第10話 業深き髪フェチ
――チョキ、チョキ。
丁寧に丁寧に、僕はちゃみ子の髪の毛先をカットしていく。
「相変わらず、すごいボリュームだな……」
「そう?」
「あの食生活で、なんでこんなに量が増えるんだ。やっぱ一度プロの人に梳いてもらった方がいいんじゃないか?」
「美容院行くのめんどくさい。さうがやって」
「うーん……分かった。次は梳きバサミを持ってくる」
素人の、しかも異性の他人に髪を切られながらも、ちゃみ子はまったく気にせずドラマをボーっと見ている。
その間も、散髪用のケープにちゃみ子の毛先の束が落ちていく。
溝に溜まったフワフワの髪は、かき集めるとこぶし大よりも大きく膨らんだ。
「おお……っ!」
それを見ると、僕の中でストレス値が一気に低下していくのが感じられた。
これが、対価なのだ。
***
「おっぱい触りたい?」
「……は?」
「いいよ。さうが触りたいなら」
昨日のことだ。
そう言って大きな乳房を持ち上げるちゃみ子に、僕は動揺した。
「バ、バカなこと言うんじゃ……」
「お返し、だから」
「っ……」
「でも……痛くしないでね」
その瞬間、僕の欲望は本能のままに、弾けた。
「ちゃみ子」
「ん……」
「ごめん、ちゃみ子……っ」
僕はちゃみ子の柔らかなそれを、優しく持ち上げて、告げた。
「僕はちゃみ子の髪を――好きなだけ弄りたい」
「…………んあ?」
ちゃみ子はその大きな目を、まんまるにさせる。
「だからもし、ちゃみ子の世話をする代わりに、何かを差し出してくれると言うなら……その髪を僕の自由にさせてくれっ!」
「……………………」
きっと想像だにしていなかっただろう、この提案。
それを受けてちゃみ子は、答えに迷っているのか、呆気に取られているのか、無表情のまま少し沈黙する。
そうして出した結論は……。
「かわいくしてくれるなら、いいよ」
***
そんなわけで、僕は学校や家でちゃみ子の面倒をみる見返りとして、こうしてちゃみ子の髪を切ったり整えさせてもらっている。
ちゃみ子はソファに座り、されるがままだ。
「さう、楽しい?」
「ああ、楽しい」
「変なの」
「自覚はしてる」
さて。
ひとつ余談だが、髪フェチにも様々ある。
とにかく長い髪、サラサラと流れるような髪、艶のある黒髪など。
長さや髪質や髪色の好みは十人十色だろう。
僕はというと、ふわふわ癖っ毛のロングヘアが大好きだ。
「さう、私の髪好き?」
「ああ、最高の髪だ」
「んふ」
そう、ちゃみ子の髪は、まさに僕の好みを具現化したような代物である。
キツすぎないウェーブのかかった、天然の癖っ毛。
毛量も多く、ふわふわを通り越してもあもあとしている。
日本人ではあまり見ないタイプの髪だ。
ウチは直毛の家系なので、こういった髪に憧れがあるのかもしれない。
実は初めて会った時から、僕はちゃみ子の髪にばかり注目していた。
偶然にも隣の席になった女子が、僕にとって最上級の髪を靡かせているのだから当然だろう。
なのでこうしてちゃみ子の髪に触れていられるのは、夢にまで見た状況と言える。
「ああもう、こっちも枝毛だ……ちゃんとケアしてないからだぞ」
「んあー」
「トリートメントとかしてるのか?」
「なんか、みれぃにすすめられたヤツを、たまに」
「毎日するんだよ」
そして、髪フェチの厄介な生態が、もうひとつ。
自分にとって極上の髪が目の前にあったなら、どうしたいか。
撫でたいのか、嗅ぎたいのか、絞められたいのか。
そういった議題も、こちらの界隈では盛んに論じられている。
僕は、触りたいし嗅ぎたい上に、手入れもしたいタイプだ。
傷んでいる毛先をカットして整えたり、トリートメントで髪質を高めたり、ふわふわになるようブローしたり。
要は美容師さんの真似事がしたいのだ。
僕の手で綺麗な髪に仕上げたいのだ。
そういう欲求に駆られ続けて、これまで生きてきたのだ。
真面目で我慢強い人間であることを自負しているが、この偏愛だけは、抗うことができない。
これが僕のカルマなのだろう。
「んふ……さう、変態」
「おい」
「変態って意外と普通の身なりで、その辺にいるんだね」
「ああそうだよ。気をつけろよ。変態はそこらじゅうにいるからな」
「さうの他にもね」
「そうだな! 僕の他にもな!」
いつもヘニャヘニャのくせに、たまに的確に刺してくるの何なんだよ。
とはいえちゃみ子の言う通り、自身が一種の変態であることは自覚していた。
ただ綺麗な髪に見ていたい、触れたいだけだったらいいが、僕の場合そこに切りたい、整えたいという欲望も乗っかっている。
ちゃみ子のような髪でなくても、ボサボサだったり手入れが行き届いていない様を見ると、無性に綺麗にしたくなる。
巻数がバラバラの本棚を見た時のように。
「余計なお世話だぁ」
「さっきから言葉が強いな、おい」
「んふんふ」
変態に厳しいちゃみ子である。
そんな性癖を自覚してはいたが、一切表には出してこなかった。
何かこう、僕のような真面目で品行方正な人間が歪んだ性癖を持っていたら、より一層引かれそうじゃん?
何より、言ったところで解消されることのない欲求だ。
どこの女子が素人に髪を切らせるというのか。
そもそも免許がなければ、法に抵触する可能性もあるし。
しかし幸運にも、この悲しき欲望を解放できる機会が、目の前に降ってきた。
それがこの『対価』である。
僕に身の回りの世話を求めるのが奇跡的に、最高の髪を持った女子だったのだ。
「うぃんうぃん」
「ああ、そうだな」
「んふ……よかったね、さう」
「お前もな。よし、今日はこんなところかな」
髪全体を見れば、まだまだ完璧からは程遠い。
素人なので必要以上に丁寧にカットしているので、進行速度はだいぶゆっくりだ。
しかし時間は限られているので、今日はここまで。
「髪切ったんだから、シャワーで流してこいよ」
「んや……後でいい」
「それじゃ髪がソファに散らばる…………まぁいいか、うん」
よく考えたら、まだ僕がいるのにシャワーを浴びさせに行くのはどうかと思う。
なので一歩退いた。ちゃみ子は気にしてなさそうだけど。
「切った感じ、どうだ?」
「んー……よくわかんない」
「ま、そうだろうな。これからゆっくり進めていくよ」
許しがたいことにちゃみ子は、毎日の髪の手入れを怠っていたどころか、ブローでさえテキトーに行っていたらしい。
そのうえ、美容院にも面倒くさがってあまり行かず。
よって全体的に髪は傷んでいて、毛量もすさまじい。
手付かずの大自然のような様相が彼女の頭上には広がっている。
それでも何とかまとまっているように見えるのは、極上の髪質があってこそだ。
それをこれから僕が、毎日時間をかけて少しずつ、整えていくのだ。
この散らかりきった部屋の清掃も、並行して。
「それじゃ、軽く掃除していくか」
ちゃみ子の首にかけたケープを、髪の毛が落ちないよう優しく回収しつつ、僕は部屋を見回す。
昨日から片付けを始めたはずなのだが、一向に終わりが見えない。
ただまあ、こういった巨大なタスクを前にすると、心が湧き立つのも事実だ。
ちゃみ子のもあもあな髪の手入れもそうだけど、長期的なタスクを前にして今の僕は、だいぶワクワクしてしまっていた。
「綺麗になるまで何日かかるんだろうなぁ。ちなみにちゃみ子、手伝う気は……」
「ない」
「だろうな」
髪を自由にさせた、という大義名分があるため、こちらも大きくは出られない。
なのでさっさと作業を開始する。
改めて考えると、何だこの関係。
「……ん?」
テーブル回りの衣類やら雑誌やらゴミを仕分けていたところ、ちゃみ子がドラマでなく僕の方を、じぃっと見ていることに気づいた。
「どうした?」
「さう」
「うん」
「おっぱいはいいの?」
「ぶっ……」