55 薔薇の庭園
ダイニングでの朝食を終え、エマはゆるやかに廊下を歩き、自室へと戻る。
扉を開けると、カーテンが揺れるたびに春の光が床にやわらかく躍っていた。
ドレッサーの前で椅子に腰を下ろし、髪のほつれを直していたときだった。
コン、コン――
控えめなノック音が響く。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、侍女のサラだった。手には小さな封筒が乗った銀盆を携えている。
「お嬢様。朝のお届け物です」
「届け物……?」
思わず椅子から立ち上がり、封筒を受け取る。
上質な生成りの紙に、淡い青の封蝋が押されていた。差出人の名は記されていないが、その筆跡――まっすぐで端正、けれど少しだけ強い筆圧の文字に、エマはすぐに心当たりを覚える。
(……ライオネル様)
胸の奥が静かに高鳴る。指先が自然と封蝋へと伸びた。
「ありがとう、サラ。……これは、机に置いておいてくれる?」
「かしこまりました」
サラがそっと立ち去り、扉が閉まる。室内にひとりきりになったのを見計らって、エマは慎重に封を開いた。
中には、折り目も丁寧につけられた便箋が一枚。文字数は多くない。けれど、すべての言葉が、まっすぐで、彼らしい。
『昨日の夜は、ありがとう。
君と話せた時間が、どれだけ貴重だったか……きっと、言葉にはできない。
今度は、昼の光のもとで君に会いたい。
君が好きだと言っていたバラを、見せてくれないか。
数時間前に別れたばかりなのに、もう君に会いたい。
ライオネル』
読み終えたとたん、心臓が跳ねたような気がした。
手紙を胸元にそっと抱き寄せて、エマはしばらくそのまま目を閉じた。
夜の静けさとは違う、朝の光の中で交わされた言葉が、じんわりと身体を温めていく。
(……また、会える)
そう思えるだけで、こんなにも嬉しいものなのかと、少しだけ驚いた。
窓の外には、今日も変わらず、バラの庭が広がっている。
けれど、そこに立つ自分の姿は――昨日とは、少しだけ違って見える気がした。
***
手紙をドレッサーの引き出しにそっとしまうと、エマはゆっくりと立ち上がった。
気がつけば、自然と足が庭の方へと向かっている。
陽はすでに高く、春の空気にはかすかに土の匂いが混じっている。通い慣れた廊下を抜け、ガラス扉を開けると、バラの庭が広がった。
咲き始めたばかりの花々が、まだ小さな蕾をたたえたまま朝日を受けている。
エマはふと、奥の花壇のあたりに人影を見つけた。
男がひとり、しゃがみ込んで枝の間に手を伸ばしている。動きは静かだが、無駄がない。刃の入れ方、剪定の角度、枝の持ち方――どれも熟練しているように見えた。
「……こんにちは」
声をかけると、男が手を止め、振り返った。
エマは熟練した手つきに反して、男がまだ若いことに驚いた。エマより数歳上といったところだろうか。けれど、鋭さを帯びた瞳は、年齢よりも少しだけ大人びている。
「……おや。お嬢様でしたか」
彼は立ち上がり、作業帽を軽く取って頭を下げた。胸元のボタンのあたりに、使用人用の銀のバッジが見える。
「新しく入られた庭師の方?」
「はい。ルークと申します。今朝からこちらの管理に加わりました」
エマは少しだけ歩み寄る。風に揺れる枝が、彼の横顔をかすめた。
「……ずいぶん手慣れていらっしゃるのですね」
「いえ、まだまだです。ここほど立派な庭は、あまり扱ったことがありませんでしたので」
その言葉とは裏腹に、彼の手には長年の経験と確信がにじんでいた。エマはほんの少しだけ、彼の剪定していた枝に目をやる。
「そのバラ……少し弱ってますか?」
「ええ。土が締まりすぎています。水はけも、昨夜の雨で限界だったようで」
「気づかなかったわ」
「目立ちませんから。けれど……」
ルークは言いかけて、ふと目線を逸らした。
「……変なことを言うようですが、このあたりの土、妙に冷たいんです。日が当たっているはずなのに。……地面の下に、何かあるのかもしれません」
エマの背筋に、わずかな緊張が走った。
風がそっと吹き抜け、バラの枝がかすかに揺れた。
何気なく足元の土に目を向けると――ほんの一瞬、白い何かが覗いたような気がした。乾いた土に沈む、小さなかけら。
エマはすぐに視線を戻す。
(……今のは)
確信はない。でも、いつもの“感覚”が、微かにざわめいた。
「……気になりますね」
「はい。無断で掘り返すのは、規則違反でしょうが……」
「あとで執事に話しておきます。あなたが気づいてくれたおかげよ」
ルークは、どこか意外そうな顔でこちらを見た。
「……ありがとうございます」
その声には、ほんのわずかに柔らかさがあった。
エマは微笑み返し、ふと目を細めた。
「……あなた、お名前を伺ったばかりだけれど、どこかでお会いしたかしら?」
「……いえ。……いいえ、多分……初めてです」
言い淀んだ答えに、何か含むものを感じたが、それ以上は聞かなかった。
その代わりに、もう一度庭の奥を見渡す。
バラはまだ咲ききっていないけれど、もうすぐ見頃を迎える。
(……その時、彼をここに案内できるかしら)
ライオネルの手紙の一文が、再び胸によみがえる。
『君が好きだと言っていたバラを、見せてくれないか』
風がふたたび吹き、エマの髪をかすかに揺らした。




