表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/85

77 “殿下”の訪問

使用人が新たに茶器を運び込み、温かな香りが応接間を満たした。けれども、誰もすぐには口をつけなかった。皆の視線は、ただライオネルへと注がれている。


「殿下……いえ、ライオネル様」

 母が慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「娘が以前助けていただいたとのこと、改めて御礼申し上げます」


「私の方こそ。エマ嬢があの場にいてくださらなければ、私はどうなっていたか……」

 ライオネルは穏やかな声で返し、その横顔に一瞬の真剣さが差した。


 父はなおも戸惑いを隠せぬ様子だったが、やがて決意したように姿勢を正した。

「殿下のお言葉、ありがたく頂戴いたします。……ただ、どうかお忘れなきよう。娘はあくまで一介の貴族の娘。軽い気持ちで近づかれるのなら――」


「父上!」

 エマの兄が慌てて制止した。場の空気が再び張り詰める。


 しかしライオネルは落ち着いたまま、微笑を崩さなかった。

「ご心配はもっともです。……ですが、私は軽んじるつもりなど毛頭ありません」

 その言葉には、揺るぎない響きがあった。


 エマは思わず息をのんだ。父と兄の間で交わされる視線の応酬。母はただ扇を胸に抱き、沈黙を守っている。


 そして次の瞬間、ライオネルは再びエマを真っすぐに見つめた。

「エマ嬢。――もしよろしければ、改めて庭を散策させていただけませんか。昨日はあまりにも急で……お礼を伝える時間も足りませんでしたから」


 応接間に小さなざわめきが起こる。父の眉間の皺は深まったが、断固とした拒絶の言葉は出てこなかった。


 エマは膝の上で強く指を組み、心臓の高鳴りを押さえながら小さく頷いた。

「……はい」


 その瞬間、ライオネルの微笑みがふっと和らぐ。

応接間の緊張はまだ解けきらないまま、二人の時間は新たに動き始めようとしていた。


***


秋の午後の陽射しがやわらかく庭を包み、薔薇の香りが風に揺れていた。

 応接間を出たエマは、胸の奥がまだほんのり熱を帯びているのを感じていた。

(……とうとうお父様たちにライオネル様のことが知られてしまったわ)


 扉の外で待っていたライオネルが、いつものように穏やかな笑みを浮かべて言った。

「お庭を少し歩きませんか? 昨日はほんの一部しか見られませんでしたから」


「……ええ、もちろん」

 エマは頷き、並んで歩き出した。


 小道の両脇には秋薔薇が静かに咲き誇り、遠くでは噴水の水音がやさしく響いている。

 二人の歩調は自然とそろい、屋敷の喧騒が遠のくにつれて、ようやくエマの肩の力も抜けていった。


「ご家族の前では、すっかり驚かせてしまいましたね」

 ライオネルが少し苦笑を含んで言う。


「ええ……お父様なんて、顔色が真っ白で……。

でも、私がライオネル様のお立場を知っていて黙っていたと気づいたら、あとできっと叱られます」

エマが唇を尖らせると、ライオネルは苦笑した。


「では、私も叱られに来たようなものですね」


「殿下まで? お父様が気絶なさらないと良いのですけれど」

「その時は、責任を取って私が介抱しますよ」


「まあ……そんなこと、殿下自らなさるなんて」

「いいんです。あなたの前では、王子であるより“私自身”でいたいから」


 その一言に、エマは胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。

 風が通り抜け、エマの髪をそっと揺らす。ライオネルの指先が一瞬、その一房を掬い上げそうになって――けれど、彼はすぐに引っ込めた。


「昨日、あなたが薔薇を褒めていたでしょう。あの言葉が、ずっと心に残っていました」

「……え?」

「“完璧でなくても、美しいと思える”――そう言ったでしょう? あれは、私にも必要な言葉でした」


 エマははっとした。あのときは何気なく口にしただけの言葉だったのに。

「ライオネル様……」

「完璧であろうとすればするほど、人は誰かを遠ざけてしまう。私も、その一人だったのかもしれません」


 ライオネルの声には、わずかな寂しさが混じっていた。

 エマは言葉を探しながら、そっと視線を上げる。

「ライオネル様は……遠ざけたりなんて、なさっていません。少なくとも、私には」


 その言葉に、ライオネルの表情がふっと和らいだ。

 静かな沈黙が二人を包む。どちらも、それ以上何かを言う必要を感じなかった。


 やがて噴水のそばで立ち止まり、ライオネルが柔らかく言った。

「それにしても、ご家族の反応は予想以上でしたね。次にお会いするときは――もう少し穏やかに名乗る方法を考えなければ」


「“殿下の訪問”が続けば、父が心臓を痛めますわ」


「では、“殿下”は休暇にして、“ライオネル”として伺いましょう」


 軽口の応酬に、エマは思わず笑いを漏らした。

(……本当に、この方はずるい)


 二人は顔を見合わせ、そっと笑った。

 陽光がバラの花弁を透かして輝き、まるでその瞬間だけ、時間が止まったかのようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ