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50 夜の市場へ

石畳を踏みしめる足音が、夜の静けさの中に優しく響く。

屋敷の裏門の前に立つエマは、薄手のケープのフードを目深にかぶり、そっと辺りを見渡した。


(大丈夫、誰も見ていない……はず)


それでも心臓の鼓動は早く、手のひらには薄く汗がにじむ。

こんなふうに、自分の意志で屋敷を抜け出すのは、生まれて初めてのことだった。


そのとき――


「ようこそ、脱出劇の共犯者さん」


軽やかで、どこか楽しげな声が背後から聞こえた。


エマが振り返ると、闇に溶け込むような黒いフードの青年が立っていた。

けれど、その佇まいには馴れ馴れしさも不安もない。ただ、そこに“彼”がいるというだけで、空気がやわらいでゆく。


「……ライオネル様」


「ただの“ライオネル”だよ、今夜はね」


にっと笑うその表情は、いつもの王子のそれよりも、ずっと自由で無防備だった。


彼は一歩近づくと、さっと手を差し出した。


「さあ、エマ。今夜は少しだけ、冒険に出かけよう」


その手を取るまでの間、ほんの一瞬だった。

気づけば、指先は自然に彼の手の中に収まっていた。


「……はい」


声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。


二人は並んで裏道を抜け、小さな門を越えた。

その先に広がるのは、昼間とはまるで違う顔を見せる市場の通り。


夜の街は、優しい灯りに照らされ、穏やかにざわめいていた。

屋台からはパンの焼ける香り、スープの湯気、果物を売る声があちらこちらで飛び交い、道ゆく人々は笑顔を交わしている。


エマは思わず、息をのんだ。


「……こんなににぎやかなんですね、夜の市場って」


「昼より人の顔が見えるんだ。灯りの下では、みんな肩の力を抜いてる」


ライオネルはそう言って、彼女を導くように歩き出す。

エマもその隣に歩を進め、目に映るすべてが新鮮に感じられた。


「ほら、あれ。焼きたての蜜林檎のパイ。ここのは絶品だよ」


「そんなに……?」


「もちろん。王宮でもここのものを取り寄せたがる人がいるくらい」


「えっ、それって……」


「うん、実はあそこの屋台の常連なんだ」


まるで悪戯を仕掛けた少年のような笑み。

その無邪気な笑顔に、エマもつられて小さく笑った。


パイを一つ買い、二人で分けながら歩く。

蜜の香りと優しい甘さが、胸の奥まで染み渡っていく。


その味に満たされながら、エマはふと気づいた。


――ああ、私、誰かといてこんな風に笑ってる。


肩の力を抜いて、心を許せる相手の隣で、ただ歩くということ。

それだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。

前世では考えもしないことだった。


「……エマ?」


「えっ、はい?」


「楽しそうに笑ってるとこ、すごく可愛い」


その言葉に、エマは思わず俯いてしまった。

でも、耳まで赤くなったことは隠しきれない。


(顔が熱い……)



ライオネルはそんな彼女を見て、静かに一言つぶやく。


「こうして君がちゃんと楽しめてるなら誘って本当によかった」


その言葉は、エマの胸の奥にそっと染み込んだ。



(……ありがとう、ライオネル様)


その声に出せなかった思いを胸に秘めながら、エマはもう一歩、彼の隣に近づいた。


二人の影が、夜の石畳に並ぶ。

それは、不思議とあたたかく、どこまでも優しかった。

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