67 少女たちの旅立ち
エマはリジーを部屋まで送り届けたあと、そっと自室の扉を閉めた。
空がほんのり白み始める頃――夜と朝のはざまの静けさが、屋敷を包んでいた。
ベッドに身を沈めながら、エマは遠くの風の音に耳を澄ませる。
枕元には、小さな銀の髪飾り。
月明かりを受けた花びらが、淡くきらめいている。
(リジーが……ちゃんと謝れてよかった……)
やがて、まぶたが重くなり、意識がゆっくりと沈んでいく――
***
気がつくと、エマは花の咲き誇る草原に立っていた。
どこまでも続く柔らかな丘と、色とりどりの花々。風が花の香りを運び、葉擦れの音がささやくように響いていた。
遠くから、ふたりの少女が駆けてくる。
クレアが、微笑みながら立ち止まる。手には、あの髪飾り。けれどその姿は、淡い光の粒のように透けていて、風とともに揺れていた。
『あの子が……謝ってくれたの。すごく、うれしかった』
かすかな声が風に溶け、もう一人の少女――ベスがそっと微笑んだ。
『わたしは、ずっと……言えなかった。あのとき、ごめんねって。でも……ほんとはね、ずっと返したかった。クレア……ほんとうに、ごめんなさい』
その言葉に、クレアがそっとベスの手を握る。
『……ねぇ、ベス。わたし、ちゃんと見てたよ。あなたが、ずっとわたしのこと想ってくれてたの』
それは、恨みではなかった。やさしさに満ちた眼差し。
そして――
『謝ってくれるの、待ってたの』
そのひと言が、ふたりの間に流れる空気をやわらかく変えていく。
『私たち、もう行かなきゃ』
クレアがふっと笑い、ベスも小さくうなずいた。
やがてふたりの姿は、やわらかな光に包まれていった。
草原の花々が風に揺れ、きらめく光の粒が空へと舞い上がる。
エマは声も出せず、ただその光景を見つめていた。
けれど胸の奥に、あたたかくやさしいものが静かに満ちていくのを感じていた。
そして最後に、耳元でふっと風が囁くように聞こえた。
――ありがとう
***
それから数日が過ぎ、バラ園にはふたたび穏やかな日差しが戻っていた。
屋敷の中でも、「人影を見た」「笑い声がした」と怯えていた使用人たちの声は、ぴたりと途絶えた。まるで最初から何もなかったかのように――ただ、静けさだけが残っていた。
朝食を終えたエマは、書斎へ向かう途中でふと足を止める。
廊下の窓越しに庭を見下ろしたそのとき――
『ごきげんよう、エマ』
芝居がかった声が背後から響く。
「……オードリー夫人」
振り返ると、華やかなドレスをまとった夫人が、優雅に扇を広げて立っていた。
『どうやら、ようやく静かになったようね。あの子たち……無事に旅立てたのでしょう』
「……ええ。夢で、最後に会いました。ふたりとも、笑ってました」
エマの言葉に、夫人は満足げに頷き、窓辺に近づくような仕草を見せる。
『あれはね、少し特殊な現象だったのよ』
「特殊、というと?」
エマが問い返すと、夫人はしなやかに扇をたたみながら語りはじめた。
『まず、ペンダント。マーガレットの母親の大切な遺品。“守りたい”という強い感情が宿っていたわ』
「……ええ。返してからも、何かが残っている気がしていました」
『そして、あの髪飾り。クレアが大事にしていた、幼い日の思い出。そこには“謝りたかった”という後悔が残っていた。儚く、でも強い想いね』
エマは思わず視線を落とした。
あの髪飾りはいま、引き出しの奥にしまってある。
『そして、リジーの罪の意識。許されたいと願いながら、許される資格はないと苦しんでいた』
オードリー夫人の声は、いつになく静かだった。
『その三つ――“守りたい”という念、“後悔”、そして“罪悪感”。それらが重なり合って、あの庭の“境界”をゆがめてしまったの。だから、霊の声も影も、現と幽のあいだで迷いはじめた』
「境界が……」
『ええ。“想い”は、時に理を越えるのよ。この屋敷では、特にね』
そう言って夫人はふっと微笑む。
『でも、もう大丈夫。あなたが“仲介者”として関わったことで、すべては終わったわ。未練はほどけ、境界は戻った。あの子たちも、リジーも、前に進める』
「……私が仲介者、なんて。私はただ、できることをしただけです」
エマの言葉に、夫人は優雅に頷いた。
『それで十分。――“できること”がある者は、それだけで特別なのよ、エマ』
その言葉が、エマの胸に静かに届いた。
あの草原で見た少女たちの笑顔が、ふとよみがえる。
『さあ、それより。今朝はドレスの相談に来たのよ。次の社交茶会に向けて、もう少し華やかさを足したいと思って――』
「ふふっ……もう、いつも急に話題を変えるんですから」
エマは思わず笑みをこぼす。
そして、屋敷の朝は静かに、けれど確かな安らぎをたたえて――
ふたたび、時を刻みはじめていた。




