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82 信じて待つだけが

その日の夕刻。

 王宮勤めの父・レジナルドが珍しく早く帰宅した。


「エマ、話がある」


 その表情に、いつもの穏やかさはなかった。

 エマは立ち上がると、父は手で制し、座るよう促した。


「……ライオネル殿下の件ですか?」


 レジナルドは一瞬だけ目を伏せた。


「公には“体調不良による静養”と伝えられている。だが王宮の中では騒ぎになっている。詳細を知る者が、誰一人いないんだ」


その言葉に、喉がきゅっと縮む。


「お父様は……何か、聞いたのですか?」


「エマ」

レジナルドは娘の手をそっと握りしめた。


「王宮には、表に出ない事情が多い。時に、我々のような者は触れない方がいいほどに、複雑で……危うい」


言葉を慎重に選びながらも、明らかに“言えないことがある”と示していた。


「でも……ライオネル様は――」


「エマ」


父の声が重く、優しいが、どこか切迫していた。


「お前が心配している気持ちは、十分分かっている。だが……今は、あまり深入りしない方がいい。王宮の空気が、いつもと違う」


「いつもと……違う?」


 レジナルドはゆっくりと頷いた。


「あえて言うなら……誰かが何かを探っているような、そんな緊張が走っている。人々が互いを警戒している……嫌な予感だ」


 “誰が”“何を”探っているのか――父は言わなかった。


 胸がひどくざわつく。


(ライオネル様……どうか無事でいて)


 父は立ち上がりながら、そっとエマの肩に手を置いた。


「しばらくは外出を控えなさい。いいね」


「……はい」


 その返事は震えていた。


***


 父が部屋を出たあと、エマは窓際に立ち、暮れゆく庭を見つめた。


 空は淡い茜色に染まり、その色の向こうにある王都の方角を、視線が離れない。


 ――何かが起きている。

 直感がはっきり告げていた。


 けれどまだ、この時のエマは知らない。


 その噂の裏に“王宮の陰謀”がひそみ、

 そして愛する人が、その渦中にいることを。


 そして、この日を境に――

 エマの運命そのものが、大きく動き出していくのだった。



***


 昨夜はほとんど眠れなかった。

 寝台に横になっても、まぶたを閉じるたび、ライオネルの顔が浮かぶ。


 ――どうして手紙をくれないの?

 ――何が起きているの?


 問いは尽きないのに、何一つ答えが得られないまま、朝の光だけが静かに差し込んでくる。


 鏡に映った顔色を見て、エマは小さく息をのむ。

寝不足だけではない。不安が色濃く影を落としていた。


 そこへ、控えめなノックが響く。


「お嬢様……本日の郵便でございます」


 サラの声はいつもより柔らかく、そして慎重だった。

 エマは胸を押さえながら扉を開ける。


「……今日も、ないのね」


 サラは悲しげに眉を下げた。


「申し訳ありません。王都方面からの便りが、ここ数日全体的に遅れているそうです。お嬢様のものだけが届かないわけではありません」


 慰めるような言葉だったが、エマの胸に安堵は落ちてこなかった。


***


 食堂に向かう途中、使用人たちの小声が耳に入った。


「第二王子殿下の警護をすべて第一王妃側の近衛が引き継いだって話……本当なのか?」


「いや、そこまでは……ただ、“王宮の一角が封鎖されている”って話は聞いたぞ」


 エマは思わず足を止めた。


 使用人たちはエマの存在に気づき、慌てて頭を下げる。


「お、お嬢様……! 失礼しました」


「いいえ……気にしないで」


 気にしないで――と言いながら、心臓はひどく速く打っていた。


(封鎖……? 誰が……何のために?)


 喉が乾く。

 けれどここで追及しても、彼らが知り得ることは限られているだろう。


***


 夕刻、父が屋敷に戻る。

 昨日よりも帰宅が早い。

 だが顔色は、さらに悪かった。


「お父様……!」


「エマ、落ち着きなさい。部屋で話そう」


 二人は書斎に入り、扉が閉まると、父は肩を重く落とした。


「……王宮で、何かあったのですね」


 エマがそう切り出すと、父はしばらく沈黙した。

 言葉を選んでいる――それが手に取るように分かる。


「……誰がどこで何をしているのか。私にも分からない。だが、第二王子殿下の周囲が“完全に沈黙している”のは確かだ」


「沈黙……?」


「“体調不良で静養中”という割には、あまりに不自然だ。通常ならば侍医や側近が出入りするはずだが……それもない」


 息が詰まる。


「……お父様、それはつまり……」


「エマ、これ以上は聞くな」


 静かながら、父の声は厳しかった。


「今の王宮は、誰がどこで聞いているか分からん。噂に尾ひれがつけば、人の人生など簡単に潰される。ましてや……第二王子殿下に関わる話だ」


 それは、

 “口外すれば危険だ”

 という暗示だった。


 父がこんな言い方をするのは初めてだった。


(王宮……そんなに緊迫しているの……?)


 エマは唇を強く噛んだ。


「ですが……ライオネル様に、何かあったのではありませんか……?」


「エマ」


 父は娘の肩に手を置く。


「殿下は……そう簡単に倒れるお方ではない。幼いころから、数え切れぬ困難を乗り越えてこられた。今回も……きっと無事だ」


 慰めのつもりかもしれない。

 けれど父の口調には、微かな“恐れ”が混じっていた。


(……お父様も、不安なんだ)


 胸の奥が締めつけられる。


***


 夜になり、エマは部屋でひとり、机に広げたままのライオネルの手紙を見つめていた。


 どの手紙にも、彼らしい筆致で、

 “いつかまた会える日を楽しみにしている”

 “君と過ごした温室の時間が忘れられない”

 など、穏やかで優しい言葉が並んでいる。


 それらがすべて、あまりに真摯だからこそ――

 今の沈黙は、恐ろしかった。


(……待っているだけでは、だめなのかもしれない)


 胸の奥底で、その考えが静かに芽を出す。


 彼の身に何が起きているのか知りたい。

 どこにいるのか、誰といるのか、苦しんでいないか――それさえ分からないのは、耐えがたかった。


 窓の外、風に揺れる庭の影が、まるで問いかけてくる。


 ――あなたは、それでも何もしないの?


 エマはゆっくりと手を握りしめた。


(信じて待つだけが“正しさ”じゃない。私にも……できることがあるはず)


その瞬間、胸の中で何かが決まった。


まだ輪郭のない、小さな決意。

だが確かに、芽吹いたばかりのそれは、エマを次の行動へと導き始めていた。

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