第22話 ちゃみ子と葉山兄妹
「おじゃましまーす」
桃はその玄関に入ると、礼儀正しく挨拶。
すると不意に桃は、僕に咎めるような目を向ける。
「さっくん、挨拶は?」
「あっ、お邪魔します……」
毎日のように来ているせいか、他人の家という感覚がぼやけてしまっていた。
「んあ」
家主は鳴き声のような返事を放つと、リビングへ向かっていく。
まさか兄妹そろって、ちゃみ子の家に上がる日が来ようとは。
人生はまったく何があるか分からないな。
「わぁ……」
桃が漏らしたその声には、どのような感情が込められているのだろう。
部屋の広さへの感嘆か、部屋の汚さへの驚嘆か。
僕は、後者だと思う。
「これ」
「ああ、本当だ。同じものだな」
ソファに放ってあったパジャマは、ちゃみ子が先ほど買った商品とまったく同じ素材で同じ柄。サイズだけが異なるようだ。
「桃、あげる」
ちゃみ子はソファからそのパジャマを、ペイっと桃に放る。
受け取った桃は、少し戸惑っていた。
「え、でも……」
「返品するの、めんどくさいし」
「桃、もらってやれ。ちゃみ子は面倒くさいことが何よりも嫌いなんだ」
「そうだぁ」
「ちゃみ子を返品の呪縛から救ってやるために、受け取れ」
「救えぇ」
僕とちゃみ子のかけ合いに、桃はくすくすと笑う。
そうして観念したらしく、受け取ったパジャマを丁寧に畳み始めた。
「じゃあ、もらいます。ちゃみ子さん、ありがとうございます」
「やだ」
「えっ」
まさか突然の心変わりか、と思いきや、別の部分への拒絶だった。
「敬語やだ。『さん』もやだ」
「桃、敬語は疲れるんだって」
「え、聞く方も?」
「そうだ。聞く方も疲れるんだ。だから馴れ馴れしくしてやってくれ」
「くれぇ」
それにはちょっと勇気がいるらしく、桃は口をモゴモゴさせる。
それでも、ちゃんとお礼を言わなきゃと、小さく呟いた。
「ちゃみ子ちゃん、ありがとう」
「んあー。おそろぉ」
「あ、うん。お揃い……だね」
桃はどこか、こそばゆそうに笑った。
よかった。
あの店で桃と遭遇した時はどうなることかと思ったけれど、結果として桃にパジャマを与えられたし、ちゃみ子とも友好的な関係が始められそうだ。
桃がパジャマを畳んでいる間に、僕はちゃみ子に耳打ちする。
「パジャマの金、後で払うからな」
「いらない」
「でも、返品するやつだったなら……」
「そういうの、面倒くさい」
「…………」
面倒くさい面倒くさがりである。
「じゃあ何かで埋め合わせするからな」
「んふ、さうのこと好きにしていいの?」
しまった。
マズい権利を与えてしまった。
桃のパジャマの肩代わりとして、僕は一体何をさせられるのか。
てかそれなら、素直に金を受け取ってもらった方が良かったのでは。
「何話してるの?」
こそこそ話をしているところ、桃が目ざとく発見する。
なんだかちょっと、桃の目の色が変わったような……。
「いや、どうでもいいことだよ」
「本当に?」
「本当だって。次はどこを掃除しようかとかさ」
「え?」
そこで不意に、桃は目を丸くする。
そして散らかったリビングを見回した。
「さっくん、このお部屋の掃除とかしてるの?」
「え、うん。そうだけど……」
どうしてか空気が変わった。
桃の表情から明るさが消える。
「もしかしてこの家のこと、いろいろやってるの? そんな頻繁にこの家に来てるの?」
「それはほら……ちゃみ子も両親がいなくて大変そうだから」
「さっくん、うちのこととかバイトとか、いっぱい頑張ってるのに……」
そこで、桃の心情に気付いた。
桃も理解しているのだ。
僕が普通の男子高校生とは違い、家族のために家事やバイトに勤しんでいることに。
それを後ろ暗く思っていたのだろう。
桃もまた家族思いで優しいから。
それゆえ、また別の家で家事などをしている事実には、引っかかるものがあるようだ。
「さっくん、頑張りすぎないでねって、いつも言ってるじゃん」
「いや、まあ……」
実際のところ、ただボランティアでこの家のことをしているわけではない。
ちゃみ子の髪を好きにできる、という対価のもと行っている。
だがそれを桃に言えるはずもなく。
ちゃみ子は無表情で、僕らのやりとりを眺めている。
さすがに空気を察しているのか、割って入ってきたり、眠そうな挙動は見せていない。
さて、どうしたものか。どう誤魔化すべきか。
桃に問い詰められながら思案する。
「さっくんがどうしても、ちゃみ子ちゃんの家のことが気になるのなら、私も……」
ただこういう時、とっさに口をつくのは――剥き出しの本音なのだろう。
「僕にはこの時間が、必要なんだ」
桃を遮って出た言葉は、自分でも予想外の回答だった。
なので自身も戸惑ってしまう。
当然桃も「え?」と首を傾げた。
「えっとな……」
「桃、見て」
そうして次の言葉に迷っていたところ、ちゃみ子が割って入ってきた。
「この写真」
「え、これ……」
ちゃみ子はスマホを桃に見せる。
僕も気になって、桃の後ろから覗き込む。
そこに映されていたのはなんと、僕の寝顔だ。
「おいなんだそれ! いつ撮った!」
「んふ……ここで昼寝したとき」
ちゃみ子はソファをポンポンと叩く。
あの時か。
いつだかの土曜日、カーテンから差し込む陽の誘惑に負け、ソファで眠りこけてしまったのだ。
まさか寝顔を写真に収められていたとは。
「さっくん……寝てる」
「うん、かわいいよね」
ちゃみ子の中では可愛い判定なのか、その顔は。
「さっくんのこんな緩んだ顔、最近見ない……」
「そ、そうか?」
「だってさっくん、いつも私より先に起きてるし……昼寝してるのも、見たことない」
確かに、昼寝なんてこの時以前、いつしたかも覚えていない。
「……こういう時間が、必要ってこと」
「いや、まあ……」
実際には、ちゃみ子の髪をいじっている時間が必要、ということなのだが、そんなこと言えるはずがない。
兄の変態性をこんなところで露呈するわけにはいかない。
僕は核心には触れないよう、丁寧に話す。
「……言っとくけど、家にいたら休めないとか、そんなことは一切ないからな。結局一番心が休まるのは、桃と母さんといるあの家なんだから」
「…………」
「でもまあ……この家でしか得られない時間も、あるんだ」
ウチでは実現できない唯一無二の時間がここにある。
そこにウソはない。
そんな主張にちゃみ子は、小さく笑う。
その裏にある僕の変態性を笑っているのかと思いきや、ほんのり嬉しそうにも見えた。
「…………」
対して桃は、神妙な面持ちのままだ。
やはり僕は自宅以外でも家事タスクをこなしていることは、看過できないのだろうか。たとえそこが憩いの場であっても。
そう思っていたが……どうやら真実は、もっと複雑だったようだ。
「……さっくんの気持ちはよく分かったよ。ここが大事な場所だってことも。こんな寝顔を見せられたらね」
「桃……」
「だから、さっくんがこの家に来ることに関しては、もう何も言わないよ」
桃は、柔らかな笑顔を浮かべた。
そんな大人な表情をできるようになったのかと、思わず目頭が熱くなった。
声は震えてしまいそうだったので、僕は桃の頭を撫でることでしか、この感情を表せなかった。
「でもちゃみ子ちゃん……これだけは言わせて」
「んあ?」
「さっくんはね――」
次の瞬間、桃は目を見開いて、ちゃみ子に向かって力強く言い放つ。
「すっごい変態さんなんだよっ!」
「⁉︎⁉︎⁉︎」