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79 薔薇薫る午後に去り行く馬車

夕暮れの光が玄関前を金色に染めていた。

 ライオネルの馬車が支度を終え、馭者が手綱を整える。秋の風がゆるやかに吹き抜け、薔薇の香りが淡く漂った。


「本日はご多忙の中、お越しいただきありがとうございました、ローズベリー卿、奥様」

 ライオネルは深く一礼する。


「いえ、殿下にお越しいただけるとは、こちらこそ光栄でしたわ」

 母が優雅に頭を下げると、隣の父は緊張を隠せない様子で胸を張った。

「殿下にお会いするのは王宮以来です。……昔と変わらず立派なお姿で、実に頼もしい限りですな」


「お褒めにあずかり光栄です」

 ライオネルが穏やかに微笑むと、空気が少し和らぐ。


 その隣で兄が肩をすくめ、小声でエマに囁いた。

「まさか殿下が家に来るとはな。父上、朝から三回もネクタイ直してたぞ」

「兄様、声が大きいです!」

「はは、だって滅多にないことだろ」


 母が咳払いして二人をたしなめたが、ライオネルは微笑を崩さず、その様子を温かく見守っていた。


「殿下、エマが庭を案内いたしましたが、ご満足いただけましたか?」

 母の問いに、ライオネルは一瞬エマへ視線を向けた。

 その瞳がやわらかく光る。


「ええ、とても。薔薇の世話が丁寧で、どの花も幸せそうに咲いていました。……まるで、庭そのものが語りかけてくるようでした」


「まあ……そんな風に言っていただけるなんて」

 母が感激のあまり手を胸に当てる。


 一方でエマは顔を上げられず、視線を地面に落とした。

 彼の言葉に、胸の奥がふわりと熱を帯びる。

 昼間――見えない友人“オードリー夫人”のことを打ち明けたあの瞬間がよみがえり、今も少し頬が熱い。

 彼は驚かず、ただ優しく受け止めてくれた。その眼差しが忘れられない。


「エマ、殿下にお礼を申し上げなさい」

 父の声に促され、エマははっとして一歩前に出た。


「きょ、今日は本当にありがとうございました。殿下に庭を褒めていただけて……とても光栄です」


「こちらこそ。あなたが案内してくれたおかげで、特別な時間を過ごせました」

 ライオネルは穏やかに言葉を返す。

「また薔薇の季節が変わる頃、見に伺ってもよいでしょうか?」


 その一言に、エマは思わず息をのんだ。

「……はい。お待ちしています」

 言葉にすると、胸の奥がじんわりと温かく広がっていく。


 父が満足げにうなずき、母も微笑んだ。

「まあまあ、ぜひ。またお越しくださいませ。その頃には、エマの案内の腕ももっと上がっておりますわ」

「ええ、楽しみにしています」


 兄がにやりと笑い、エマの耳元でささやく。

「次に来るときは“個人的な理由”だったりしてな」

「もうっ、何を言ってるんですか!」

 顔を真っ赤にして小声で抗議するエマに、兄はおかしそうに肩をすくめた。


 そんなやり取りを見て、ライオネルは目を細める。

「……とても温かいご家族ですね。今日という日を忘れません」


 その言葉を最後に、彼は馬車へと乗り込む。

 馭者が軽く鞭を鳴らすと、車輪が音を立ててゆっくりと動き出した。


 家族全員で見送る中、エマはただ黙ってその背を見つめる。

 風が頬をなで、遠ざかる馬車の窓の奥に、確かにライオネルの微笑が見えた気がした。


 やがて馬車が角を曲がり、姿が見えなくなると、兄が大きく息をついた。

「ふぅ……緊張したな。あの方、本当に“王子様”って感じだ」

「当たり前でしょう。実際の王子様ですもの」

 母の言葉に父も笑いを漏らした。


 エマはその声を聞きながら、そっと胸に手を当てた。

 残るのは、まだ消えないぬくもりと、かすかな高鳴り。


 沈む陽が庭を照らし、薔薇たちが淡く光を返した。

 それを見上げながら、エマは静かに微笑んだ。

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