75 今夜はただ眠りたい
長い一日の終わり。
家族に囲まれた夕餉の席をどうにかやり過ごし、エマは自室の扉を閉めると、背中をもたれさせて深いため息をついた。
胸の奥にいろいろなものが残っている。父の厳しい眼差し、兄のからかうような声、母のやさしい笑み――。にぎやかで温かい時間だったはずなのに、心は今なおざわめきに揺さぶられていた。
テーブルの上に置かれた花瓶の薔薇が目に入る。昼間、ライオネルと歩いたバラ園の光景がふいに蘇る。
小さく首を振り、気を逸らそうとした瞬間――。
『まあ、なんて甘やかな吐息! まるで舞踏会を踊り終えた令嬢みたいね!』
ぱっと空気が揺れ、鏡の前に鮮やかなドレス姿の婦人が現れる。オードリー夫人である。
「ひっ……! オードリー夫人……」
『ええ、もちろん待っていたわ。あなたが部屋に戻るのをね! だって、あんな素敵な夕餉のあとの姿を見逃すなんて、私にはできないもの!』
エマは額に手を当て、げんなりとした声をもらす。
「……もう本当に疲れているんです。お父様に問い詰められて、お兄様には散々からかわれて……」
『あら、それは“祝福されている”証拠よ! お父上の顔ときたら……娘を溺愛する父親そのもの。手放したくなくて必死に言葉を並べていたわ。ふふ、微笑ましいこと!』
「……そう、かもしれませんけど」
エマはベッドに腰を下ろし、小さな声で呟く。
夫人は扇子を軽やかに開き、空中を漂いながら続ける。
『そしてお母様。“あなたが幸せになれるなら”と仰ったでしょう? あれは最高に美しかった。母の一言はどんな詩より胸を打つの』
エマの頬がじんと熱くなる。思い出すだけで胸の奥まで温かくなり、息が詰まりそうになる。
『そして兄上のからかい! あれも悪くないわ。家族そろって、あなたの恋の芽吹きを見逃すまいと目を光らせている……ああ、羨ましいこと!』
「もう……やめてください……」
エマは枕を抱きしめ、顔を隠してしまう。
『恥じることはないの。むしろ誇りなさい。あなたは今日、初めて“誰かと向き合おうとする自分”を見せたのよ』
「……向き合う、なんて」
小さな否定の声は、すぐに弱く消えていった。
夫人は微笑みを深め、静かに言葉を紡ぐ。
『怖がらなくていいの。恋というものは、薔薇の蕾と同じ。ほころぶ時を待つだけで、勝手に香り立つものよ』
胸の奥がちくりと疼いた。ライオネルのまなざし、差し伸べられた手、庭園で交わした短い会話――どれも鮮やかすぎて、目を閉じても消えてはくれない。
「……だから、考えすぎたくないんです。今はただ……眠りたいだけ」
力なくそう告げると、夫人は少し残念そうに肩をすくめた。
『まあ、今夜はそれ以上は聞かないでおいてあげるわ。でも覚えておきなさい? あなたがどんなに拒んでも、心はもう揺れているの。明日の朝、目を覚ましたとき――その鼓動はもっとはっきりしているはずよ』
ぱちん、と扇子を閉じる音が響く。夫人の姿は霧のように淡く揺らぎ、やがて消えていった。
残されたエマは枕に顔を押しつけたまま、小さく息を吐く。
その吐息は疲れを含みながらも――どこか、温かな色を帯びていた。




