83 文官アーヴィン
手紙をそっと引き出しにしまうと、エマは胸の奥にたまった息をゆっくり吐き出した。
まだ何も確証はない。それでも――微かに芽生えた決意は、消えようとしなかった。
(……誰かに訊かなきゃ。王宮のことを知っている人に)
そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは父ではなく、幼い頃から屋敷に出入りしている古株の文官――アーヴィンの顔だった。
役職は高くないが、その分、王宮の“流れ”や噂話に触れる機会は多い。
(明日……アーヴィンさんに聞いてみよう)
無謀かもしれない。
けれど、もうただ怯えて立ち尽くしているだけの自分でいるわけにはいかなかった。
◆
翌朝。
陽が昇って間もない薄明かりの中、エマは玄関先でコートの襟を整えていた。
「お嬢様、今日は外出のご予定が……?」
サラが驚いたように駆け寄ってくる。
「少し、外の空気を吸いたくて……散歩よ。気分転換に」
嘘ではない。ただ、“散歩のついで”ではなく、“目的のための散歩”だった。
サラは何か言いたげに眉を寄せたが、昨日からのエマの顔色を思えば、強くは止められなかった。
「……どうかお気をつけて」
「ええ。すぐ戻るわ」
エマは静かに微笑み、玄関を出た。
朝の冷たい空気が頬に触れ、少し痛む。
それでも、いまの静けさは不思議と心を落ち着かせてくれた。
(アーヴィンさんは……今日も資料庫に寄るはず)
王都に向かう馬車に乗る必要はない。
アーヴィンは王宮と屋敷の間を往復しており、屋敷近くの古い資料庫に朝立ち寄るのが習慣になっている。
そこでなら――王宮で起きている“何か”の欠片を、少しだけ拾えるかもしれない。
(ほんの少しだけ……知りたいの)
エマは歩幅を自然と速めた。
◆
屋敷近くの、苔むした石造りの資料庫。
木々の影はまだ長く、鳥のさえずりだけが静寂を切り裂いている。
扉の前に、見覚えのある背中が見えた。
「……アーヴィンさん!」
声をかけると、灰色の髪の老文官が振り向き、驚いたように目を瞬かせた。
「お嬢様。こんな早くに……どうされました?」
エマは言葉を選んだ。
嘘はつきたくない。だが、すべてを明かすのも違う。
「少し……相談があって。王宮の様子で、最近何か変わったことはありませんか?」
アーヴィンは、目を細めてエマの表情をじっと見つめた。
怒りや疑いではない。
“察した”という静かな色がそこにあった。
「……殿下のことを、お聞きになったのですね」
エマは小さく息を呑んだ。
「やはり、何か……?」
アーヴィンは周囲を見回し、声を潜めた。
「お話しできる範囲だけですが……ここ最近、第一王妃付きの近衛が妙に慌ただしく動いていると聞きます」
「第一王妃……?」
「ええ。殿下のご体調が理由なら、あの方の近衛が動くのは不自然でしょう。殿下は第一王妃様のお子ではありませんからな……」
語尾にわずかに沈みを帯びた響きがあった。
「それに……王宮の西翼が一時的に立ち入り禁止になっているとか」
その一言で、エマの胸がどくりと跳ねた。
「……殿下は、西翼のご自室に……?」
「普段はそうです。しかし今は分かりません。侍医も側近も、殿下のお部屋に入れてもらえないそうで……これ以上は、憶測になります」
アーヴィンはきっぱりと首を振った。
もう言えないのだ、と。
だが――十分だった。
胸の奥に渦巻いていた不安は、冷たく形を成し始める。
(ライオネル様……“静養”なんてしていない)
指先が震えた。
「……ありがとうございます。聞けてよかったです。心の準備が……少しだけできました」
「お嬢様」
アーヴィンはほんの一瞬ためらい、さらに声を低めた。
「どうかご無茶はなさいませんように。今の王宮には……何やら黒い影がうごめいております」
エマは息を飲んだ。
(……やっぱり。何かが動いている……)
「気をつけます。本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、エマは資料庫をあとにした。
◆
その頃――。
王宮西翼の奥深く。
ひっそりとした廊下に、重い扉の閉まる音が響き渡った。
「周囲の警備を強化しろ。許可のない者は、一人たりとも通すな」
命じる声は冷え切っており、感情の気配を一切含んでいなかった。
黒い制服の男たちが無言で動き出す。
その近くの部屋には、外側から鍵がかけられている。
薄暗い室内。
風に揺れるカーテンの影が床をゆらゆらと撫でる。
部屋の奥――。
寝台に横たわるひとりの青年が、影に溶けるように静まり返っていた。
目は閉じられ、胸だけがゆっくりと上下している。
意識があるのか。
それとも眠っているのか。
それを確かめる者は、今この王宮には誰もいない。
青年はただひとり、沈黙の闇に取り残されていた。
第二王子――ライオネル。
彼が目を開く日は、まだ遠い。
しかしその外の世界ではすでに――
ひとりの少女が、彼の沈黙を破るために歩き出していた。
小さな決意は、やがて王宮の渦を変えてゆく。
エマも、ライオネルもまだ知らない。
運命が静かに交差を始めていることに。




