


 あまり良い傾向にないことは分かっていつつも、江口や山菜さんが今の僕を褒めるものだから、「このままでもいいのかな」と受け入れてみたりして。


 そうして、僕の中で意識が揺らいでいた時のことだ。

 小さな事件が起こってしまう。


      ***


「いやー、だいぶまとまってきたな」

「んあ」


 ちゃみ子の毛先を丁寧にカットしつつ、僕はつい自画自賛してしまう。


 金曜日の放課後。

 今日も今日とて僕はちゃみ子宅にて、彼女の髪の手入れをしていく。


 リビングの掃除と並行して行ってきた、ちゃみ子のもあもあ髪の手入れだが、進捗の差は歴然となっていた。


 リビングの掃除は一進一退。

 コツコツ物を片付けたりしても、僕が不在の間にちゃみ子がまた散らかすのだから牛歩の進捗である。


 対して髪の手入れは、後退することはない。ちゃみ子も自ら髪に悪いことをしようとは思わないだろうから。

 シャワーもキチンと毎日浴びて、髪も洗っている。

 たまに乾かすのが面倒で僕を呼び出したりするが。


 そんなわけで、契約を結んで1ヶ月が経ち、ちゃみ子の髪は目に見えて綺麗になった。

 これはもう確実に僕の手柄だ。

 僕の作品とまで言っていいだろう。


「いやー、何度触っても良い髪質だな。ちょうどいいパーマがかかってて」

「ふぅん」

「高い金をかけてこういうパーマを作る人もいるんだから、ほんと貴重な髪質だよ。大事にするんだぞ」

「ジメジメしてきたし、ショートにしてもいい?」

「ダメに決まってんだろ。お前に髪型を決める権利はない」

「えー」

「これ、僕の髪だから」

「こわいぃ」


 自分でもえらくイカれたことを言ったと自覚しているが、本心なのだから仕方がない。


 ここまで1ヶ月かけて育てたのは僕だ。

 僕の許可なしにバッサリいくなんて許さない。


 いやでも、ショートも似合うだろうなぁこの髪は。


「んふ……依然として変態」

「悪かったな。変態は不滅なんだよ」


 くすくすと笑うちゃみ子。

 最初からショートにする気などないのだろう。

 ちゃみ子が憧れているギャル像は、金髪ロングなのだから。

 いくら洗ったり乾かしたりするのが面倒くさくても、ショートにまですることは絶対にないと思われる。


 つまりは僕をからかっただけ。

 僕の変態性を確かめるだけの発言だったのである。変態を弄ぶとは、許し難いギャルである。


「ただまあ梅雨入りしたし、もう少し軽くしてもいいかもな。更に湿度が上がってきたらボワボワに広がるだろうし」

「ん……お好きに」


 窓の外を見ると、雨が降り始めている。

 折り畳み傘を持ってきておいてよかった。


 嫌な季節である。

 気分的にも、髪にとっても。


「さう、毛布とって」

「ほら。今日はちょっと寒いな」

「うん……さうも入る?」


 ソファからの誘惑である。

 一緒の毛布に入る必要はないが、仮眠したい気分ではある。

 金曜だからか低気圧のせいか、身体の疲労感は拭えない。


「でもこの後、桃の迎えがあるしなぁ……」


 金曜日は桃のスイミングスクールの日。迎えに行くタスクがあるのだ。


「まだ大丈夫でしょ?」


 ちゃみ子の言う通り、およそ40分後にこの家を出れば十分に間に合う。

 しかしその40分で、掃除をしようと思っていたんだけど……。


「おいで」

「うわっ」


 悩んでいる隙を突かれ、毛布に包まったソファの妖怪に引きずり込まれる。


 僕を湯たんぽ代わりにするつもりだろう。

 ちゃみ子は抱きしめるように密着する。


「おい」

「おやすみさう」

「聞けよ、まったく……」

「んふ」


 観念した僕は、アラームを30分後にセットする。


 ソファに座って毛布に包まれた瞬間、疲労と低気圧からくる眠気に僕は、逆らえる気がしなかった。


 掃除はまた今度でいいか。

 そうしてあっという間に僕は、夢の中へ誘われていった。


      ***


「――ん?」


 目が覚めたのは、アラームの音が鳴ったからではなく、不意のことだ。


 随分と眠った気がするが、アラームが鳴っていないということはまだ30分が経っていないということだろう。

 そう思いつつ一度スマホを確認する。


「……え?」


 血の気が引いた。

 ここを出るべき時間から、1時間も過ぎていた。


「ウソだろ、なんでっ……⁉︎」


 アラームを確認すると、誤って音なしで設定していたことに気づく。

 それでも振動していたはずだが、どうやら気づかなかったようだ。


 そしてラインの通知音もまた、マナーモードにしていたため気づかなかった。

 すでに何件か、桃からチャットが届いていた。


「んぁ……さう?」


 動揺する僕に、寝起きのちゃみ子は首を傾げる。


「ね、寝過ぎた!」

「さう」

「行かないと!」


 そう言って僕は、ちゃみ子の顔も見ないまま、慌てて荷物をまとめて家を出た。

 エレベーターの中でチャットを確認。


『さっくん、まだ?』

『ちゃみ子ちゃんのとこ?』

『スクールで待ってるね』


 連続で送信されたチャットを見て、胸が張り裂けそうになる。


『今すぐ行くから、待ってて』


 マンションのエントランスを出た途端、冷たい風が吹いて、雨粒が全身を殴りつける。

 もう六月なのに、身体が縮こまるような寒さだ。


 こういう時に限ってタクシーを拾えない。

 ちょうど帰宅時間と重なって、天気もあり、駅前のタクシーロータリーには長蛇の列ができていた。


 悩んでいる時間ももったいないと、僕は走っていくことを決めた。


 そうしてちゃみ子の家を出て15分後、スイミングスクールに到着した。


「あ、さっくん」

「桃、ごめん……っ!」


 桃は屋内のベンチで座っていた。髪は濡れたままで、頬がほんのり赤い気がする。

 1時間近くも待たされていたのに、桃は僕に笑顔を向ける。


「どうしたの? 寝ちゃった?」

「……うん、本当にごめん」

「あはは、よかったー。事故とかに遭ってたらどうしようって、不安だったんだ」

「っ……」

「あ、でも……プールから出たのに髪洗うの遅れちゃったね。これじゃさっくんの好きな髪じゃなくなっちゃうかな?」

「そんなことないっ、そんなこと……」


 その後、スクールの人にタクシーを呼んでもらい、帰宅した。


 スクールの人は何度か桃を気遣ってタクシーを呼ぼうかと言ったが、桃は僕が来るはずだからとそれを拒み、ひとりで歩いて帰ることもなく、ただただ待っていたという。


 その日の夜から、桃は熱を出した。

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