プロローグ
「――さう、さう」
「ん……?」
綿菓子のような、甘くて消え入りそうな声が、僕の目を覚ます。
ぼんやりとした視界に映るのは、春の陽光に包まれた学校の中庭。
ベンチに座ったまま眠ってしまっていたらしい。
隣に座るふわふわとした女の子が、僕をじっと見上げていた。
「ちゃみ子……」
「さう」
名前を呼ぶと、彼女は僕の名前を呼び返す。
客観的に見れば、この珍妙なあだ名の呼び合いはバカップルのそれだ。
もう呼び慣れたし呼ばれ慣れたけれど、公衆の面前では注意しないと。
いやそもそも、僕たちはカップルですらないけれど。
「……ああ、そっか」
いつものように中庭のベンチで、ちゃみ子と昼食をとっていたんだった。
そして食べるのが遅い彼女を待っているうちに、うたた寝してしまっていた。
「食べ終わったのか?」
「うん」
ちゃみ子は空になった小さなタッパーを見せてくる。
「……ん? なんか怒ってる?」
よく見るとちゃみ子の瞳は、ほんのり咎めるよう。
ちゃみ子は表情の変化に乏しい。
なので初めの頃は喜怒哀楽のすべてが無表情に見えていたが、今ではその機微を把握できるようになった。
「さうが寝たら、私が寝られない」
「なんで?」
「さうが髪をとかしながら寝るのが、一番気持ちいい」
「わがままだな」
ちゃみ子は悪びれず、ころんと僕の太ももを枕にして横になる。
そして、横目でちらりと僕を見上げる。ご所望のようだ。
「ん……」
長くボリュームのある髪を、ゆっくりゆっくり撫でるように手櫛で梳かすと、ちゃみ子の顔にほんのり笑みが浮かぶ。
「私が寝たら、さうも寝ていいよ」
「んー?」
「寝ないの……気持ちいい、よ……」
3回ほど髪を梳かしただけで、ちゃみ子は加速度的に入眠へと向かい、声がへにゃっとなっていく。
「じゃあ、寝ようかな」
「ぅん……そえがいぃ……」
眠気で舌が回らなくなって、母音の稼働率が高まっている。
いよいよ眠るサインだ。
そんな様子を見ていると、温かな陽気に包まれていると、僕も眠気が蘇ってきた。
僕はちゃみ子の髪を梳かすのとは反対の手で、スマホを操作。
昼休みが終わる10分前にアラームをかける。
「………………」
やっぱり、5分前に起きればいいか。
「さぅ……」
「ん?」
「ごはん……おいし、かった……」
「そうか、よかった」
「おやすみ……?」
「うん、おやすみ」
そうしてベンチに座る僕と、僕の太ももを枕にするちゃみ子は、同時に眠る。
僕って自分の家以外で、こんな簡単に眠れたっけ?
些細な疑問が浮かんだが、意識と共に消えていった。