54 いつものローズベリー家
そっと扉を開けて、静かに足を踏み入れた瞬間――
『まあまあまあまあ! こんな時間に帰ってくるなんて! これでは不良令嬢エマ・ローズベリーですわね』
いきなり飛び出してきた声に、エマはビクリと肩を跳ねさせた。
「っ……! オードリー夫人っ!」
屋敷の薄暗い廊下の隅に、いつものごとく優雅に宙に浮かぶオードリー夫人の姿があった。ふわりと広がるドレスの裾と羽根飾りが、夜風に舞った花びらのように揺れている。
『おほほ、夜のお散歩はいかがでした? あらまあ、それは男物の外套? 外套を借りているということは、人気がなく肌寒いところ……星空の綺麗な湖畔ってところかしら? ふたりきりで湖畔なんて、まぁロマンチック! まるで恋愛小説のワンシーンですわねぇ!』
「す、鋭い……! どうしてそういうことだけは妙に鋭いんですか……」
『ふふふ、わたくしは恋の名探偵ですの。殿方の視線を集めるより簡単でしてよ。 それにしても外套まで借りて……おほほほ、やだもう、わたくし赤面してしまいそう! ああ、若いって素敵!』
エマは顔を真っ赤にしながら、ケープの端をぎゅっと握りしめた。
「何も特別なことはしてません。ただ……少し、お話をしていただけで」
『あら、その“少し”が一番大事なんですのよ。そうして想いは育っていくのですわ。さあ、わたくしが若かった頃の話もして差し上げましょうか? あの冬の夜、侯爵家の御曹司とふたりで舞踏会を抜け出して――』
「もう、今日は疲れたので休みます!」
エマはほとんど逃げるように自室へと歩き出す。だが、背後から聞こえてくる声は止まらない。
『ちょっと、聞きなさいましな! この話にはちゃんとロマンスの教訓が――! あら、ほんとに行っちゃうの? エマ、おやすみなさいませ〜!』
ドアを閉めると、ようやく静けさが戻ってきた。けれどその頬には、再びほんのりと火が灯っている。
エマはそっと外套に触れ、目を伏せた。
(……また、会える)
胸の奥に灯るその言葉を抱きしめるように、エマは静かにベッドへと身を沈める。
今日のことを思い出しながらゆっくりと眠りに落ちていくのだった。
***
朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。レースの隙間からのぞく空は淡く、夜の気配はもうどこにもなかった。
エマはまどろみの中でまばたきをひとつし、それからゆっくりと目を開けた。
(……夢じゃなかった)
枕元の椅子には、昨日彼が肩にかけてくれた外套が掛けられたままだ。そっと指先でその布に触れると、まだほんのり温もりが残っている気がした。
昨夜の静けさと風、あの声、あの眼差し――胸の奥に、それらが静かに灯っている。
「……支度をしなくちゃ」
気持ちを切り替えるように呟いて、エマはベッドから体を起こした。
ほどなくしてサラが部屋に入ってきて、いつもと変わらぬ朝の身支度が始まる。
「よく眠れましたか、お嬢様?」
「ええ。よく眠れた気がするわ」
言いながら鏡を見つめると、自分の顔がどこかやわらかく見える気がした。サラは何も言わずに微笑み、髪を整えてくれる。
整えを終えると、エマはダイニングへと向かった。
朝食の席では、父と兄のウィリアムが先に座っており、母も席に着いたところだった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう、エマ」
「おはよ。珍しく遅刻してないな」
「もう、失礼ね。いつもそんなに遅れてないわよ」
ウィリアムの冗談に、エマはややむくれ気味に返す。家族の会話はごく普通で、特別なことは何ひとつ口にのぼらなかった。
パンと卵料理、温かな紅茶。とりとめのない話題がぽつぽつと交わされ、食卓には穏やかな時間が流れていた。
「そういえばエマ、今日午後に庭師が入るらしいぞ。バラの手入れをするんだとか」
「そうなの? ……じゃあ、昼前に少し見に行こうかしら」
「まだ咲き始めたばかりだが、今年は早いな。春はあっという間だ」
伯爵のそのひと言に、家族がうなずく。
やがて食事が終わり、父とウィリアムはそれぞれの用事へと席を立った。
「執務室にいるぞ、ウィリアム」
「ああ、あとで伺います」
コーヒーカップを手にしたまま、兄が先に部屋を出ていく。そのあとを伯爵も追うようにして去り、ダイニングにはエマと母だけが残された。
サラが静かに食器を下げている。エマは立ち上がろうとしたそのとき、背後からそっと名前を呼ばれた。
「エマ」
「……はい?」
振り返ると、母がカップを持ったまま、椅子に腰かけていた。
その声も表情も穏やかで、けれどどこか芯の通った気配があった。
「夜はまだ冷えるわ。 昨日みたいに外に出るなら、ケープの下にもう一枚重ねて出た方がいいわよ」
「……っ」
一瞬、息が止まる。
母はあくまで何気ない風を装って、紅茶をひとくち飲んだ。
エマはうなずくしかなかった。
「……気をつけます」
母はそれに満足したように、ふっと笑った。
「そうしてちょうだい」
それだけ言って、静かに席を立つ。
その後ろ姿を見送りながら、エマはいつもより早い胸の鼓動を感じていた。
(……全部見透かされてる気がする……やっぱりお母様には敵わないわ)
怒られるわけではない。問い詰められることもない。けれど、それは確かに、母なりの“見ている”というサインだった。
エマは扉を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
母の言葉の意味を反芻しながら――その胸の奥に、昨夜の面影をそっとしまい込んだ。




