84 第一王子の婚約者
アーヴィンとの会話で得たのは、ライオネルの"療養"に第一王妃が関わっているかもしれない。
ただそれだけだった。
エマは、第一王妃に近い人物に心当たりが1人だけあった。
最近、第一王子との縁談が正式に決まった──マリアンヌ。
(……本音を言えば、会いたい相手じゃない)
王宮の“内側”に立つ人間。
第一王妃派と目される存在。
以前、招待されたお茶会での刺々しい言葉や態度。
これまでなら、距離を保つ理由は十分すぎるほどあった。
(でも……今は)
第二王子・ライオネルが沈黙の奥に閉じ込められている今、好き嫌いで動いている余裕はない。
情報に近い人物。
王宮の空気を、派閥の中心で吸っている人物。
――その条件に当てはまるのが、マリアンヌだった。
「……覚悟を決めるしかないわね」
そう小さく呟き、エマは背筋を伸ばした。
◆
応接間に通されて間もなく、扉が開く。
「お久しぶりですわね、エマ嬢」
聞き覚えのある、柔らかな声。
淡い色合いのドレスに身を包んだマリアンヌは、以前と変わらぬ優雅さで微笑んでいた。
だが、その立ち姿には――確かな“立場”の重みが加わっている。
第一王子の婚約者。
それは、ただの称号ではない。
「ご無沙汰しております、マリアンヌ様」
挨拶を返した、その瞬間。
マリアンヌは、ふっと意味ありげに目を細めた。
「本当に……久しぶりですわね」
そして、何気ない調子で――だが、確実にエマの心を打つ言葉を続ける。
「セリーナは、貴女と会ってから……すっかり変わってしまったわ」
エマの胸が、きゅっと締めつけられた。
(セリーナ……)
「前は、あんなふうに自分の意見を口にする子ではなかったのに」
紅茶のカップを持ち上げながら、マリアンヌは静かに言う。
「良く言えば、成長。悪く言えば――扱いづらくなった」
その視線が、ゆっくりとエマに向けられる。
責めているようでもあり、
探るようでもあり、
どこか興味深そうでもある。
「エマ嬢。貴女、何か“特別なこと”をなさったの?」
試すような問い。
エマは、一瞬だけ言葉を探し――そして、逃げなかった。
「いいえ。ただ……彼女の話を聞いただけですわ」
「話を?」
「ええ。誰かに聞いてほしかったことを」
マリアンヌは、その答えを意外そうに受け止め、やがて小さく笑った。
「なるほど……それが“変化”の正体なのね」
だが、その笑みは、決して無邪気なものではなかった。
「困るのよ、エマ嬢」
低く、静かな声。
「王宮では――変わらない人間のほうが、都合がいい場面も多いの」
その言葉に、エマははっきりと確信する。
(この人は……分かっていて言っている)
その言葉に、エマは自然と力を込めて答えていた。
「疑問や意見を持つことは……悪いことではないと思います」
マリアンヌは、くすりと笑う。
「ええ。外の世界では、そうなのでしょうね」
そして、視線を上げる。
「でも王宮では――変わらないことのほうが、時に“安全”なの」
その言葉の裏に、重たい意味が滲んでいた。
◆
エマは一度、紅茶のカップを置いた。
指先の震えが、止まったのを確かめてから口を開く。
「……私、マリアンヌ様にお聞きしたいことがあって本日は伺いました」
慎重に、けれど曖昧にはせず。
「第二王子殿下のお姿を、しばらく拝見しておりません」
マリアンヌの指が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに何事もなかったかのように微笑む。
「ご静養中だと、聞いているでしょう?」
「ええ。でも……あまりに情報が少なくて」
エマは、視線を逸らさず続けた。
「西翼が封鎖されているとも伺いました。殿下のお部屋は、確か……」
言い終わる前に、マリアンヌが静かに口を挟む。
「エマ嬢」
その声音は、柔らかい。
だが、はっきりと“線”を引いていた。
「それ以上は、口を慎んだほうがいいわ」
エマの胸が、冷たくなる。
「……殿下は、ご無事なのですか?」
ほんのわずかな沈黙。
マリアンヌは、答える代わりに、別の言葉を選んだ。
「第二王子殿下は……とても繊細な立場にいらっしゃるの」
「それは、以前からです」
エマは、静かに返す。
「それでも――姿を消すほどではなかった」
マリアンヌは、紅茶の水面を一度だけ見つめ、続けた。
「殿下は、以前はもっと用心深い方でしたの」
「社交界に出ることも、注目を集めることも、
自ら選ぶようなことは、決してなさらなかった」
間を置いて、静かに続ける。
「――貴女と会うまでは」
「先ほども申し上げましたわよね?」
「変わらぬことこそが、“安全”なのだと」
エマは、何も言えずに一瞬だけ唇を噛んだ。
(変わってしまった――私のせいで、"安全"ではなくなった)
その言葉が、胸の奥で重く沈む。
けれど。
エマは、感情を抑えるように微笑んだ。
「……そうですね」
あえて肯定するように見せてから、続ける。
「王宮では、変わらないことが安全」
「だからこそ――
変わってしまった殿下は、今“守られてはいない”ということでしょうか?」
その瞬間。
マリアンヌの瞳に、わずかな揺らぎが走った。
「殿下は、守られていますか?」
再び問うた。
マリアンヌはしばらく黙り込み、やがて低く告げる。
「“守られている”と信じている人間は多いわ」
「では、マリアンヌ様は?」
一拍。
「私は……均衡が崩れないことを願っているだけ」
それは、肯定でも否定でもなかった。
◆
応接間を辞したあと、エマは確信していた。
(隠されている)
それも、善意だけではない。
マリアンヌはすべてを知っているわけではない。
けれど――何が“触れてはいけない領域”かを、正確に理解している。
(それでも……)
エマは歩みを止めない。
ライオネルの沈黙は、偶然ではない。
誰かが意図して、彼を遠ざけている。
その事実を、今日、確かに掴んだ。
王宮の白い塔を見上げながら、エマは心の中で呟く。
(必ず、辿り着きます)
それが、どれほど危険な場所であっても。
――それでも、引き返す理由にはならなかった。




