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80 運命の人

夕陽がすっかり傾き、屋敷に戻ったエマは、自室の扉を閉めるなり思わずため息をついた。

 胸の鼓動はまだ少し速い。今日の出来事が頭から離れない。


「……はぁ。もう、どうしてあのタイミングで出てくるんですか……」


『まぁ、そんな言い方なさらないで。だって、あんなに麗しい殿方、放っておけます? あの瞳の澄み具合! 頬の線の整い方! 芸術ですわ!』


 いつの間にか背後に現れたオードリー夫人が、まるで舞踏会の話でもしているかのようにうっとりと語る。

 羽扇で頬を仰ぎながら、夢見心地の表情だ。


「芸術でも、困るんです! ライオネル様は“生きてる”んですよ!? 夫人が出てきたせいで、私……どれだけ焦ったと思ってるんですか!心臓が喉まで跳ね上がって……あのまま倒れるかと思いました!」


『まぁまぁ、そんなに怒らないで。おかげでお二人の距離が少し縮まったじゃありませんの。』


「え?」


 エマが振り返ると、夫人は意味ありげに唇をゆるめた。


『殿下、あなたをとても優しく見ていらしたわ。目に見えぬものを、笑わずに受け止める方――そういう方は、なかなかいませんのよ。』


 エマの胸に、あの午後の光景がよみがえる。

 「見えなくても、挨拶を返したくなるような気がします」と言った、彼の柔らかな声。

 その瞬間の穏やかな笑みが、まるで薔薇の香りのように思い出の中で揺れた。


「……本当に、優しい方です。きっと、私の言葉を変だと思ってもよかったのに」


『えぇ、でもそうなさらなかった。あの方……あなたの“信じるもの”を大切にしてくださるのね。』


 エマは頬に熱が上るのを感じて、慌てて首を振った。

「そ、そんな……深い意味じゃ……!」


『あらあら、顔が真っ赤。おほほ、まるで初恋の乙女のようですわ。』


「ち、違いますっ!」


 必死に否定する声をよそに、オードリー夫人はうっとりと天井を見上げて言った。

『でもまぁ、あの方があなたの“運命の相手”なら、わたくし、幽霊でも祝福いたしますわ! ブーケトスの瞬間には、風を吹かせて差し上げますから!』


「結婚式なんて話が飛びすぎですからっ!!」


 エマは思わず声を荒げる。

 すると、ちょうどそのとき扉がノックされた。


「お嬢様? お声がしましたが、どなたか……?」

 侍女サラの心配そうな声がする。

 エマは青ざめて、慌てて答えた。


「い、いえ! 一人よ! ちょっと大きな声を出したい気分だったの!」


『まぁ、わたくしの存在、隠すなんてつれないですわね!』


(お願いだから、今は黙ってて!)


 サラの足音が遠ざかると、エマは崩れるように椅子に座った。

 頭を抱えながら、苦笑がこぼれる。


「……本当にもう、あなたって人は……」


『ふふ、退屈しないでしょ? わたくしがついている限り、毎日がドラマチックでしてよ』


 その言葉に、エマは肩の力を抜いた。

 夕陽がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気が淡く金色に染まる。

 薔薇園の香りがまだ微かに残っていた。


 庭園でのライオネルの姿を思い出す

 彼は誰かに何かを告げるように、そっと空を見上げて微笑んでいる。


(……もしかして、本当に――)


 胸の奥がじんわりと温かくなる。

 オードリー夫人の姿は、いつの間にか消えていた。

 ただ、その言葉の余韻だけが、やさしく心に残っている。


『信じるものを、笑わずに受け止めてくれる方――それが、あなたの運命の人。』


 窓辺に立つエマの頬を、夕風がそっと撫でた。

 その香りは、午後に咲いた薔薇の名残のように甘く、切なく、やさしかった。


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