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王太子妃の愛人に抜擢された夫が、3分で返品されたらしい

結婚は不幸の始まり――。

有名な哲学者の言葉だそうだが、なるほど真実だったらしい。私とテオドア様との結婚がまさにその例である。


私が14歳のときに交わされた婚約――そのお相手が、隣領・リルケ侯爵家の四男であるテオドア様だ。当時の彼は17歳。見る者をとろけさせるような甘い美貌の持ち主で、立居振る舞いが洗練されている。私のこともフィアンセとして常に気遣ってくれていた。


でも、私は不安だった。私の容姿など彼に比べれば平凡なものだし、家格も遠く及ばないからだ。


しかも私が嫁ぐのではなく、彼がこちらに婿入りする形である。私はバルデン伯爵家の一人娘であり、次期当主となる身。彼は当主の夫として、一緒に伯爵領を管理することになる。テオドア様は、内心では不満に思っているのではないか……そんな不安が拭えなかった。


しかしこの婚約は、先方からの強い希望によるものだった。家格だけ見れば先方とこちらは雲泥の差だが、両家は隣接する領を治める間柄である。テオドア様のお父君であるリルケ侯爵は、うちの領の名産である染料をたいそうお気に召していて、商取引で固い絆を育んでいた。


この婚約を父はとても喜んでいたし、天国の母も喜んでいたに違いない。だから私も、彼にふさわしい妻になろうと励んだ。


――でも、現実は残酷だ。


結婚式を終えたその日、テオドア様は豹変した。いや、本性を現したと言うべきか。

初夜に彼が寝室を訪れることはなく、それどころか、ふらりと屋敷を抜け出して歓楽街に行ってしまったのである。彼は相当に遊び馴れた男性で、入籍するまで誠実ぶっていたのだ。


朝帰りをした彼は、堂々と言ってのけた。

「正直に言うと、君みたいに華のない女性と関係を持つのは気が進まないんだ。お互いにまだ若いし、無理に事を済ます必要もないだろう? 跡継ぎが必要な時期になったら、そのときに頑張ってあげるから」


……あまりの羞恥と屈辱で顔が火のように熱くなる。一方で、胸の奥は氷のように冷たくなった。


彼の行動と発言はすぐに父の知るところとなったが、父がテオドア様を強く咎めることはできなかった。なぜならば、そのとき当家はかつてない危機に直面していたから。


領内のあちこちで、深刻な水害が続いていた。


幾筋もの河川が穏やかに流れ、肥沃な大地に恵まれているバルデン領。しかし十年ほど前から洪水による被害が増え始め、とくに近年は頻度も規模もひどいものになっていた。度重なる水害で領内は疲弊し、治水に費やしてきた財もいよいよ底をつきかけている。


王家の支援を受けてなお困窮し、リルケ侯爵からの個人的な援助によって辛うじて持ちこたえている状態だ。だから援助を受ける側の私たちには、息子のテオドア様を責めることなどできない……テオドア様もそれが分かっているからこそ好き放題なのだろう。


――それから2年。

テオドア様は今もなお、夜ごと街へと繰り出しては貴婦人方との逢瀬を楽しんでいる。


一方の私は、ただひたすらに耐える日々。耐えるだけならまだマシだ……先日など、彼に裏切られたという令嬢が屋敷に押しかけて、その対応までさせられた。どうして夫の過去の女性にまで、私が対応しなければならないのだろう? 悔しくて、情けなくて涙も出なかった。


それでも、私には夫のことばかり考えている暇などない。

私はこのバルデン伯爵家の一人娘であり、父を支える次期当主なのだから。傷ついた領地を立て直すために、前を向くしかないのである。


「お父様、行って参ります」


私は護衛を伴って、馬車に乗って領内視察へと向かった。本来ならば、次期当主の夫であるテオドア様も同行するべき視察だが、彼はもちろんここにはいない。3日前から屋敷を不在にしているので、きっと今頃は新しい恋人と甘い時間を過ごしているに違いない。


やがて目的の村に到着し、馬車の扉が開かれる。一歩踏み出した瞬間、顔が曇ってしまった。

――なんて物悲しい景色なの。


かつては領内屈指の観光地だった。色とりどりの季節の花と、水車の音が響く穏やかな川辺。集う人々の笑顔を今も鮮明に思い出せる。……でも度重なる河川の氾濫で村は荒れ、花畑は荒れて、水車は壊れたまま……。

ここは私の、大切な思い出の場所だったのに。


「お待ちしておりました、ユディット様」

村長が、村の若い衆とともに出迎えてくれた。


「昨年は税を減らしてくださり、ありがとうございました。堤防の補修にも、感謝の言葉もございません」


「……でも、まだ状況は芳しくなさそうね」

「はい……。こうも頻繁に川が溢れると、対応が間に合いません」


村の為に、今できることはないか――私が思案していると、村長がくしゃりとした笑みを浮かべた。

「ユディット様や領主様が気にかけてくださっているのは、わしらもよく分かっておりますよ。他の村も似たような有り様ですから、さぞやお忙しいでしょう。わしらも諦めてはいませんので、どうかそのような顔をなさらず」


……顔に出ていたのだろうか。民に気を遣わせてしまうなんて、上に立つ者として恥ずかしい。


「……ありがとう。あなたの言葉を聞くと、元気が出るわ」

「なに、わしはユディット様を小さい頃からよく知っていますでな。昔のあなたは、とてもお転婆で……。ほら、覚えておいでですか? 十年以上前のこと、川で溺れそうになっていたでしょう」

村長は懐かしそうに、昔話を口にした。


「あら。あれは……仕方なかったのよ。だって、私より先に溺れていた子がいたんだもの」

私は苦笑した。


あれは私が7歳の頃。当時、避暑地として賑わっていたこの川で、ひとりの少女が流されているのを発見した。年は私より1つか2つくらい下。身なりからしてどこかの貴族の子なのは間違いない。付き人の姿がないから、こっそり抜け出してきたのかもしれない。


気付いたときには、私は川に飛び込んでいた。当時の私は貴族令嬢としてはかなりのお転婆で、川泳ぎには自信があった。――が、判断が甘かった。ただ泳ぐのと、溺れた子を助けるのとでは話が違う。もがく少女に引きずられ、あっという間に川の流れに飲み込まれてしまう。

――このままでは、ふたりとも。

けれど、救いの手が差し伸べられた。


「結局、その子のお兄様が、私達ふたりを助けてくれたのよ」

10歳より少し上くらいの、少女とよく似た顔立ちの少年だった。黒髪と深緑の目が美しくて、でもその美しさが台無しになるほどの剣幕で、その少年は妹と私を怒鳴りつけた。妹には、付き人を振り切って勝手に抜け出したことを。そして私には、大人を呼ばず無謀に飛び込んだことを。


「……あのときは本当に、愚かなことをしてしまったわ」

「幼い子供のことですからね。ですが、ユディット様の正義感はあの頃から変わりませんな」


懐かしさが込み上げてきて、私は笑みをこぼしていた。

澄んだ河川と肥沃な大地、そしてここでしか採れないバルデン藍を用いた染色産業は、この領の誇りだった。

――もう一度、あの頃を取り戻すために。

私は自分の為すべきことをしよう。



   *


その日の視察を終えて屋敷に戻ると、父が私の部屋を訪れた。

「ユディット。王城から書状が届いている」

「私に?」

「ああ。お前と、テオドア君への連名だ」


王太子夫妻が主催するお茶会に、夫婦そろって出席せよ――という招待状だった。先月結婚したばかりの王太子夫妻が社交界に顔を広げる目的で開くもので、同世代の貴族が広く招かれるらしい。とくに王太子妃は他国から嫁いできた姫君なので、親しい友人がほとんどいないとか――人脈作りの意味合いが強いのだろう。


しかし私は正直、気が重かった。王都に出向くだけでも、往復で1週間以上かかってしまう。領内の仕事が滞ってしまうし、何より出費が大変だ。

「またドレス代が……」

こうした社交の場では、毎回ドレスを新調するのが暗黙のルールである。しかし我が家は、ドレスを一着作るだけでも痛手になるような貧乏貴族……。しかも夫婦宛ての招待状だから、テオドア様と同行しなければならない。


その日の夕方、珍しくテオドア様が屋敷に戻って来た。王太子夫妻からの招待状を見せると、案の定大喜びだった。きっと彼は大金をはたいてスーツを新調し、楽しいお茶会の時間を過ごすことだろう。テオドア様が貴婦人方にもてはやされて上機嫌になる姿を想像して、私は深い溜息をついた。


   *


――そしてパーティ当日。

豪華絢爛な会場に踏み入れた私は、圧倒的な存在感を放つ美女に目を奪われた。私だけでなく、そこにいる者たちは皆彼女に釘付けになっている。

王太子妃・マリアンヌ。まさに大輪の薔薇のような、華やかに輝く美貌の持ち主である。『他国から来たワガママなお姫様』――などと世間では揶揄されているようだが、気の強そうな目元と豪奢な装いが、その評判を裏付けているようにも思える。


マリアンヌ妃とは対照的に、隣に並ぶ王太子ルイス殿下は存在感が希薄だった。無礼を承知で表現すると、非常に質素で地味なのである。帝王の風格よりも、むしろ裏方仕事に徹する文官気質の人物に見える。政略で結ばれたルイス殿下とマリアンヌ妃だが、『性格も容姿もまったく対照的だから上手く行かないのでは……?』というのが、社交界で囁かれている話だ。


(たしかにルイス殿下とマリアンヌ妃殿下が並んでいても、お似合いには見えないわね。……まあ、私達夫婦も不釣り合いなのは同じだけれど)

などと私が思っていた、そのとき。


マリアンヌ妃が、じっとこちらを見つめてきた。扇で口元を隠しているから、表情はよく分からない。しかし熱い視線でこちらを――おそらくは、私の隣のテオドア様を見つめている。


その視線に気づいたのだろう。テオドア様は私に一言、「君はここで待っていたまえ」と得意げに言い残すと、優雅な足取りでマリアンヌ妃のもとへ向かっていった。マリアンヌ妃との会話が終わった後には、見目麗しいご婦人方がテオドア様を取り囲む。テオドア様は、甘い笑顔を振りまいていた。


私はと言うと、ぽつんと一人取り残されて、気配を消すようにしてお茶会が終わるのを待っていた。

――こんなのは想定のうちだもの。私は、こんなことで傷つきはしないわ。



   *


思いがけない出来事が起こったのは、お茶会を終えてバルデン伯爵領に戻ったあとのこと……。


王太子妃マリアンヌから、個人的な書状が届いたのである。しかも「もう一度、バルデン夫妻に王城に来てほしい」という内容だった。今度は大規模なお茶会ではなく、ごく個人的な対話をお望みだとも綴られている。


それを知ったテオドア様は、まるで子供のようなはしゃぎぶりだった。

「やった、ついに来たぞ! 愛人の打診だ!!」

浮かれきった夫の言葉に、私は言葉を失った。


この国には古くから、奇妙な習慣があると聞く……。王族が愛人を迎える際、ご所望の相手が既婚者だった場合には、ひとまず夫婦一緒に呼び出すのだ。そしてご所望の相手と深い関係を結び、配偶者に親密性をまざまざと見せつけて身を引かせる。――建国初期のとある王妃から始まった風習だと聞くが、正直言って悪趣味だ。


たしかに今回の書状には、私達夫婦の名前が連ねられている。しかしテオドア様は、


「おや、君も行くつもりなのかい? 無粋な真似はよしてくれ。目的が明らかな場合は、配偶者のほうから身を引くのが礼儀だよ。そんなことは、この国の貴族ならばみんな知っている」

などと言って、ひとりでさっさと王都に向かってしまった。


「本当に…………なんなの? あの人は」

私はなんて惨めな妻なんだろう。屈辱に、歯を食いしばるしかなかった。


けれど、それからほどなくして王城からの使者が屋敷に訪れた。その使者からの思いもよらない知らせに、私は声を裏返えさせた。


「……夫が、投獄された!?」


テオドア様が、マリアンヌ妃に不敬を働いて投獄されたというのだ。使者は、私にすみやかに出頭せよと告げてきた。


あの人は何をしでかしたのだろう……? 私は、そしてバルデン家は、どうなってしまうのだろう。恐ろしい予感しかせず、私も父も死人のように真っ青な顔になっていた。


「ユディット……これは、一体……」

「大丈夫よ。お父様。私が確認してくるから、領のことをお願いします……」



緊張で震えそうになりながら登城した私だが、王城での扱いは思いのほか丁寧だった。応接室に通されて、まずは侍従から説明を受ける。


「ユディット夫人。あなたのご夫君は、王太子妃殿下への不敬で地下牢に投獄されています」

「はい」

「ご夫君は謁見の場で『私をお求めで?』などと王太子妃殿下に迫りまして……。『無礼者!』と叱責され、そのまま連行されました」

「……はい?」

「謁見開始から連行まで3分足らずという、極めて迅速かつ衝撃的な事件でした」

「……………………」


――なんなの、それは。

相槌を打つことさえ忘れて、私はただ茫然としていた。


マリアンヌ妃は、愛人としてテオドア様を求めたはずでしょう? なのに、謁見直後に不敬罪とは。テオドア様は何をしでかしたのだろう。


私は頭が真っ白で、ソファに埋まるように脱力していた。――するとそのとき、マリアンヌ妃が現れる。彼女とともに、王太子ルイス殿下も入室してきた。我に返って礼をすると、ルイス殿下は「楽にしてくれ」とおっしゃった。


私の対面のソファには、マリアンヌ妃とルイス殿下。マリアンヌ妃はお茶会のときと変わらない輝きだが、その美貌には不快な感情が隠されることもなく刻まれていた。


「あなたのご主人、大変な非礼でしてよ! 勝手に勘違いをして、愛人などと……わたくしが、そんなものを求める訳がないでしょう!」


ルイス殿下が、控えめに苦笑しながらマリアンヌ妃に声を掛ける。

「落ち着きなさい、マリアンヌ。この国にそう言う悪習慣があることを、事前に忠告したじゃないか」

「でも……まさか本当に、いきなりあんなことを言われるなんて!」

「君の怒りはよく分かったから」

「あなたはよく落ち着いていられますわね。わたくしたちの不仲を疑われたも同然でしてよ?」

「言いたい者には言わせておこう。私達の仲睦まじさは、いずれ国中に知れ渡るだろうから」

「もう……ルイスったら、優しすぎますわ。そんなところも、……好き」

「私もさ。君を妻に迎えられて、私は本当に幸せだよ」


私の目の前でマリアンヌ様たちが糖度の高い会話を始めた。私は完全に部外者だと思うのだが、直視していて良いのだろうか。


……というか、不仲な夫婦だと思っていたが、実際は違うのだろうか。


新婚夫婦は互いを見つめ合っていたが、やがて同時に私のほうをふり向いた。ふり向く速度もタイミングも息ぴったりだったので、私はビクッとしてしまった。


「それはそうと。わたくしが呼び出そうと思ったのは、あなたでしたのに。あなたの不敬な夫が、勝手に勘違いをして愛人などと。本当に失礼ですこと」

「私……ですか?」

「ええ。お友達になっていただきたくて」


耳を疑った。こんなに高貴で眩しいマリアンヌ妃が、没落寸前の貧乏伯爵家の私と友達になりたいなんて……。一体、何の目的で……?


混乱する私に、マリアンヌ妃は微笑みかけた。

「幼い頃のこと、お忘れかしら?」

「……え?」

「川でおぼれていたとき、助けてくださったでしょう?  わたくしは、片時も忘れたことはありませんでした」

——あ。


私は目を見開いていた。

……まさか。あの小さな女の子が……?


マリアンヌ妃ははにかむように笑っていた。頬を染めたその美貌は、お転婆少女のそれだった。

「ずっとお礼を言いたかったのです。でもお忍びでしたので、身分を明かすことを許されておらず。これからは、正式に友人としてお招きできると思って」


私は、込み上げてくるものを抑えきれなかった。

「妃殿下……」

「そんな堅苦しい呼び方はおやめになって。ところでユディットさん、あなたの家のことをいろいろと調べさせてもらいましたのよ」


――私の家?

さっきまで笑っていたマリアンヌ様が、急に眉間にしわを寄せた。


「……まったく許せませんわね、リルケ侯爵家は! ねえ、ルイス、あなたもそう思いますでしょう?」

「ああ」

と、王太子殿下も静かに首肯している。

「リルケ侯爵家の悪行を、王家として看過する訳にはいかないね」

「でしたらリルケ侯爵家なんて、取り潰してしまえばよろしいのではなくて?」


マリアンヌ様が、いきなり過激なことを言い出した。

リルケ侯爵家を取り潰す……? テオドア様の不敬の責任を取らせるために、生家のリルケ侯爵家を潰そうというのだろうか。……婚家のバルデン伯爵家ではなく?


「マリアンヌ、それはあまりに短絡的だ。侯爵家を潰すとなれば、その余波は小さくない。ユディット夫人、君はどう考える?」


「……マリアンヌ様のお優しさをありがたく思いますが、テオドアの監督責任はリルケ侯爵家ではなく、当家にあるかと存じます。度重なる水害により疲弊している我が領を、長きに渡って支援してくれているリルケ侯爵には、深い恩を感じておりますので」


マリアンヌ様は、不満そうに唇を尖らせた。

「……あら。水害の原因がリルケ侯爵だったと知っても、同じことが言えますの?」


理解が追い付かず、私は言葉を失った。すると、ルイス王太子殿下が応接テーブルに書類を置いて私に告げる。


「隣国から招いた特任研究官が、バルデン領の水害に不審な点があると気づいた。バルデン領の上流にあたるリルケ侯爵領ではここ数年、木材の輸出量が急増している。公表されていない林業が進められている可能性があるとして、先日、王家が極秘に現地調査を行った」


王太子殿下は、さらに続けた。


「その結果、特定の森林が乱伐状態になっているのを確認した。……分かるかい? 過剰な森林伐採は地面の保水力を奪い、水害の引き金になる。つまり、下流のバルデン領での水害は、自然災害ではなく人災だ」


「そんな! なぜ……。だってリルケ侯爵は、バルデン領を支援してくださっているのに」

「支援の見返りを求められているのではないか?」


その一言に、私は息を呑んだ。

――ある。


当家に可能な数少ない返礼として、名産のバルデン藍を独占的に取引する契約を交わしている。バルデン領でしか採れない貴重な染料――至高の青と呼ばれるバルデン藍を、リルケ侯爵家は支援の名のもとに独占していたのか。


「答えが見えたようだね」

王太子は、穏やかな視線をこちらに注いでいる。


「ユディット夫人。君の夫には、マリアンヌを侮辱した責任を取らせる。だが、君やバルデン伯爵家に連座させるつもりはない。償うべきは彼の生家――リルケ侯爵家だ。法のもとに厳正な裁きを下す。そしてバルデン伯爵家には、これまで以上の支援を誓おう」


「……! ありがとうございます」




――そこから先は、あっという間。

テオドアはしばらく地下牢で拘束されていたが、その後速やかに裁きが下され、私とは離縁となった。彼への罰は、リルケ侯爵の管理下による生涯謹慎――。


謹慎というと生ぬるく聞こえるかもしれないが、実際はかなり悲惨だ。出戻った先のリルケ侯爵家がテオドアを厚遇するはずもなく、牢獄同然の環境に閉じ込められているらしい。生涯出ることは許されず、しかも『脱走を図った際には絞首刑』というオマケつきだ……。浮かれた伊達男の末路としては、妥当なところではないだろうか。


リルケ侯爵家はテオドアの件とバルデン領に被害を与えた一件により、貴族議会と宮廷への3年間の出入り禁止処分を言い渡された。リルケ侯爵の社会的信頼は大きく失墜し、交易先からの契約打ち切りや後援者の離反といった実害もすでにでていると聞く。もちろん、当家への賠償金も支払うことになっている。


一方の私は、今や王太子妃殿下の友人という名誉ある立場になった。王家の手厚い支援のもとで治水事業も着実に進み始めており、父も私も領の復興に励んでいる。被害がすぐに癒えることはないが、未来を信じる気配が領内には満ちている。


私達は、ようやく明るい未来へと進み始めたのだ。


   *


――今日は久しぶりにマリアンヌ様にお会いする日だ。

最近では2か月に一度ほどの頻度で自領と王都を往復し、マリアンヌ様と紅茶を楽しんでいる。お土産としてバルデン藍で染めた織物をお贈りし、マリアンヌ様はそれを素敵なドレスに仕立ててくださるので社交界でも大評判だ。


今日も、マリアンヌ様は私を嬉しそうに迎えてくださった。

「お待ちしていましたわ。実は、ユディットに会わせたい人がいるのです」

「まあ、どなたでしょう」


そこに現れたのは、目を奪われるほどの美青年だった。年齢は、マリアンヌ様よりいくつか上。顔立ちはマリアンヌ様と似ていて、艶やかな黒髪と深緑の瞳。

この人には、見覚えがある。

川でマリアンヌ様と私を助けてくれた、あの方――。


「ねえ、ユディット。この人を、覚えているかしら」

「ええ。それはもちろん……!」


再会の嬉しさと精悍な美貌を前にした緊張で、私は頬を熱くしながら礼をした。


「わたくしの兄、ヴィクトールです。兄はわたくしの祖国の第七王子なのだけれど……少し変わり者で、臣籍降下して学者になってしまったの。今は技術協力で特任研究官としてこの国に派遣されていて、バルデン領の水害の原因を突き止めたのも彼なのですよ」


驚きに目を瞠る私に、ヴィクトール様は言った。

「久しいですね、ユディット嬢。幼い頃は、きちんとした礼もできず心苦しく思っていました。……あなたが救ってくれなければ、マリアンヌは今、ここにいなかったはずです」

「そんな。私はただ、一緒に溺れていただけで……」

「いや、あなたのおかげで手遅れになる前に発見できました。あのときの恩を、ようやく返せるときが来たことを嬉しく思います」

「……え?」


マリアンヌ様が、子どもみたいな明るい笑みを浮かべている。

「治水事業の支援として、この特任研究官ヴィクトールをバルデン領へ派遣しようと思っているのです。……どうかしら、ユディット? 彼、とても優秀よ」


もちろん断る理由はない。私は、恐縮しながらも歓喜に震えた。

「それはもう……喜んで!」


「でもね、お兄様は変わり者なの。王族の立場を離れて研究一辺倒。……おかげで、いい歳をして結婚どころか婚約者さえいませんのよ?」

「……うるさいぞ、マリアンヌ。」

「あら、本当のことではありませんか」

仲睦まじく言い合う兄妹を見ていたら、目が潤んできてしまった。


希望にあふれた自領の未来と、過去に結ばれた優しい絆に、胸の高鳴りが止まらない――。


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修道院送りにされた元子爵令嬢と、ヤンデレ年下侯爵の溺愛&ざまぁです。よければぜひお立ち寄りください^^

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― 新着の感想 ―
拝読させていただきました。 水害の際に領民を思い、溺れている子を見つけたら後先考えずに飛び込むヒロインが魅力的です。 そしてちゃんと分かっている聡明な王太子夫妻。 この国の未来は安泰ですね。
やっぱり報われるべき人がきちんと報われる展開は王道ですなあ。 クズ夫は、白い結婚を貫いたところだけ褒めてつかわそう!(謎の上から目線)
>王族が愛人を迎える際、ご所望の相手が既婚者だった場合には、ひとまず夫婦一緒に呼び出すのだ。そしてご所望の相手と深い関係を結び、配偶者に親密性をまざまざと見せつけて身を引かせる。 王太子が王になった暁…
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