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49 夜の屋敷を抜け出して

それから数日後――。


エマは自室の窓辺に腰かけ、小さな包みを手にしていた。

白いリボンで丁寧に結ばれたそれは、屋敷に届けられた文とともに、今朝、ライオネルから届いたものだった。


手紙には、こう綴られていた。


「明日、日が暮れてから。屋敷裏の古い門の前に。

誘拐犯が君を連れ出す準備は万全だ。

変装道具も、忘れずに。」


エマは手紙を読み終えたあと、思わずふっと笑った。

彼の冗談めいた文面に、どこか子どもじみた無鉄砲さを感じて。


包みの中には、淡いベージュのフード付きケープと、質素な編み上げ靴。

貴族の娘が決して身につけないような、庶民の少女の装い。


「……本当に、本気なのね」


エマはふっと笑い、小さく肩をすくめた。


あの夜、ライオネルが言った言葉を思い出す。


『君を攫ってでも連れ出したい、って言ったら引かれる?』


(ほんとに、実行するなんて)


頬が自然と熱を帯びる。

でも、怖くはなかった。


むしろ、この数日、彼からの連絡を待っていた自分に、エマは少し驚いていた。


そのとき、扉をノックする音がした。


「お嬢様、お茶の支度が整いました」


「ありがとう、サラ。すぐ行くわ」


一度ケープを包みに戻し、引き出しの奥にそっとしまう。

まるで宝物を隠すように、慎重に。


指先が、知らぬ間に胸元に触れていた。

鼓動が、少しだけ速くなる。


エマはゆっくりと深呼吸をし、微笑んだ。


(――ちゃんと、“エマ”として笑えるように、なりたいな)


静かな決意を胸に、扉を開けた。


***


そして、翌日――。


太陽が沈み、空が濃い藍色に染まり始める頃。

 エマは寝室の窓辺に立ち、手袋を嵌めながら深呼吸をする。心臓がどくどくと高鳴っていた。


(まさか……本当に、自分がこんなことをするなんて)


 これまで夜更かしすら滅多にしなかった彼女にとって、“屋敷を抜け出す”という行為は、まるで冒険物語の登場人物にでもなったかのような非現実だった。


 控えめに灯りを残し、そっと扉を開ける。――静寂。誰の気配もない。

 足音を立てぬよう、スカートの裾を持ち上げてそろりそろりと進む。暖炉の消えた空気が肌に冷たく触れ、背筋を這うような緊張が続く。


(サラには、ちゃんと休むって言っておいたし……今なら、誰にも気づかれずに……)


 けれど、そう思った瞬間だった。


『――まあ、夜のレディがそんな格好で、どちらへ?』


 その声は、ひやりと首筋を撫でる風とともに、耳元に囁かれた。


 エマはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。そこには、うっすらと光を帯びたドレス姿の婦人――オードリー夫人が、宙にふわりと佇んでいた。


「お、オードリー夫人……!」


 思わず声をひそめて呼ぶと、夫人は片手に扇を持ったまま、まるで舞踏会の途中のように優雅に微笑んだ。


『抜け出すには、もう少し上品なステップをお学びにならないとね。廊下のきしみ音が丸聞こえよ?』


「そ、そんなに音を立てていたでしょうか……?」


『あなたの“ドキドキ”の方が、音よりうるさいわ。心臓の鼓動が壁に響いてるようなものですもの』


 エマは顔を赤らめながら、小さく肩をすくめた。


「その……少しだけ、街へ行く約束をしていまして。すぐに帰りますから」


『夜に女の子が抜け出すのは、たいていロマンスかスキャンダル。どちらにせよ、私の出番ね』


 オードリー夫人はくるりと宙を舞い、軽やかにエマの前に現れる。


『お相手は誰? まさか、あの王子様? 今夜の装いはどんな感じかしら?』


「い、言いません……!」


 エマはあたふたと手を振る。その姿が微笑ましかったのか、オードリー夫人は声を立てて笑った。


『あらまあ、秘密主義。よろしいわ、レディには謎がつきものだもの。でも――』


 ふと、夫人の表情が少しだけ陰を帯びる。


『夜の街には、輝きもあれば影もあります。浮かれて足元をすくわれないように。エマ、お気をつけなさい』


「……はい。ありがとう、オードリー夫人」


 オードリー夫人は「まあ、忠告まで素直に受け入れるなんて可愛いこと」と呟きながら、すうっと霧のように姿を消した。


 その場に残されたエマは、しばらくその場で立ち尽くしていたが、再び呼吸を整えると、廊下の奥へと慎重に歩き出した。

 先ほどよりも一歩一歩が落ち着いているのは、きっとオードリー夫人が見守ってくれているという安心感が、心のどこかにあるからだろう。


 そうして、エマは誰にも知られず、静かに夜の屋敷を抜け出した――胸の高鳴りを抱きながら。



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