第1話 隣の変なギャル
ホームルームの30分前の教室には、まだ生徒は1人しかいない。
教室に入ると、そのたった1人の女子に向かって声をかける。
「おはよう、江口」
「あ、おはよう葉山くん」
江口なぎ。僕の前の席の女子だ。
顔のフォルムが丸っこく見えるのは、切り揃えられたボブカットのせいだろう。
制服を着崩すことなくきちんと着ているところが、好感を持てる。
「今日はバイト終わり? 偉いねー」
「江口も毎朝かかさず自習して偉いから、お互い様だよ」
「えへへ、お互い様〜」
江口は毎日これくらいの時間には教室に着いていて、せっせと勉強をしている。
クラスでも随一の真面目な女の子である。
「今日はグラマーの小テストがあるからねー。葉山くんは勉強した?」
「昨日ひと通り教科書をさらったかな。でも飯島先生って意地悪な出題するからな」
「ほんとそれー。一筋縄じゃいかないよね」
雑談を終えると、僕は江口の勉強の邪魔にならないよう静かにタスクをこなす。
チョークの跡を1ミリも残さず隅から隅まで黒板を拭き、モップで床を拭いて一周し、花に水をやり、カーテンにファブ◯ーズを吹きかける等。
「何か手伝おうか?」
ふと江口がこう尋ねてくる。
「ごめん、気が散った?」
「ぜんぜんっ。出題範囲はだいたい復習できたからさ」
「そっか。でももう、あと少しだから大丈夫」
僕は教壇を水拭きしながらこう答えた。
「毎朝こうやって教室の掃除をしたりしてさ、偉すぎるよ葉山くん」
「学級委員長だからな」
「学級委員長に課された仕事内容に入ってないでしょ、それ」
江口の言う通り、これらのタスクは担任などから課されたわけではない。
学級委員長の必須タスクなんて、ホームルームを仕切るとか、号令をするとか、先生にちょっとした雑用を頼まれるとか、そんなものだ。
そんな瑣末な仕事量でクラスの代表を名乗るのは、僕の魂が許せない。
「いろいろ気になる性格でさ。黒板の端が消え切れてないとか、時計に埃が被ってたりとか、本棚の本が順番通りじゃないとか、そういうの見るとムズムズするんだよ。要は自己満足だ」
「みんなのためになる自己満足は素晴らしいことだよー。葉山くんはよく先生のミスとかも指摘してくれるから、ほんとに助かってる。ありがとねいつも」
江口は無垢な笑顔を浮かべる。
彼女がこうして僕のタスクに感謝してくれた回数は、片手では数えきれない。
誰のためでもなく僕のためにやっていることではあるが、感謝を言葉にされると嬉しいものなのだなと、当たり前のことを彼女からよく教わっている。
「そんな葉山くんと比べて、私はなー」
江口の笑顔はやおら苦笑に変わっていく。
「なんていうか、個性がないよねー」
「そんなことはないだろ。真面目でしっかりしてるし」
「真面目でしっかりしてる人なんて、この世に20億人くらいいるよ」
そんな世界規模の話だったのか。
「それに真面目って言っても、葉山くんほどしっかりしてないし。見た目も普通、性格も普通、運動神経も普通、ぜんぶ普通。普通づくめの人間ですよ私は」
「そんなに自分を卑下しなくても……」
どうやら江口は、影が薄いらしい。
僕は席が前後ろなので常に存在を認識しているが、他の人からしたら違うらしい。
なぜなら入学してまだ1週間だが、教師やクラスメイトが彼女の存在を忘れられる事態がすでに3回ほど発生している。
初日の自己紹介にて、順番が飛ばされていたことに僕以外の誰も気づかず、教室全体が申し訳なさそうな空気に包まれる中で特技の早口言葉を披露した江口の姿が、今でも記憶に深く刻まれている。
ちなみに早口言葉はうっすら失敗していた。
「そこでね葉山くん、私は考えたんだ。無個性から脱するためには、何らかの個性を身につけるべきなんだって」
個性って自然と身についているものだと思っていたが、後から外付けできるものだったとは知らなかった。
「たとえばどんな個性?」
「くしゃみがエチチってのはどうかな?」
「……なんて?」
「くしゃみがエチチ」
「…………」
エチチとはつまり性的ということだろう。
言葉としては分かっても、なかなか理解には至らない。
何を言っているんだろうこの子は。
「それが個性……?」
「うん。くしゃみがエチチな人って、今のところクラスにいないでしょ。その枠が空いているうちに、もらっちゃおうと思って!」
そんな需要のない枠はきっと未来永劫、埋まることはないと思う。
だがそう語る江口のキラキラした瞳を見てしまうと、無碍にもできない。
本当にいいというのか。
くしゃみがエチチな女という個性で、後悔しないか高校生活。
「あ、ちょうどくしゃみ出そう! 試しにやってみるから、葉山くん判定して!」
「な、何を……?」
「あっ、出そう出そうっ――」
ぼちぼちクラスメイトたちも登校してきた中、朝からエチチなくしゃみをぶっ放そうとする江口。
しかし、その時だ。
「……っ」
その横を通る小さくフワフワとした存在に、僕は目を奪われた。
とっさに、声をかける。
「おはよう、百環」
「……んおあ」
返事したのかどうかも定かでない。
そんな鳴き声を漏らすと彼女は、ぽてぽてと僕の隣である窓際の席につく。「はぁあぁんっ、しょんっ!」座った途端、彼女はまるで力尽きように突っ伏して動かなくなった。
「……………………」
僕の隣の席には、変なギャルがいる。
ふわふわとした癖っ毛の金髪ロング。
着崩したブレザー、短いスカート。
身長は140センチ前半ほどだが、胸だけやけに大きなアンバランスな体型。
その名は、百環茶見子。
ちゃみ子と呼ばれている。
入学して1週間、隣の席の彼女を、僕は自然とモニタリングしてしまっていた。
観察結果を端的に言い表すなら、こうだ。
百環茶見子は、脱力ゆとりギャルである。
「ねえ、ねえってば葉山くん!」
「おわっ」
突如として江口の声が思考に割り込む。
少し前から話しかけていたようだ。
「聞いてた? 私のエチチなくしゃみ」
「あ、あー……うん。聞いてた、と思う」
うっすらとだが、百環と挨拶を交わした直後、奇妙なくしゃみ音が聞こえたような聞こえていないような。
「あーそっかぁ」
江口は僕とちゃみ子を見比べると、諦観の表情を浮かべる。
「仕方ないよねぇ、圧倒的な個性が登場しちゃったら」
「えっと……」
「とんでもなくエチチでも、無個性な私のくしゃみなんて消し飛んじゃうよね」
「いや、その……ごめん」
あとたぶん、そんなにエチチでもなかった。
「もはや悔しくもないよね。ちゃみ子ちゃんは個性の塊だから」
自分の話をされているにもかかわらず、百環はいまだ机に突っ伏して、かすかに寝息を立てている。
「おーい、ちゃみ子ちゃん。そろそろ先生来るよー」
江口がそう言って揺さぶると、百環はゆっくりゆっくりと、朝日が昇るような速度で顔を上げていく。
眠そうな瞳と目が合った。
その半目は寝起きだからでなく、デフォルトである。
百環は常日頃から半分閉じているような目をしているのだ。
とはいえ顔の造形は恐ろしいほど整っていて、最初に見た時はつい二度見した。
こんな可愛い顔を人生で僕は初めて見たくらいだ。
その百環は江口の呼びかけに対し、もにょもにょと何か言っている。
僕と江口が耳を近づけると、わずかに聞こえた。
「来たら……起こし、え」
もう『て』を言う気力もないらしい。
子音が剥がれている。
「ギリギリまで寝てたいの?」
「んあ」
「分かったよ。起こしちゃってごめんね」
「んん」
ギリ成り立っている会話は終わり、百環は再び顔を腕に埋めて眠りについた。
「これが、圧倒的個性……こんな怪物と私は、1年間クラスを共にするのかっ!」
江口が生唾を飲むのも無理はない。
これが百環茶見子なのだ。