60 屋敷の異変
ペンダントが返されてからというもの、バラ園は少しずつ本来の美しさを取り戻しつつあった。
エマの指示のもと、庭師が丹念に手を入れたおかげで、土の香りにまでどこか清々しさが漂いはじめている。
けれど――空気は、どこか違っていた。
屋敷のあちこちで、ひそやかな“噂”がささやかれはじめていたのだ。
「夜中、誰もいないはずの庭で……人影を見たんですって」
朝の紅茶を運びながら、侍女のサラがエマの耳元にそっと囁く。声は小さく、それでいて真剣だった。
「どんな人影なの?」
「詳しいことは分からないそうですが……細身の女性で、バラの茂みに沿って、ゆっくり歩いていたとか。近づこうとすると、ふっと消えたんですって。霧のように」
エマは静かにカップを傾けながら、窓の外――バラ園の奥を見やった。
(バラの茂み……あのペンダントを見つけた場所)
「それに……」と、サラが言い淀む。
「今朝、庭師のルークさんが、土を掘り返した跡を見つけたそうです。猫か何かの動物の仕業かと思ったけれど……どうにも人の手で掘られたように見えたって」
「夜の庭に、誰かが?」
サラは小さくうなずく。
「それから、リジーの様子が最近おかしいんです」
「リジーが……?」
「はっきりしたことは言えませんが、いつも疲れた顔をしていて……目が合うと怯えたような表情で。何かに追われているみたいに、何度も後ろを振り返ったりして」
エマはそっとカップを置き、視線を落とした。
(誰かが、夜な夜なバラ園に現れている? 土を掘った跡……リジーの異変)
ただの噂で終わればいい。けれど、今まで静かだった屋敷の中に、確かに“何か”がじわじわと滲み出してきている気がする。
***
翌日の夕方、使用人の一人――ロバートがエマに声をかけてきた。
「……あの、夜の見回り……少し、早めに交代させてもらえますか」
無口で真面目な青年が、自分からこんなことを言ってくるのは珍しい。エマはやわらかく問いかけた。
「何かあったの?」
ロバートは一瞬ためらい、そしてぽつりと口を開いた。
「……見たんです。バラ園に、誰かが立っていました」
「誰かって……顔は見た?」
「いえ、よくは。でも、女の人のようでした。白いドレスに、長い髪……風に揺れていて……あれは、普通じゃありませんでした」
その声には、確かな怯えが滲んでいた。冗談や夢うつつではないと、エマは直感した。
***
さらに翌朝。
使用人部屋の片隅で交わされていた小さな声が、エマの耳に入る。
「……リジー、昨日の夜、泣いてたらしいよ。何か見たって」
「また? あの子、最近ずっと様子おかしいよね。マーガレットと話したあと、ずっと庭の方ばかり気にしてる」
エマは思わず息を詰めた。
(まだ、何かがそこにいる……)
そしてその“何か”は、マーガレットを、リジーを、そしてこの屋敷全体を、静かに巻き込もうとしているのかもしれない。
午後の陽射しが差し込む窓の向こう。バラの茂みを渡る風が、ほんの一瞬、肌寒く感じられた。




