61 オードリー夫人の領分
夜。エマはランプの火を落とし、ベッドに腰掛けたまま、窓の外に広がるバラ園を見つめていた。
(このまま放っておいていいの……?)
屋敷ではここ数日、バラ園にまつわる“何か”の気配に使用人たちが声を潜め、怯えていた。
サラでさえも、ふとした拍子に「最近、お屋敷の空気が変な気がする」とこぼしたほどだ。
エマは意を決して、呼びかけた。
「……オードリー夫人。いらっしゃるなら、お話があります」
鏡台の前の空気が、ふわりと揺らめいた。
『まぁ。呼び出されるなんて、まるでわたくしが下働きのようじゃありませんの』
華やかなレースの帽子と淡い紫のドレスを纏ったオードリー夫人が、軽やかに姿を現す。けれどその表情は、いつになく静かだった。
「今、屋敷の中でおかしなことが起こっています。ペンダントを掘り出したあの日から、ずっと」
『あらあら。あのペンダント、そんなに騒ぎを巻き起こしているの?』
「使用人たちが怯えています。物音や気配を感じるって」
エマは真っ直ぐに夫人を見つめた。
「オードリー夫人。あなたなら、何かできるのではありませんか?」
その問いに、夫人はふうっと小さく息をついた。扇子を扇ぐような仕草を見せながら、ゆっくりと首を振る。
『無理ですわね』
「……どうして?」
『だって、わたくしが守っているのは“ローズベリー家”ですもの』
その言葉に、エマは一瞬言葉を失った。
『誤解なさらないで。貴女達が困っていれば、わたくし、全力でお手伝いするつもりよ。ええ、亡霊を引きずり出してでも。でも――今困っているのは、使用人たち。……ローズベリー家の者では、ありませんわ』
「……でも、同じ屋根の下で暮らしていて……」
『そうね。けれど、わたくしたち霊には“領分”がありますの。人であったころの感情や善悪とは別に、越えてはならない境界線というものが、確かにあるのよ』
エマの瞳が揺れる。
『それに……あのロケット。あれは“帰りたがっている”だけ。無理に引き止めたり、持ち主以外が執着したとき、歪みが生まれるの。……だから、放っておいたの』
「でも、もうペンダントは返したのに……」
『ええ。持ち主――あの娘、マーガレット嬢のところへ戻ったわ。
でも今は、誰かの後ろめたさと不安が混ざって、“形になりかけている”。』
ふっと、オードリー夫人の瞳が細められる。その光はやわらかくも冷たかった。
『貴女には、人としての情も、好奇心もある。だから、貴女が動くべきですわ。これは、貴女の“役目”なのかもしれないわね』
「私の……」
『貴女は見ることができるし、感じることもできる。霊のわたくしには届かない想いが、貴女にはきっと見えるはず』
それだけ言うと、オードリー夫人はゆっくりと宙を舞い、窓辺の方へ向かう。
『ああ、でもお気をつけあそばせ。
ロケットは戻ったけれど、まだ“危険が去った”とは限りませんわ。
だからこそ、あの子は騒ぎを起こしているのでしょう』
それは、まるでペンダントが――まだマーガレットの身を案じているというような言葉だった。
『……良き聞き手に、良き“仲介者”に。貴女なら、できると信じておりますわよ』
最後の言葉は、まるで愛娘を見守る母のように優しく、けれど冷徹な割り切りがそこに確かにあった。
やがて夫人は、春の夜風に紛れるように姿を消す。
残された静寂の中、エマはじっと窓の向こうに目を向ける。
(ロケットは、まだ“終わっていない”と思っている……)
ならば、自分が確かめるしかない――この屋敷で、いま何が起きているのかを。




