70 幕間 ─屋敷の中は大騒ぎ─
その日、ローズベリー家は珍しく落ち着きを欠いていた。
原因はただひとつ――。
「お嬢様に……男性のお客様?」
門番が目を丸くして報告した瞬間、屋敷中に噂が走った。
「なに!? お嬢様に殿方が!?」
「まだ婚約者も決まってないのに!」
「こんなこと初めてだわ!」
侍女たちは大慌てで廊下を駆け、使用人の一部は耳打ちを繰り返し、あっという間に「謎の男性来訪事件」は屋敷全体の話題となった。
台所では――。
「ねえ、聞いた? 王宮の騎士様らしいわよ!」
「まあ! じゃあ、やっぱり求婚かしら!」
「急にそんなこと、あり得るの?」
「でも、“恋の始まりは突然に”って言うじゃない!」
「それは台所の噂話の始まりでしょ!」
パン生地を捏ねながらの口論は、次第に恋愛小説顔負けの妄想合戦に発展していった。
庭師たちは庭師たちで――。
「馬を見たか? あれは立派な軍馬だったぞ」
「てことは、やはり王宮勤めは本当か」
「エマ様に直接会いに来るとは……よほど惚れ込んでるに違いない!」
「惚れ込んで……!?」
彼らの頬は土埃でなく、何やら熱気で赤らんでいた。
――一方、家族はというと。
「なに? エマに男性客だと?」
新聞を落とした長兄が声を上げる。
「どこの誰だ」
「騎士様らしいわよ」と母が言う。
「騎士? しかも、わざわざ直接?」
父は咳払いをし、腕を組んだ。
「……軽い気持ちではあるまいな」
「え、ええ。まさか求婚では……」と母が顔を赤らめると、兄が慌てて立ち上がった。
「まずは私が応接間に――」
「待て。私も行く」
「お待ちください! ご家族が行かれますとお相手の方が萎縮してしまいます!」
と慌てて執事のハリスが止めていた。
家族会議が紛糾する中で、もっとも浮かれていたのは屋敷の幽霊、オードリー夫人だった。
『きゃあ! ついに来たのね! エマ、あなたもやっと“恋の現場”に立てたじゃない! わたくし感激よ!』
夫人はすっかりお祭り気分で、壁をすり抜けながら使用人たちの頭上を飛び回っていた。
『皆さん、耳を澄ませなさい! 応接間からはきっと甘い声が聞こえるはず! “エマ、君を迎えに来た”とか、“共に未来を”とか!』
もちろん、実際の応接間の中はそんな様子ではなかった。
「お茶をどうぞ」
「ありがとう。……落ち着いた屋敷だな」
「そう見えるなら良かったわ」
エマとライオネルは、静かに紅茶を口にしているだけ。事件の話を少し交わし、時折微笑む。それだけの穏やかな再会だった。
――だが廊下の外では。
「いま笑った! お嬢様、笑ったわ!」
「きっと口説かれているに違いない!」
「いや、“君を迎えに来た”って言ったのよ、絶対!」
「きゃああ!」
屋敷中の誤解と妄想は膨れあがる一方で、当人たちの静けさとの落差は広がるばかり。
こうして、エマのささやかな再会は――屋敷の人々にとって大事件のように受け止められることとなった。




