52 見せたかったもの
音楽が静かにフェードアウトしていく。
最後の音が夜風に溶けたとき、ふたりの足も自然と止まった。
「……ありがとうございます。こんなに楽しい夜は初めてです」
エマがぽつりと呟くと、ライオネルは少しだけ視線を遠くに向けた。
「君を連れていきたいところがあるんだ。もう少しだけいいかな?」
***
音楽が遠ざかり、屋台の明かりが背後に小さくなっていく。
ふたりは人通りの少ない小道を抜け、街の外れへと向かっていた。
「どこへ行くんですか?」
「ちょっとした、抜け道を。……君に見せたいものがある」
そう言ったライオネルの横顔には、どこか少年のような無邪気さがあった。
エマは問い返すのをやめ、静かに彼の後を追った。
石畳の道が途切れ、やがて緩やかな草の斜面に変わる。
風が草を揺らし、遠くから水音が聞こえ始めた。
「……湖?」
「そう。だけど、ここから見るのがいいんだ」
ライオネルはエマの手を取って、茂みの先を指し示す。
視界が開けたその先には――
静かな湖畔と、鏡のように星を映す水面が広がっていた。
「……きれい……!」
息を呑むような光景。
空の星々がそのまま湖面に降りてきたかのようだった。
「ねえ、あそこ。小さな桟橋があるだろ? あそこで座ると、星が落ちてきそうなほど近く見える」
ふたりは湖の縁にある古びた桟橋まで歩き、並んで腰を下ろした。
水面が波打つたび、星が揺れる。
「いつもここでひとりで来てた。でも、君にこの景色を見せたかったんだ」
ライオネルの声が穏やかに湖面に溶けていく。
「……本当に綺麗」
「だろ?」
エマは静かにうなずき、そっと星空を仰いだ。
湖面を渡る夜風が、ふたりの間をやさしく吹き抜ける。
エマは膝の上で手を重ね、ライオネルの横顔をちらりと見つめた。
「……ここ、よく来られるんですか?」
「たまにね。小さい頃から、息が詰まるとここに来てた。何もないけど、静かで、誰にも見られない」
「わかる気がします。私も、ひとりになれる場所……よく探してました」
「ふふ、意外だな。君の家は、立派な庭園があるって聞いたけど」
「ええ。でも……どこにいても、誰かの目がある気がして」
ライオネルは少しだけ目を細めた。
「たぶん、似てるのかもしれないね。……表の顔と、本当の自分が違うって、思うことがある?」
「あります。ずっと、そうでした。……今でも」
ふたりの視線が重なった。
火照ったように感じるのは、夜風のせいじゃない。
「……私、前はずっと、誰にも心を開けなかったんです。怖くて。笑われたり、否定されたりするのが……」
ライオネルはエマの手をそっと取る。力ではなく、温もりだけを伝えるように。
「君が話してくれたこと、全部、大事にする。……君がどんな人でも、ちゃんと受け止める」
その言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます。ライオネル様は、いつも……あたたかいですね」
「ライオネルと呼んでほしい。ここでは、ただの俺だから」
エマは小さく笑い、静かにうなずいた。
「……ライオネル」
名前を呼ぶのは、ほんの一瞬の勇気だった。けれどその音は、夜空の下でしっかりと響いた。
「……今夜、君が隣にいてくれてよかった」
「私も……です。こんな夜は、初めてで……きっと、ずっと忘れません」
ふたりは並んで夜空を仰いだ。
満天の星が、まるで祝福するように輝いていた。




