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84 第一王子の婚約者

アーヴィンとの会話で得たのは、ライオネルの"療養"に第一王妃が関わっているかもしれない。

ただそれだけだった。


エマは、第一王妃に近い人物に心当たりが1人だけあった。

最近、第一王子との縁談が正式に決まった──マリアンヌ。


(……本音を言えば、会いたい相手じゃない)


王宮の“内側”に立つ人間。

第一王妃派と目される存在。

以前、招待されたお茶会での刺々しい言葉や態度。


これまでなら、距離を保つ理由は十分すぎるほどあった。


(でも……今は)


第二王子・ライオネルが沈黙の奥に閉じ込められている今、好き嫌いで動いている余裕はない。

情報に近い人物。

王宮の空気を、派閥の中心で吸っている人物。


――その条件に当てはまるのが、マリアンヌだった。


「……覚悟を決めるしかないわね」


そう小さく呟き、エマは背筋を伸ばした。



応接間に通されて間もなく、扉が開く。


「お久しぶりですわね、エマ嬢」


聞き覚えのある、柔らかな声。


淡い色合いのドレスに身を包んだマリアンヌは、以前と変わらぬ優雅さで微笑んでいた。

だが、その立ち姿には――確かな“立場”の重みが加わっている。


第一王子の婚約者。

それは、ただの称号ではない。


「ご無沙汰しております、マリアンヌ様」


挨拶を返した、その瞬間。


マリアンヌは、ふっと意味ありげに目を細めた。


「本当に……久しぶりですわね」


そして、何気ない調子で――だが、確実にエマの心を打つ言葉を続ける。


「セリーナは、貴女と会ってから……すっかり変わってしまったわ」


エマの胸が、きゅっと締めつけられた。


(セリーナ……)


「前は、あんなふうに自分の意見を口にする子ではなかったのに」


紅茶のカップを持ち上げながら、マリアンヌは静かに言う。


「良く言えば、成長。悪く言えば――扱いづらくなった」


その視線が、ゆっくりとエマに向けられる。


責めているようでもあり、

探るようでもあり、

どこか興味深そうでもある。


「エマ嬢。貴女、何か“特別なこと”をなさったの?」


試すような問い。


エマは、一瞬だけ言葉を探し――そして、逃げなかった。


「いいえ。ただ……彼女の話を聞いただけですわ」


「話を?」


「ええ。誰かに聞いてほしかったことを」


マリアンヌは、その答えを意外そうに受け止め、やがて小さく笑った。


「なるほど……それが“変化”の正体なのね」


だが、その笑みは、決して無邪気なものではなかった。


「困るのよ、エマ嬢」


低く、静かな声。


「王宮では――変わらない人間のほうが、都合がいい場面も多いの」


その言葉に、エマははっきりと確信する。


(この人は……分かっていて言っている)


その言葉に、エマは自然と力を込めて答えていた。


「疑問や意見を持つことは……悪いことではないと思います」


マリアンヌは、くすりと笑う。


「ええ。外の世界では、そうなのでしょうね」


そして、視線を上げる。


「でも王宮では――変わらないことのほうが、時に“安全”なの」


その言葉の裏に、重たい意味が滲んでいた。



エマは一度、紅茶のカップを置いた。

指先の震えが、止まったのを確かめてから口を開く。


「……私、マリアンヌ様にお聞きしたいことがあって本日は伺いました」


慎重に、けれど曖昧にはせず。


「第二王子殿下のお姿を、しばらく拝見しておりません」


マリアンヌの指が、一瞬だけ止まった。


だが、すぐに何事もなかったかのように微笑む。


「ご静養中だと、聞いているでしょう?」


「ええ。でも……あまりに情報が少なくて」


エマは、視線を逸らさず続けた。


「西翼が封鎖されているとも伺いました。殿下のお部屋は、確か……」


言い終わる前に、マリアンヌが静かに口を挟む。


「エマ嬢」


その声音は、柔らかい。

だが、はっきりと“線”を引いていた。


「それ以上は、口を慎んだほうがいいわ」


エマの胸が、冷たくなる。


「……殿下は、ご無事なのですか?」


ほんのわずかな沈黙。


マリアンヌは、答える代わりに、別の言葉を選んだ。


「第二王子殿下は……とても繊細な立場にいらっしゃるの」


「それは、以前からです」


エマは、静かに返す。


「それでも――姿を消すほどではなかった」


マリアンヌは、紅茶の水面を一度だけ見つめ、続けた。


「殿下は、以前はもっと用心深い方でしたの」


「社交界に出ることも、注目を集めることも、

 自ら選ぶようなことは、決してなさらなかった」


 間を置いて、静かに続ける。


「――貴女と会うまでは」


「先ほども申し上げましたわよね?」


「変わらぬことこそが、“安全”なのだと」


エマは、何も言えずに一瞬だけ唇を噛んだ。


(変わってしまった――私のせいで、"安全"ではなくなった)


その言葉が、胸の奥で重く沈む。


けれど。


エマは、感情を抑えるように微笑んだ。


「……そうですね」


あえて肯定するように見せてから、続ける。


「王宮では、変わらないことが安全」


「だからこそ――

変わってしまった殿下は、今“守られてはいない”ということでしょうか?」


その瞬間。


マリアンヌの瞳に、わずかな揺らぎが走った。


「殿下は、守られていますか?」


再び問うた。


マリアンヌはしばらく黙り込み、やがて低く告げる。


「“守られている”と信じている人間は多いわ」


「では、マリアンヌ様は?」


一拍。


「私は……均衡が崩れないことを願っているだけ」


それは、肯定でも否定でもなかった。



応接間を辞したあと、エマは確信していた。


(隠されている)


それも、善意だけではない。


マリアンヌはすべてを知っているわけではない。

けれど――何が“触れてはいけない領域”かを、正確に理解している。


(それでも……)


エマは歩みを止めない。


ライオネルの沈黙は、偶然ではない。

誰かが意図して、彼を遠ざけている。


その事実を、今日、確かに掴んだ。


王宮の白い塔を見上げながら、エマは心の中で呟く。


(必ず、辿り着きます)


それが、どれほど危険な場所であっても。


――それでも、引き返す理由にはならなかった。

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