77 “殿下”の訪問
使用人が新たに茶器を運び込み、温かな香りが応接間を満たした。けれども、誰もすぐには口をつけなかった。皆の視線は、ただライオネルへと注がれている。
「殿下……いえ、ライオネル様」
母が慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「娘が以前助けていただいたとのこと、改めて御礼申し上げます」
「私の方こそ。エマ嬢があの場にいてくださらなければ、私はどうなっていたか……」
ライオネルは穏やかな声で返し、その横顔に一瞬の真剣さが差した。
父はなおも戸惑いを隠せぬ様子だったが、やがて決意したように姿勢を正した。
「殿下のお言葉、ありがたく頂戴いたします。……ただ、どうかお忘れなきよう。娘はあくまで一介の貴族の娘。軽い気持ちで近づかれるのなら――」
「父上!」
エマの兄が慌てて制止した。場の空気が再び張り詰める。
しかしライオネルは落ち着いたまま、微笑を崩さなかった。
「ご心配はもっともです。……ですが、私は軽んじるつもりなど毛頭ありません」
その言葉には、揺るぎない響きがあった。
エマは思わず息をのんだ。父と兄の間で交わされる視線の応酬。母はただ扇を胸に抱き、沈黙を守っている。
そして次の瞬間、ライオネルは再びエマを真っすぐに見つめた。
「エマ嬢。――もしよろしければ、改めて庭を散策させていただけませんか。昨日はあまりにも急で……お礼を伝える時間も足りませんでしたから」
応接間に小さなざわめきが起こる。父の眉間の皺は深まったが、断固とした拒絶の言葉は出てこなかった。
エマは膝の上で強く指を組み、心臓の高鳴りを押さえながら小さく頷いた。
「……はい」
その瞬間、ライオネルの微笑みがふっと和らぐ。
応接間の緊張はまだ解けきらないまま、二人の時間は新たに動き始めようとしていた。
***
秋の午後の陽射しがやわらかく庭を包み、薔薇の香りが風に揺れていた。
応接間を出たエマは、胸の奥がまだほんのり熱を帯びているのを感じていた。
(……とうとうお父様たちにライオネル様のことが知られてしまったわ)
扉の外で待っていたライオネルが、いつものように穏やかな笑みを浮かべて言った。
「お庭を少し歩きませんか? 昨日はほんの一部しか見られませんでしたから」
「……ええ、もちろん」
エマは頷き、並んで歩き出した。
小道の両脇には秋薔薇が静かに咲き誇り、遠くでは噴水の水音がやさしく響いている。
二人の歩調は自然とそろい、屋敷の喧騒が遠のくにつれて、ようやくエマの肩の力も抜けていった。
「ご家族の前では、すっかり驚かせてしまいましたね」
ライオネルが少し苦笑を含んで言う。
「ええ……お父様なんて、顔色が真っ白で……。
でも、私がライオネル様のお立場を知っていて黙っていたと気づいたら、あとできっと叱られます」
エマが唇を尖らせると、ライオネルは苦笑した。
「では、私も叱られに来たようなものですね」
「殿下まで? お父様が気絶なさらないと良いのですけれど」
「その時は、責任を取って私が介抱しますよ」
「まあ……そんなこと、殿下自らなさるなんて」
「いいんです。あなたの前では、王子であるより“私自身”でいたいから」
その一言に、エマは胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
風が通り抜け、エマの髪をそっと揺らす。ライオネルの指先が一瞬、その一房を掬い上げそうになって――けれど、彼はすぐに引っ込めた。
「昨日、あなたが薔薇を褒めていたでしょう。あの言葉が、ずっと心に残っていました」
「……え?」
「“完璧でなくても、美しいと思える”――そう言ったでしょう? あれは、私にも必要な言葉でした」
エマははっとした。あのときは何気なく口にしただけの言葉だったのに。
「ライオネル様……」
「完璧であろうとすればするほど、人は誰かを遠ざけてしまう。私も、その一人だったのかもしれません」
ライオネルの声には、わずかな寂しさが混じっていた。
エマは言葉を探しながら、そっと視線を上げる。
「ライオネル様は……遠ざけたりなんて、なさっていません。少なくとも、私には」
その言葉に、ライオネルの表情がふっと和らいだ。
静かな沈黙が二人を包む。どちらも、それ以上何かを言う必要を感じなかった。
やがて噴水のそばで立ち止まり、ライオネルが柔らかく言った。
「それにしても、ご家族の反応は予想以上でしたね。次にお会いするときは――もう少し穏やかに名乗る方法を考えなければ」
「“殿下の訪問”が続けば、父が心臓を痛めますわ」
「では、“殿下”は休暇にして、“ライオネル”として伺いましょう」
軽口の応酬に、エマは思わず笑いを漏らした。
(……本当に、この方はずるい)
二人は顔を見合わせ、そっと笑った。
陽光がバラの花弁を透かして輝き、まるでその瞬間だけ、時間が止まったかのようだった。




